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『鎧を脱いだら、世界が変わった』  作者: ムファッサー
第十章 深淵の呪鎖

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第108話 絶対拘束


 ギィィィィ……。


 古代図書館の扉が、ゆっくりと閉じていく。


 その向こう側では、街中へ伸びた黒紫色の鎖が、建物や人々を覆い尽くしていた。


 誰も動けない。


 誰も逃げられない。


 けれど、鎖に覆われた人々は傷ついているわけではなかった。


 むしろ、穏やかな表情で立ち尽くしている者さえいる。


 まるで、何も心配する必要などないと言われているかのように。


「……これが、ミレイユさんの力……」


 ソアは唇を噛んだ。


 目の前に立つミレイユ・アルカナ。


 彼女の周囲には、無数の鎖が浮かんでいた。


 以前、ソアと戦ったときに見せた呪いの鎖とは違う。


 黒い。


 重い。


 そして、どこか悲しい。


「ミレイユさん。もうやめよう?」


 ソアは剣を下ろしたまま、声をかけた。


「みんなを助けたいんだよね?」


「……ええ」


 ミレイユは静かに頷いた。


「だからこそ、止めるわけにはいかないの」


「でも……!」


「あなたたちは、いつだって危険な場所へ向かう。強敵に立ち向かい、傷つき、それでも前へ進もうとする」


 ミレイユの指先が動く。


 鎖が、かすかに揺れた。


「私はもう、そんなあなたたちを見ているだけなんて嫌なのよ」


「ミレイユさん……」


「今度こそ、誰も失わない。そのためなら、私がすべてを引き受けるわ」


 その瞳には、迷いがなかった。


 だからこそ、ソアには分かった。


 今のミレイユは、本気なのだ。


 誰かを傷つけたいわけではない。


 誰かを支配したいわけでもない。


 ただ、失いたくない。


 その願いだけが、彼女をここまで追い詰めてしまった。


「……そっか」


 ソアは剣を握り直した。


「じゃあ、止めるね」


 ミレイユの眉がわずかに動く。


「……ソア?」


「ミレイユさんを、助けるために」


 ソアは盾を構えた。


 その背後で、レイナが大剣を持ち上げる。


「私も協力する。ミレイユを一人にはしない」


「……わたしも」


 シードが小さな手を握りしめた。


「みんなで、かえる」


 ミレイユは三人を見つめた。


 そして、悲しそうに目を伏せる。


「……どうして、分かってくれないのかしら」


 次の瞬間。


「《絶対拘束》」


 世界が、止まった。


 ガギィィィン!!


「っ!?」


 ソアの足元から黒紫色の鎖が飛び出した。


 両足。


 両腕。


 胴体。


 瞬く間に全身を拘束される。


「ソア!」


 レイナが駆け出す。


 だが、その足にも鎖が絡みついた。


「くっ……!」


 大剣を振り下ろそうとする。


 動かない。


 腕に力を込めても、鎖はわずかに軋むだけだった。


「なんて拘束力……!」


 シードもまた、床から伸びた鎖に捕らわれていた。


 小さな身体を引っ張られ、床に膝をつく。


「……う、ごけない」


 ミレイユがゆっくりと手を下ろした。


「抵抗しなくていいのよ」


 その声は、ひどく優しかった。


「あなたたちが無理をしなければ、誰も傷つかない」


「……っ」


 ソアは身体をひねった。


 ガシャン!


 鎧が音を立てる。


 しかし、鎖はびくともしなかった。


「ええいっ!」


 ソアは力任せに引っ張った。


 ガギギギッ!


 鎖が軋む。


 ほんの少しだけ、隙間ができた。


「いける……!」


 ソアはさらに力を込める。


 その瞬間。


 ズンッ!


「ぐっ!?」


 全身に、奇妙な重さがのしかかった。


 鎧の重量とは違う。


 身体そのものが、動くことを拒まれているような感覚だった。


「な、何これ……!」


「《絶対拘束》は、肉体だけを縛る力ではないわ」


 ミレイユが説明する。


「筋力の発揮、魔力の循環、スキルの起動。そのすべてを、鎖の内側に留めるの」


「魔力の……循環?」


 ソアは息を呑んだ。


 試しに、肩当てを動かしてみる。


 普段なら、魔力を流すだけで少し浮かせられるはずだった。


 けれど。


 ピクリとも動かない。


「……うそ」


 もう一度、意識を集中する。


 肩当てに魔力を送る。


 しかし、魔力は鎖に触れた途端、流れを失ってしまった。


 まるで、水路に栓をされたように。


「そんな……!」


「あなたの力は、装備を外すことで高まるのでしょう?」


 ミレイユは悲しげに微笑んだ。


「でも、外そうとする力さえ封じてしまえばいい」


 ソアの背筋に、冷たいものが走った。


 これまでの敵とは違う。


 力で押し切ることも。


 鎧を遠隔操作して隙を作ることも。


 鎖の拘束を《全解除・パージ》で外すことも。


 そのすべてが、簡単には通じない。


 ミレイユは、ソアの能力を知ったうえで対策しているのだ。


「……ミレイユさん」


「安心して。あなたたちを傷つけるつもりはないわ」


 ミレイユが手を伸ばす。


 その指先から、細い鎖が伸びてきた。


「ただ、ここにいてくれればいいの」


 鎖がソアの胸当てに触れる。


 カチリ。


 留め具が固定された。


「……え?」


 続いて、肩当て。


 腕当て。


 脚甲。


 鎧の各部を、鎖が覆っていく。


 ソアの装備そのものが、拘束の一部に組み込まれていた。


「ちょ、ちょっと待って!?」


 ソアが慌てる。


「鎧まで縛らないでよ!」


「……そこなの?」


 レイナが思わず突っ込んだ。


「今、気にするところはそこじゃないでしょう!」


「だって! これ、世界巡鎧なんだよ!?」


「分かっているわ!」


「分かってるなら、もっと丁寧に扱ってぇぇぇ!」


「ソア!!」


 レイナの怒声が図書館に響いた。


 けれど、いつものようなやり取りは、すぐに途切れた。


 鎖が、さらに強く締まったからだ。


 ギリ……ギリギリ……。


「くっ……!」


 ソアは歯を食いしばる。


 鎧が壊れそうなほどの圧力ではない。


 むしろ、装備を傷つけないように、絶妙な力加減で固定されている。


 そのことが、かえって恐ろしかった。


 ミレイユは本当に、ソアたちを傷つけないつもりなのだ。


 逃げられないように。


 抵抗できないように。


 何も失わなくていいように。


 すべてを縛りつけようとしている。


「……そんなの」


 ソアは顔を上げた。


「そんなの、守ってるって言わないよ」


 ミレイユの表情が、わずかに曇る。


「……ソア」


「私たちは、自分で進みたいんだよ」


「その結果、失うことになったら?」


 ミレイユの声が震えた。


「あなたが傷ついたら? レイナが倒れたら? シードが消えてしまったら?」


 鎖が、強く脈打つ。


「そのとき、私はどうすればいいの?」


 誰も、すぐには答えられなかった。


 ミレイユの願いが、痛いほど伝わってきたからだ。


 失うことが怖い。


 間に合わないことが怖い。


 手を伸ばしても、届かないことが怖い。


 だから、もう二度と手の届かない場所へ行かせたくない。


 その気持ちを、ソアは否定できなかった。


 それでも。


「……ミレイユさん」


 ソアは、まっすぐに彼女を見つめた。


「私、あなたに助けてもらったことがあるよ」


「……」


「レイナも。シードも。きっと、たくさんの人がそうだと思う」


 ソアは拘束された腕に力を込めた。


「だから今度は、私たちがミレイユさんを助ける番だよ」


「……やめて」


「やめない」


「お願いだから……!」


 ミレイユの周囲で、鎖が激しく揺れた。


「これ以上、私の大切な人たちを危険にさらさないで!」


 バキッ!


 床に亀裂が走った。


 図書館の壁を覆う鎖が、一斉に脈動する。


 ソアの身体を拘束していた鎖も、さらに太くなった。


「ぐっ……!」


 魔力が流れない。


 身体が動かない。


 装備を外すことすら、許されない。


 そして、ミレイユの願いは、もう彼女自身にも止められなくなり始めていた。


 シードが顔を上げる。


「……ソア」


「……大丈夫」


 ソアは、できる限り明るく笑った。


「絶対、なんとかするから」


 けれど、その言葉とは裏腹に。


 ソアの胸の奥には、初めて味わう焦りが広がっていた。


 今までの戦いなら、どんなに追い詰められても方法はあった。


 鎧を外せばいい。


 装備を壊せばいい。


 力を解放すればいい。


 でも、今は。


 その最初の一歩すら、封じられている。


 ソアは自分の胸当てを見つめた。


 大切な鎧。


 何度も修理し、ようやく手に入れた、新しい相棒。


 その鎧が、今は自分を縛る鎖の一部になっている。


「……どうすれば」


 小さな呟きは、誰にも届かなかった。


 そのとき。


 胸元の《巡りの雫》が、かすかに光った。


 鎖の隙間から、淡い光が漏れる。


 ソアは目を見開いた。


「……これって」


 しかし、光はすぐに弱まってしまった。


 まだ、道は見えない。


 ただ一つ、はっきりしていることがあった。


 このままでは、ミレイユを救えない。


 そして。


 ミレイユを救うためには、ソア自身が、今まで大切にしてきた何かを手放さなければならないのかもしれなかった。


 ソアは、胸当てにそっと額を寄せた。


「……ごめんね」


 誰に向けた言葉なのか。


 ソア自身にも、まだ分からなかった。


 ただ、鎖の向こうで苦しむ友人を見つめながら。


 ソアは、初めて本当の意味で考え始めていた。


 自分が手放したくないものと、本当に守りたいもの。


 その二つが、同じではなかったとしたら――。

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