第110話 鎧を脱いでも、私は私
古代図書館が、激しく揺れていた。
壁を這う黒紫色の鎖。
床を覆う呪いの紋様。
そして、街全体へと広がる、歪んだ魔力の流れ。
その中心に、ミレイユ・アルカナが立っていた。
「……もう、やめて」
ミレイユの声が震える。
「お願いだから……これ以上、私に逆らわないで……」
無数の鎖が、ソアたちへ向かって伸びていく。
レイナが《絶対鏡盾》を構えた。
「ソア! 来るわよ!」
「うん!」
ソアは頷いた。
けれど、その身体はまだ鎖に拘束されたままだった。
《全解除・パージ》は通じない。
魔力の循環も封じられている。
いつものように装備を操作して突破口を作ることもできない。
ならば。
残された方法は、ひとつ。
「……よし」
ソアは、静かに息を吸った。
「やりますか」
その声は、不思議なくらい落ち着いていた。
そして、胸元の《巡りの雫》に手を添える。
「レイナ」
「何?」
「シード」
「……うん」
二人がソアを見つめた。
「これから、すっごく恥ずかしいことになるかもしれないけど……」
「今、その説明は必要なの!?」
レイナが叫ぶ。
「必要だよ! 心の準備って大事だから!」
「戦闘中に何の準備をさせるつもりなのよ!」
ソアは、ほんの少しだけ笑った。
いつものやり取り。
いつもの仲間。
こんな状況なのに、二人がそばにいることが、どうしようもなく嬉しかった。
「……お願いね」
ソアは、二人にそう告げた。
そして。
目を閉じる。
自分の胸当て。
肩当て。
腕当て。
脚甲。
兜。
ひとつひとつを思い浮かべた。
この鎧は、大好きだ。
重くて。
頑丈で。
着ると安心できて。
冒険を始めてから、何度も自分を助けてくれた。
ようやく手に入れた、新しい相棒。
できることなら、ずっと着ていたい。
壊したくない。
傷つけたくない。
手放したくない。
でも。
ソアは、目を開けた。
目の前には、苦しんでいるミレイユがいる。
大切な仲間を助けるために、今、自分ができること。
その答えは、もう決まっていた。
「……《全解除》」
ソアの声が、図書館に響いた。
次の瞬間。
カッ――!
眩い光が、全身から放たれた。
「なっ……!?」
ミレイユが目を見開く。
ソアを拘束していた鎖が、一斉に震えた。
ギギギギギッ!!
黒紫色の鎖が、光に押し返されていく。
胸当て。
肩当て。
腕当て。
脚甲。
そして、兜。
ソアを覆っていた装備が、次々と身体から離れた。
ガシャン!
ガァン!
ドォン!
重厚な金属音が、図書館に響き渡る。
しかし、装備は壊れていなかった。
それぞれが淡い光をまといながら、宙に浮かんでいる。
胸元の《巡りの雫》が、強く輝いた。
ソアは、すべての装備を失った。
その代わりに。
彼女の身体を縛っていた鎖が、完全に解けた。
「……成功、した?」
ソアは、自分の手を見つめた。
握る。
開く。
身体を動かす。
軽い。
驚くほど、軽い。
けれど、それだけではなかった。
身体の奥から、熱い力が湧き上がってくる。
今まで何度も経験してきた、《スキンブースト》の感覚。
それが、これまでとは比較にならないほど強くなっていた。
ソアの周囲に、淡い光が走る。
ステータスが、視界の端に浮かび上がった。
【状態:全解除】
【固有能力:《スキンブースト》――出力上昇】
【魔力循環:一部回復】
【警告:急激な能力上昇を確認】
「……うわ」
ソアは思わず声を漏らした。
「何これ……すごい」
今までなら、速く走るだけでも驚いていた。
今は違う。
床を伝わる魔力の流れ。
鎖の一本一本に刻まれた呪いの紋様。
ミレイユの周囲で乱れている魔力の循環。
そのすべてが、はっきりと感じられた。
まるで、世界そのものが少しだけ近づいたようだった。
「……ソア?」
レイナが呆然と呟く。
目の前に立つ少女は、いつものソアだった。
けれど、その身のこなしも、立ち姿も、纏う空気さえも違っていた。
ソアは、ふっと笑った。
「……よし!」
そして。
「ミレイユさん!」
地面を蹴った。
ダンッ!!
「!?」
一瞬だった。
ソアの姿が消えたように見えた。
次の瞬間には、ミレイユの目の前にいた。
「なっ……!」
ミレイユが反射的に鎖を放つ。
四方八方から黒紫色の鎖が襲いかかった。
しかし。
ソアは、すべてを避けた。
身体をひねる。
床を蹴る。
わずかな隙間を抜ける。
まるで、鎖の動きを先に知っているかのようだった。
「そんな……!」
ミレイユの瞳が揺れる。
「この鎖は、魔力の流れまで拘束するはず……!」
「うん!」
ソアは、鎖の隙間をすり抜けながら答えた。
「でも、今の私は、鎧に縛られてないから!」
「……っ!」
「それに!」
ソアは踏み込んだ。
「ミレイユさんの鎖、ちゃんと見えるよ!」
ソアの手が、一本の鎖に触れた。
バチッ!
黒紫色の火花が散る。
鎖は弾け飛ぶことなく、ソアの手を締めつけようとした。
しかし、ソアは手を引かなかった。
鎖の表面に刻まれた紋様。
そこから流れ込む魔力。
その先で、別の鎖へとつながる経路。
すべてが見えていた。
「……ここが、つながってるんだ」
ソアは、鎖を力任せに引きちぎろうとはしなかった。
代わりに、魔力の流れを読み取る。
そして、流れの向きをほんの少しだけ変えた。
パキンッ!
一本の鎖が、静かにほどけた。
「……え?」
ミレイユが息を呑んだ。
破壊されたわけではない。
ただ、拘束するために組まれていた魔力の流れが、解かれたのだ。
鎖は光の粒となり、空中へ溶けていった。
「そんなことまで……!」
「私も、びっくりしてる!」
ソアが叫ぶ。
「でも、今ならできそうなんだ!」
その言葉と同時に、周囲の鎖が一斉に襲いかかった。
ミレイユは、もう迷っていなかった。
「だったら……!」
両腕を広げる。
「《百呪・深淵》!」
ドォォォン!!
黒紫色の魔力が爆発した。
鎖が何重にも重なり、巨大な檻となってソアを包み込む。
床から。
天井から。
壁の向こうから。
あらゆる方向から、呪いの力が押し寄せる。
「ソア!」
レイナが叫ぶ。
ソアは両手を広げた。
避けきれない。
すべてを受け止めることもできない。
それでも。
「……まだまだ!」
ソアは、全身に力を込めた。
鎖が身体に触れる寸前。
ソアの周囲で、魔力が弾けた。
バァンッ!!
黒紫色の檻が、大きく歪んだ。
鎖の一部が弾き飛ばされる。
しかし、すべてではない。
残った鎖がソアの腕に絡みついた。
「くっ……!」
力が強い。
《全解除》で解放された能力をもってしても、ミレイユの呪いを完全に突破することはできなかった。
ミレイユもまた、強い。
ただ強いだけではない。
長年積み重ねてきた知識と、無数の呪いを操る技術。
そして、何よりも。
誰かを失いたくないという、強烈な願い。
それが、鎖に力を与えている。
「……どうして、そこまで……!」
ミレイユの声が響いた。
「どうして、そこまでして私を止めようとするの!?」
ソアは、鎖に絡まれた腕を見つめた。
そして、笑った。
「だって!」
顔を上げる。
「ミレイユさんは、私の仲間だから!」
「……っ!」
「一緒に冒険したいんだよ!」
ソアの声が、図書館に響き渡った。
「また勝負したいし! また呪いの訓練もしてほしいし!」
「今、それを言うの!?」
レイナが思わず叫んだ。
「だって大事だもん!」
「そういうところは、本当に変わらないわね……!」
レイナは苦笑しながら、《絶対鏡盾》を構え直した。
その盾に、淡い光が集まっていく。
「……なら、私も手伝うわ!」
レイナが地面を踏みしめた。
「《絶対鏡盾》――魔力循環!」
盾が輝く。
ソアの周囲で乱れていた魔力の流れが、少しずつ整っていく。
シードも、小さな手を伸ばした。
「……わたしも」
足元から、緑色の根が広がる。
根は鎖を破壊しない。
その隙間を通り、街へ伸びる魔力の経路を探し始めた。
「……ながれ、みつけた」
シードの葉が、淡く光った。
「……ソア、ここ!」
「ありがとう、シード!」
ソアは、示された鎖を見つめた。
そこには、街の人々から吸い上げられた魔力が集まっていた。
その流れは、図書館の奥へ。
そして、ミレイユ自身へとつながっている。
ソアの表情が変わった。
「……そっか」
ミレイユは、街の人々を守ろうとしている。
そのために、街全体の魔力を自分の鎖へ集めているのだ。
けれど、その力は彼女自身の魔力経路まで侵食し始めている。
このままでは。
ミレイユ自身が、鎖に飲み込まれてしまう。
「ミレイユさん!」
ソアは叫んだ。
「もういいよ! 一人で全部守らなくていいんだよ!」
「……黙って!」
ミレイユが鎖を振るう。
ソアの身体が、壁際まで吹き飛ばされた。
「ぐっ……!」
背中が壁にぶつかる。
息が詰まった。
それでも、ソアは立ち上がった。
「私たちは、ミレイユさんに守られるだけの存在じゃない!」
足元が震える。
身体は重い。
魔力も、少しずつ消耗している。
それでも。
「私たちだって、ミレイユさんを守りたいんだよ!」
その言葉に。
ミレイユの手が、止まった。
ほんの一瞬。
たった一瞬だった。
けれど、ソアは見逃さなかった。
ミレイユの胸元。
黒紫色の鎖の中心に、淡い光が揺れている。
そこには、まだ残っていた。
誰かを傷つけたくないという願い。
大切な人たちと一緒にいたいという、本当の気持ち。
その小さな光が、呪いの奥で必死に輝いていた。
「……ミレイユさん」
ソアは、ゆっくりと手を伸ばした。
「私は、ここにいるよ」
鎖が、ソアの指先に触れる。
今度は、弾かれなかった。
けれど。
ミレイユの瞳から、涙がこぼれた。
「……来ないで」
その声は、もう怒りではなかった。
恐怖だった。
「お願い……来ないで……」
鎖が再び暴れ始める。
ソアの手が弾き飛ばされた。
魔力の流れが乱れ、レイナの盾にも亀裂が走る。
シードが苦しそうに膝をついた。
「……っ、ソア……!」
「シード!」
ソアは駆け寄ろうとした。
しかし、足がふらついた。
「……あれ?」
視界が揺れる。
《全解除》によって解放された力は、確かに強大だった。
だが、それを支える身体にも限界がある。
急激に高まった能力。
不安定な魔力循環。
そして、鎖をほどくために繰り返した魔力操作。
ソアの体力は、確実に削られていた。
ステータスが視界に浮かぶ。
【警告:魔力循環の不安定化】
【警告:能力維持限界が接近】
「……そろそろ、きついかな」
ソアは苦笑した。
全力を出しても、まだ届かない。
ミレイユを救うには、もう一歩足りない。
それでも。
ソアは、ミレイユから目を逸らさなかった。
「……大丈夫」
小さく呟く。
「まだ、諦めないから」
宙に浮かぶ《世界巡鎧》が、淡い光を放っていた。
兜も。
胸当ても。
肩当ても。
すべてが、ソアの周囲で静かに待っている。
手放したからといって、消えたわけではない。
大切にしてきた時間も。
鎧と一緒に積み重ねた思い出も。
何ひとつ、なくなってはいなかった。
ソアは、もう一度だけ深く息を吸った。
「……よし」
そして、ミレイユに向かって歩き出す。
今度は、鎖を壊すためではない。
勝つためでもない。
ただ、彼女の手を取るために。
けれど。
ミレイユを覆う黒紫色の鎖は、最後の抵抗をするかのように、図書館全体を震わせた。
ドォォォン!!
床が砕ける。
壁が崩れる。
そして、ミレイユの身体が、鎖の奥へと沈んでいった。
「ミレイユさん!!」
ソアが手を伸ばす。
あと少し。
あと、ほんの少しだった。
しかし、その手は届かなかった。
黒紫色の鎖が、ミレイユの姿を完全に覆い隠す。
静寂。
ソアは、その場に立ち尽くした。
「…………」
やがて。
鎖の奥から、ミレイユの声が聞こえた。
「……もう、誰も失わない」
低く、震える声。
「あなたたちのことも……私自身のことも……」
黒紫色の光が、図書館の天井を突き破った。
街全体の魔力が、一点へと集まり始める。
そして、ソアの視界に、見慣れない文字が浮かび上がった。
【《深淵の呪鎖》――同調率:臨界】
【願望反応:制御不能】
【警告:魔力経路の侵食が全身へ拡大】
ソアは、息を呑んだ。
「……ミレイユさん」
全力を出した。
大切な鎧も、手放した。
それでも、まだ救えていない。
けれど。
ソアは、ゆっくりと拳を握った。
「……絶対に、助けるから」
その言葉だけは、決して揺らがなかった。
鎖の奥で、ミレイユが泣いていることを。
ソアは、まだ知らなかった。
そして、次の瞬間。
街全体を覆う鎖が、まるで巨大な心臓のように脈打った。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
その中心で。
ミレイユの願いは、最後の変化を迎えようとしていた。




