第109話 鎧よりも、大切なもの
ギリギリギリ……。
黒紫色の鎖が、古代図書館の壁を這い回っていた。
その先端は、窓を抜け、通りを越え、街の中心へと伸びている。
鎖に覆われた人々は、動かない。
家々を照らしていた魔法灯も、ひとつ、またひとつと光を失っていた。
「……まずいわね」
レイナが、拘束された腕に力を込める。
「この鎖、私たちを捕らえるだけじゃない。街中の魔力まで吸い上げている」
「……うん」
シードが、床に手をついた。
小さな指先から、淡い緑色の光が広がる。
しかし、光は鎖に触れた瞬間、黒紫色に染まって消えてしまった。
「……ながれ、もっていかれる」
「シードでも、難しいの?」
ソアが尋ねる。
「……うん。鎖が、ぜんぶ、つないでる」
シードは悔しそうに俯いた。
「ひとつ、ほどいても……ほかが、しめる」
つまり、一本の鎖を壊したところで意味がない。
街全体に張り巡らされた鎖が、互いに力を補い合っているのだ。
レイナがミレイユを睨んだ。
「ミレイユ! このままでは街の魔力が尽きるわ!」
「大丈夫よ」
ミレイユは静かに答えた。
「必要以上に吸い上げたりはしないわ。みんなが安全に暮らせるだけの魔力は残す」
「そういう問題じゃない!」
レイナの声が響いた。
「人々の意思まで奪っているのよ!」
「意思?」
ミレイユは不思議そうに首を傾げた。
「誰も傷つかず、誰も失わず、穏やかに暮らせる。それ以上に大切なことがあるの?」
「あるわ!」
レイナは即答した。
「自分で選ぶことよ!」
ミレイユの表情が固まる。
「……選んだ結果、大切な人を失っても?」
「……っ」
レイナは言葉を詰まらせた。
失うことの痛みを、彼女だって知らないわけではない。
守れなかった命。
届かなかった手。
それでも、彼女は剣を握ってきた。
「それでも……人の人生を、あなたが決めていい理由にはならない!」
レイナが叫んだ。
しかし、ミレイユは首を横に振る。
「……ごめんなさい、レイナ」
その声には、確かな悲しみがあった。
「でも、私はもう……失いたくないの」
鎖が脈動した。
ズンッ!
「ぐっ……!」
ソアの全身が押さえつけられる。
胸当ての表面を、黒い紋様が走った。
「ソア!」
「だ、大丈夫……!」
ソアは息を整えながら、意識を集中した。
今の状況を打開する方法。
ひとつだけ、試していないものがある。
《全解除・パージ》。
装備や付与効果を選択して解除する、ソアの固有能力。
以前なら、これで呪いの鎖を外せた。
だが、今の《絶対拘束》は、スキルの起動そのものを封じている。
それでも。
「……やってみるしかないよね」
ソアは目を閉じた。
自分の胸当て。
肩当て。
腕当て。
脚甲。
ひとつひとつを意識する。
そして、心の中で命じた。
――《全解除・パージ》。
その瞬間。
胸元の《巡りの雫》が輝いた。
淡い光が鎖の隙間を抜け、胸当ての表面を走る。
「……いける!」
ソアの顔が明るくなった。
けれど。
パキンッ!
「……え?」
光が、砕けた。
まるで透明な壁にぶつかったかのように、解除の力が弾き返される。
胸元に走っていた光が消えた。
ソアは呆然とした。
「……うそ」
もう一度。
《全解除・パージ》。
今度は肩当てを意識する。
しかし、結果は同じだった。
魔力が鎖に吸い込まれ、スキルの発動が中断されてしまう。
「そんな……!」
ソアは何度も試した。
胸当て。
肩当て。
腕当て。
どこを選んでも、解除できない。
大切な鎧が、まるで身体の一部になったかのように固定されていた。
「……ソア、もういい!」
レイナが叫ぶ。
「無理に力を使えば、あなたまで危険よ!」
「でも……!」
「今は、別の方法を考えましょう!」
ソアは唇を噛んだ。
別の方法。
何かあるはずだ。
今までだって、何度も危機を乗り越えてきた。
翼を使った。
鎧を飛ばした。
《成長共鳴》で力を組み合わせた。
でも、今はそのすべてが封じられている。
鎧を動かせない。
魔力を流せない。
装備を外すこともできない。
そして、時間が経つほど、街の魔力が失われていく。
「……どうしたらいいの」
ソアの声が震えた。
そのとき。
「ソア」
ミレイユが、静かに呼びかけた。
「もう、頑張らなくていいのよ」
ソアは顔を上げる。
「あなたは、十分に頑張ったわ」
ミレイユは微笑んでいた。
「もう危険な場所へ行かなくていい。もう傷つかなくていい。大切なものを失う恐怖に怯えなくてもいい」
一歩、近づいてくる。
鎖が床を滑る。
「あなたの大好きな鎧も、私が守ってあげる」
「……!」
「壊れないように。傷つかないように。あなたが何も失わなくて済むように」
ミレイユは、ソアの胸当てにそっと触れた。
「だから、もう抵抗しないで」
その手つきは優しかった。
本当に、優しかった。
ソアが大切にしているものを、理解しているからこその優しさだった。
けれど。
「……違うよ」
ソアが、小さく呟いた。
「……え?」
「私の鎧は……」
ソアは、胸当てを見つめた。
何度も壊れた。
何度も修理した。
そして、前の鎧が完全に壊れたときには、残された破片をすべて手放した。
あのときは、本当に悲しかった。
もう二度と、あの鎧を着られないと思ったから。
でも、あの鎧があったからこそ、今の《世界巡鎧》が生まれた。
失ったものが、何もかも消えてしまうわけではない。
大切にしてきた時間は、ちゃんと残っている。
「……私、鎧が大好きだよ」
ソアは顔を上げた。
「重いし、動きにくいし、すぐ修理代がかかるし!」
「そこは否定できないわね……」
レイナが小さく呟いた。
「でも!」
ソアは、ミレイユをまっすぐに見た。
「私が鎧を好きなのは、何も失わなくて済むからじゃない!」
ミレイユの目が揺れた。
「鎧を着て、冒険して、強くなって。時には壊れて……それでも、また新しい鎧と一緒に進めるから!」
ソアは、拘束された手を握りしめた。
「失うことがあっても、そこで全部終わりじゃないんだよ!」
「……ソア」
「だから……!」
言葉が詰まった。
目の前にいるのは、敵ではない。
かつて自分を鍛えてくれた、強くて、誇り高くて、少し残念なところもある大切な仲間だ。
そのミレイユが、今にも壊れてしまいそうな顔をしている。
助けたい。
もう一度、一緒に笑いたい。
また「次こそは私が勝つわ!」と言ってほしい。
そして、そのたびに自分が「ありがとうございます! いい訓練になりました!」と返して、怒られたい。
そんな、どうでもよくて。
でも、ソアにとっては何よりも大切な未来を。
失いたくなかった。
「……私、ミレイユさんを助けたい」
ソアは、はっきりと言った。
「鎧が壊れてもいい。大切なものを手放すことになってもいい」
胸元の《巡りの雫》が、再び淡く光る。
「だから、お願い。もう、自分ひとりで全部抱え込まないで」
ミレイユの表情が歪んだ。
「……やめて」
「ミレイユさん」
「やめてって、言っているでしょう!」
黒紫色の鎖が、一斉に暴れ出した。
ガガガガガガッ!!
図書館の床が砕け、壁に亀裂が走る。
街へ伸びる鎖が激しく脈動し、魔法灯の光が次々と消えていった。
「きゃっ!」
シードが、鎖の衝撃に弾き飛ばされる。
「シード!」
ソアは反射的に手を伸ばした。
けれど、鎖に拘束された腕は動かない。
シードの身体が床に叩きつけられる、その寸前。
レイナの《絶対鏡盾》が、淡い光を放った。
ガァンッ!
光の盾がシードを受け止める。
「……っ、間に合った!」
レイナが歯を食いしばる。
しかし、鏡盾にも黒い亀裂が広がっていた。
「このままでは、持たない……!」
ソアは、二人を見た。
レイナも限界に近い。
シードも、魔力の流れを読み取るだけで精一杯だ。
そして、ミレイユは。
「……どうして」
両手で頭を抱え、震えていた。
「どうして、みんな……私の言うことを聞いてくれないの……?」
鎖が彼女の周囲で渦巻く。
「私は、ただ……失いたくないだけなのに……!」
ソアの胸が、締めつけられた。
もう、時間がない。
このままでは、ミレイユ自身も、街の人々も、そして仲間たちも危険にさらされる。
《全解除・パージ》では届かない。
今の力では、鎖を外せない。
ならば。
残された手段は、ひとつしかなかった。
ソアは、ゆっくりと目を閉じた。
頭の中に、あのときの記憶がよみがえる。
初めて《全解除》を使ったとき。
すべての装備が消え、力が解き放たれた、あの瞬間。
そして、そのあとに襲ってきた、どうしようもない恥ずかしさ。
「…………」
ソアの頬が、ほんのり赤くなった。
「……いや、でも」
こんな状況で、何を考えているのだろう。
自分でもそう思った。
けれど、ソアにとって鎧を手放すことは、単に装備を外すということではない。
自分を守ってくれるもの。
安心できる場所。
ずっと大切にしてきた、自分らしさの象徴。
それを、自分から手放す。
怖くないはずがなかった。
「……ソア?」
レイナが、彼女の表情に気づいた。
ソアはゆっくりと目を開ける。
「レイナ」
「……何?」
「お願いがあるの」
その声は、いつになく真剣だった。
「もし私が、全部外しちゃったら……そのときは、私のことを守ってくれる?」
レイナは一瞬、目を見開いた。
そして、すぐに頷いた。
「当然よ」
「……そっか」
ソアは、ほっとしたように笑った。
「じゃあ、シードもお願いね」
「……うん」
シードが、しっかりと頷く。
「ソア、まもる」
「ありがとう」
ソアは深く息を吸った。
胸元の《巡りの雫》が、今度は消えずに光り続ける。
装備を拘束していた鎖が、その光に反応して震えた。
まるで、これから起きることを恐れているかのように。
ソアは、自分の胸当てにそっと手を添えた。
「……ごめんね」
今度は、はっきりと分かった。
この言葉は、鎧に向けたものだった。
「ちょっとだけ、力を貸してね」
そして。
ソアはミレイユを見つめた。
「ミレイユさん」
その瞳には、もう迷いがなかった。
「今度は、私があなたを助ける番だよ」
淡い光が、ソアの全身を包み始める。
鎖が激しく軋んだ。
ミレイユが顔を上げる。
「……何をするつもり?」
ソアは、静かに答えた。
「私の、最後の手段」
その瞬間。
胸元の《巡りの雫》が、強く輝いた。
そして、ソアの中で。
ずっと封じられていた力が、目を覚まそうとしていた。




