第111話 鎖の向こうにいるあなたへ
ドクン。
ドクン。
ドクン。
街全体を覆う黒紫色の鎖が、巨大な心臓のように脈打っていた。
その中心には、ミレイユがいる。
いや。
正確には、ミレイユだったものがいる。
無数の鎖が彼女の身体を覆い、腕や脚だけでなく、背中や肩からも伸びていた。
その姿は、まるで鎖そのものが人間の形を取ったかのようだった。
「……ミレイユさん」
ソアは呟いた。
《全解除》によって、装備はすべて身体から離れている。
世界巡鎧の各部は、淡い光をまといながら宙に浮かんでいた。
しかし、ソア自身の呼吸は荒い。
足元も、少しふらついている。
全力を出した代償は、確実に身体へ現れていた。
「ソア、無理をしないで」
レイナが隣に立つ。
《絶対鏡盾》には、いくつもの亀裂が走っていた。
それでも、彼女は盾を下ろさなかった。
「今のあなたは、すでに限界に近いはずよ」
「……うん。ちょっと、きついかも」
「ちょっとじゃないでしょう」
「……かなり?」
「そういう問題じゃないわ!」
いつものやり取り。
けれど、今は笑う余裕さえなかった。
シードが、ソアの足元へ歩み寄る。
「……ソア」
「ん?」
「……いたい?」
ソアは少し驚いた。
それから、いつものように笑った。
「大丈夫。まだ動けるよ」
「……うそ」
「えっ」
「……ソア、つらいとき、いつも、そういう」
「……」
ソアは言葉に詰まった。
シードは、小さな手でソアの指を握った。
「……ひとりで、がんばらない」
その言葉に、ソアは目を細めた。
「……そうだね」
そして、シードの頭を優しく撫でた。
「ありがとう」
ソアは、再び鎖の中心を見つめた。
「……みんなで、助けよう」
レイナが頷く。
「ええ」
シードも頷いた。
「……みんなで」
*
ドクンッ!!
鎖が大きく脈打った。
次の瞬間、黒紫色の光が図書館全体を覆った。
「来るわ!」
レイナが盾を構える。
床から伸びた鎖が、三人へ襲いかかった。
ガガガガガッ!!
レイナの《絶対鏡盾》が光を放つ。
「《絶対鏡盾》!」
バァンッ!!
巨大な障壁が展開され、鎖を受け止めた。
しかし。
ギギギギギ……!
「くっ……!」
障壁に亀裂が走る。
鎖は、単純に盾を破壊しようとしているわけではなかった。
盾を伝って流れる魔力を吸い上げ、内側から拘束しようとしている。
「この鎖……! 私の力まで取り込むつもり!?」
レイナは盾を握り直した。
「シード! 魔力の流れを見て!」
「……うん!」
シードが地面に両手をついた。
緑色の根が広がる。
床の下。
壁の向こう。
街の外へ。
根は、黒紫色の鎖が作り出した魔力の経路を探っていった。
「……みつけた」
シードが顔を上げる。
「……ぜんぶ、まんなかに、あつまってる」
「ミレイユさんのところ?」
ソアが尋ねた。
「……うん。でも……」
シードは、不安そうに鎖を見つめた。
「……ちがう」
「違う?」
「……ミレイユ、あつめてるんじゃない」
シードは言葉を探すように、少しだけ間を置いた。
「……みんなが、いなくならないように……ぜんぶ、つないでる」
ソアは息を呑んだ。
ミレイユは、街の魔力を自分のものにしようとしているわけではない。
誰も失わないために。
誰も自分の手の届かない場所へ行かないように。
すべてを鎖でつなぎ、ひとつにまとめようとしているのだ。
その願いが、魔力の流れを歪めてしまっている。
「……そっか」
ソアは、ゆっくりと立ち上がった。
「だったら、やっぱり……」
鎖の中心へ、一歩踏み出す。
「ミレイユさんに会わなきゃ」
「待って、ソア!」
レイナが声を上げる。
「正面から進むのは危険よ! 今の鎖は、あなたの《スキンブースト》でさえ抑えきれない!」
「うん。分かってる」
「なら――」
「でも、ここで止まったら、ミレイユさんはずっと一人のままだよ」
ソアは振り返った。
「それは、嫌なんだ」
レイナは、何も言えなかった。
ソアは再び前を向く。
「レイナ。盾で道を作ってくれる?」
「……分かったわ」
「シードは、魔力の流れを教えて」
「……うん」
「私は、その道を進む」
ソアは拳を握った。
「今度こそ、ミレイユさんのところまで行くよ」
*
「《絶対鏡盾》――展開!」
レイナが盾を地面へ叩きつけた。
バァァンッ!!
光の障壁が、鎖の群れを押し返す。
完全に止めることはできない。
それでも、一瞬だけ道が開いた。
「今よ、ソア!」
「ありがとう!」
ソアが駆け出す。
ダッ!!
鎧を身につけていない身体は軽い。
だが、以前のように自由自在に動けるわけではなかった。
《全解除》で高まった力は、すでに少しずつ不安定になっている。
足を踏み出すたびに、身体の奥が軋むような感覚があった。
それでも、止まらない。
一本目の鎖を避ける。
二本目をくぐる。
三本目が足元から伸びてくる。
「そこっ!」
ソアは跳んだ。
鎖が足先をかすめる。
着地と同時に、次の鎖が迫った。
「くっ……!」
避けきれない。
ソアの腕に、黒紫色の鎖が巻きついた。
ギリッ!
「っ……!」
鎖が、魔力を吸い上げようとする。
しかし、ソアは引きちぎろうとしなかった。
目を閉じる。
鎖の表面を流れる魔力。
その先にある、別の鎖への接続。
さらにその奥にある、乱れた循環。
「……ここだ」
ソアは、鎖の流れに意識を集中させた。
力任せに破壊するのではない。
絡み合った糸を、一本ずつほどくように。
魔力の向きを、ほんの少しだけ変える。
パキンッ。
鎖がほどけた。
「……よし!」
ソアは走り出す。
けれど、次の瞬間。
ドォンッ!!
「きゃあっ!」
横から伸びた巨大な鎖が、ソアの身体を吹き飛ばした。
床を転がる。
息が詰まる。
「ソア!!」
レイナの声が響いた。
ソアは、なんとか身体を起こした。
「……いたた……」
腕が震えている。
視界も、少しぼやけていた。
それでも。
「……まだ、いける」
立ち上がろうとした。
その瞬間、足元が崩れた。
「……え?」
身体が傾く。
ソアは、とっさに手を伸ばした。
けれど、指先が床に触れるより早く、鎖が身体へ巻きついた。
ギリギリギリッ!
「ぐっ……!」
両腕が固定される。
足も動かない。
魔力が、再び押さえ込まれていく。
「ソア!」
レイナが駆け出そうとした。
しかし、盾の障壁が限界を迎える。
バキィィン!!
「くっ……!」
《絶対鏡盾》が大きく弾かれた。
レイナは片膝をつく。
「……まだ、なのに……!」
シードも、根を伸ばそうとする。
けれど、黒紫色の鎖が根を覆い、魔力の流れを塞いでしまった。
「……うごいて……!」
シードの声が震える。
「……お願い……!」
それでも、根は届かない。
ソアは、二人を見つめた。
「……レイナ。シード」
声を出すのも苦しかった。
「……ごめんね」
「謝らないで!」
レイナが叫ぶ。
「あなたが謝ることなんて、何もないでしょう!」
「……でも」
「でもじゃない!」
レイナは、震える腕で盾を持ち上げた。
「私たちは仲間よ! 一人で全部背負う必要なんてない!」
ソアは、目を見開いた。
その言葉は、かつてミレイユに伝えたかった言葉と同じだった。
――一人で全部守らなくていい。
――私たちだって、あなたを守りたい。
なのに、自分自身はどうだろう。
自分もまた、ミレイユを助けたい一心で、限界を超えようとしていた。
ソアは、小さく息を吐いた。
「……そっか」
そして、レイナを見つめる。
「……ありがとう」
その瞬間。
ソアの周囲に浮かんでいた《世界巡鎧》が、かすかに光った。
胸当て。
肩当て。
腕当て。
脚甲。
兜。
どれも、ソアを守るために作られた装備だ。
けれど今、ソアはそれらを身につけていない。
装備を失ったから、強くなった。
それは間違いではない。
でも。
今、ソアを支えているのは、《スキンブースト》の力だけではなかった。
レイナが、盾を持ち上げてくれている。
シードが、届かなくても根を伸ばしてくれている。
そして、ミレイユは。
誰も失いたくないと願い、誰よりも一人で苦しんでいる。
「……ミレイユさん」
ソアは、鎖の向こうを見つめた。
「あなたが怖いのは、分かるよ」
鎖が軋む。
「大切な人を失うのは、怖いよね」
ミレイユの姿は、まだ見えない。
それでも、ソアは続けた。
「私だって、怖いよ」
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
「鎧が壊れるのも、なくなるのも、嫌だよ。大好きだから」
少しだけ笑う。
「でも、失うのが怖いからって……何も変わらないように、全部を縛りつけたら……」
ソアは、鎖に触れた。
「一緒に進むことも、できなくなっちゃうよ」
その言葉に。
鎖の動きが、一瞬だけ止まった。
*
「……何を、言っているの……?」
鎖の中心。
暗闇の中で、ミレイユが顔を上げた。
周囲には、無数の鎖が渦巻いている。
その一本一本が、彼女の記憶を映し出していた。
かつて救えなかった少女。
届かなかった手。
崩れ落ちる街。
そして、もう二度と同じ思いをしたくないという願い。
何度も。
何度も。
同じ記憶が繰り返される。
「……私は、もう失いたくないの」
ミレイユは、胸元を押さえた。
「誰も……失いたくない……」
鎖が、彼女を包み込む。
まるで、優しく抱きしめるように。
「だから、守るの……」
そのとき。
暗闇の向こうから、声が聞こえた。
「ミレイユさん」
ソアの声だった。
「私たちは、ここにいるよ」
ミレイユの瞳が揺れる。
「……ソア?」
「レイナもいるよ。シードもいる」
少し間が空いた。
「……私も、いるわよ!」
レイナの声が聞こえた。
「まったく……! こんなところで終わらせてたまるものですか!」
「……わたしも、いる」
シードの声が続いた。
「……みんなで、かえる」
ミレイユは、目を見開いた。
鎖が、激しく揺れた。
「……どうして……」
涙が、頬を伝う。
「どうして、あなたたちは……そこまでして……」
答えは、すぐに返ってきた。
「仲間だからだよ!」
ソアの声だった。
「ミレイユさんが私たちを大切に思ってくれているように、私たちだって、ミレイユさんが大切なんだよ!」
鎖が、一本、震えた。
「……っ」
「だから、戻ってきて!」
ソアは、全身を拘束されながらも、手を伸ばした。
「私たちと一緒に、帰ろう!」
ミレイユの目から、涙がこぼれ落ちた。
けれど。
その瞬間、鎖が再び暴れ出した。
ドォォォン!!
ソアの身体が、床へ叩きつけられる。
「ぐっ……!」
「ソア!!」
レイナが叫ぶ。
ミレイユの姿を覆う鎖が、さらに太くなっていった。
「……だめ……!」
ミレイユは頭を抱えた。
「来ないで……! お願いだから……!」
声が震える。
「あなたたちまで、失いたくないの……!」
鎖が、ミレイユ自身の身体を締めつけていた。
黒紫色の紋様が、腕から首元へと広がっていく。
ソアは、それを見逃さなかった。
「……ミレイユさん!」
ミレイユは顔を上げた。
その瞳は、涙で濡れていた。
「……助けて……」
ほんの小さな声だった。
鎖の轟音にかき消されそうなほど、弱々しい声。
それでも、ソアには届いた。
「……お願い……」
ミレイユの唇が震える。
「……もう、どうしたらいいのか……分からないの……」
その瞬間。
ソアの表情が変わった。
ようやく、届いた。
ほんの少しだけ。
ミレイユ自身の、本当の声が。
ソアは、鎖に拘束された手を伸ばした。
「……大丈夫」
苦しくても。
身体が震えていても。
もう一度、笑った。
「今度は、私たちが一緒に考えるから」
鎖が、再び脈打つ。
まだ、戦いは終わっていない。
ミレイユの願いは、まだ鎖の奥に絡みついている。
それでも。
ほんのわずかに。
黒紫色の光の中に、淡い紫色の輝きが混じり始めていた。
鎖は、まだミレイユを縛っている。
けれど、その奥で。
彼女自身の心が、確かに動き始めていた。




