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『鎧を脱いだら、世界が変わった』  作者: ムファッサー
第十章 深淵の呪鎖

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第106話 逃げられない優しさ


 ジャラジャラジャラッ!!


 無数の鎖が、地下図書館を埋め尽くしていた。


 床を走り、壁を這い、天井から垂れ下がる。


 その中心に立つのは、百呪の魔女ミレイユ・アルカナ。


 そして、鎖に拘束されたソア、レイナ、シードの三人だった。


「……ミレイユさん」


 ソアは、手首に巻きついた鎖を見つめた。


 動けないほど強く締めつけられているわけではない。


 痛みも、ほとんどない。


 むしろ、奇妙なほど優しかった。


 まるで、転ばないように手を引いてくれているかのように。


「……これ、外してくれない?」


「駄目よ」


 ミレイユは微笑んだ。


「あなたは、すぐに危険なことをするでしょう?」


「えっ?」


「危険な遺跡に入って、強い魔物と戦って、鎧を壊して……」


「うっ」


 ソアの肩が跳ねた。


「そ、それは……」


「この前だって、胸当てが大変なことになったのでしょう?」


「なんで知ってるの!?」


「ギルドの記録に残っていたわ」


「ギルド、そこまで記録してるの!?」


 レイナが呆れたように息を吐いた。


「……今、そこを気にするところ?」


「だって、鎧の破損記録まであるなんて……!」


「ソア!」


「はい!」


 思わず背筋を伸ばすソア。


 しかし、ミレイユはそのやり取りを見て、穏やかに笑っていた。


「ね? あなたは、こうしているだけでも危なっかしいのよ」


「……それは、ちょっと否定できないかも」


「だから、私が守ってあげる」


 ミレイユは、ソアの頭に手を伸ばした。


 その手が触れる直前。


 ソアは、そっと顔を上げた。


「……でもさ」


「何かしら?」


「私、今までだって、危ないことはあったよ」


 ソアは、自分の手首に巻かれた鎖を見つめた。


「怖いこともあったし、失敗もした。仲間に助けてもらったことも、いっぱいある」


「…………」


「でも、それでも冒険したいんだ」


 ミレイユの微笑みが、わずかに揺れた。


「……どうして?」


「だって、楽しいから!」


 ソアは、いつもの明るい笑顔を浮かべた。


「みんなと一緒に、いろんな場所へ行きたい。知らないものを見たい。困ってる人がいたら助けたい。それに……」


 少しだけ、頬を緩める。


「新しい鎧だって、もっと使いこなしたいし!」


「……そこなの?」


 レイナが小さく呟いた。


「大事なことだよ!」


「はいはい……」


 いつもなら、そこでミレイユも笑ったはずだった。


 けれど。


「……危険な目に遭っても?」


 ミレイユは、笑わなかった。


「もし、次に帰ってこられなかったら?」


「……」


「もし、あなたが目の前で倒れて、私が手を伸ばしても届かなかったら?」


 声が震え始める。


「それでも、冒険を続けたいと言うの?」


 ソアは、すぐには答えられなかった。


 ミレイユが何を恐れているのか。


 ようやく、少しだけ分かった気がした。


「……ミレイユさん」


「私は嫌なの」


 ミレイユは、胸元を押さえた。


「もう、誰かがいなくなるのは嫌。大切な人が、手の届かない場所へ行ってしまうのは……もう嫌なのよ」


 その瞬間。


 彼女の腕に巻きついた鎖が、黒く輝いた。


 ソアは目を細めた。


 ミレイユが言葉を重ねるたびに、鎖が強くなっている。


 まるで、その恐怖を力に変えているようだった。


「……だから、みんなを縛るの?」


 ソアの問いに、ミレイユは顔を上げた。


「縛るんじゃないわ」


 静かな声だった。


「守るのよ」


     *


「……この鎖、厄介ね」


 レイナは、手首の拘束を調べていた。


 力を込めても、鎖はびくともしない。


 《鉄壁》を発動させようとすると、その瞬間に鎖が反応し、魔力の流れを押さえ込んでくる。


「魔力を使おうとすると、拘束が強まるみたい」


「じゃあ、魔法を使わなければいいの?」


「そう単純ではないわ。身体を動かすだけでも、ある程度は締めつけてくる」


 レイナは鎖を睨んだ。


「しかも、壊そうとするとミレイユの魔力が反応する。無理に破壊すれば、彼女まで傷つける可能性がある」


「……そっか」


 ソアは考え込んだ。


 自分の《全解除・パージ》なら、拘束を解除できるかもしれない。


 けれど、この鎖は単なる魔法効果ではない。


 ミレイユ自身の願いと結びついている。


 無理に解除すれば、彼女の心まで傷つけてしまうかもしれなかった。


「……シード、どう思う?」


 ソアが尋ねると、シードはミレイユをじっと見つめた。


「……ミレイユ」


「……何?」


 ミレイユが振り返る。


 シードは少し考えてから、言葉を探すように口を開いた。


「……かなしい?」


 ミレイユの表情が止まった。


「……え?」


「……ミレイユ、かなしい。こわい」


「…………」


「……だから、みんな、つかまえる?」


 ミレイユは、何も答えなかった。


 シードは、ソアの手を握りながら続けた。


「……ソア、つかまえなくても、いる」


 短い言葉だった。


 けれど、シードにとっては、それが当たり前のことだった。


 ソアはシードの隣にいる。


 いつも同じ場所にいるわけではない。


 離れて行動することもある。


 それでも、また一緒に帰ってくる。


 だからこそ、シードはソアを信じていた。


「……ソア、もどってくる」


 ミレイユの指先が震えた。


「……戻ってこなかったら、どうするの?」


 シードは、少しだけ考えた。


「……かなしい」


「…………」


「……でも、ソア、いなくならないように、しばるの、ちがう」


 鎖が、ピクリと動いた。


 ミレイユの腕に巻きついた黒い鎖が、ほんの一瞬だけ紫色に戻る。


 しかし、すぐに黒へと染まり直した。


「……あなたには、分からないわ」


 ミレイユが呟いた。


「失うことが、どれほど怖いかなんて……」


 シードは、悲しそうに目を伏せた。


「……わからない、こと、ある」


 そして、顔を上げる。


「……でも、ミレイユ、ひとり、いや」


「……っ」


 ミレイユの表情が、大きく揺れた。


 その言葉は、彼女がずっと聞きたかった言葉だったのかもしれない。


 誰かを失う恐怖に怯えなくてもいい。


 誰かを守るために、すべてを背負わなくてもいい。


 自分もまた、誰かと一緒にいていい。


 けれど。


 鎖は、そんな彼女の心を許さなかった。


 ――離れれば、失う。


 ――手を放せば、届かなくなる。


 ――ならば、つなぎ留めよ。


 黒い魔力が、再びミレイユの腕を覆った。


「……ごめんなさい」


 ミレイユは、小さく呟いた。


「……私は、もう失いたくないの」


     *


 その時だった。


 地下図書館の奥から、激しい轟音が響いた。


 ドォォォン!!


「なっ……!?」


 レイナが顔を上げる。


 壁に刻まれた魔法陣が、次々と黒く染まっていった。


 天井から石片が落ちる。


 鎖が一斉に震え、地下図書館全体を締めつけるように張り巡らされた。


「……何が起きてるの!?」


 ソアが叫ぶ。


 ミレイユも、驚いた表情で奥を見つめていた。


「そんな……まだ、制御できているはずなのに……!」


「ミレイユ! あなたにも分からないの!?」


「分からないわ! これは私が発動させたものじゃない!」


 その言葉と同時に、床の中央に黒い魔法陣が浮かび上がった。


 そこから、濁った魔力が噴き出す。


 黒い魔力は鎖を伝い、ミレイユの身体へ流れ込んでいった。


「……っ!」


 ミレイユが胸を押さえた。


「何、これ……!?」


 彼女の腕に巻きついた鎖が、さらに黒く染まっていく。


 紫色の光が、少しずつ飲み込まれていた。


 シードが声を上げる。


「……だめ!」


 頭の葉が強く輝いた。


「……ミレイユ、からだ、くろくなる!」


 ソアは、ミレイユを見つめた。


「ミレイユさん! その魔力、あなたのものじゃない!」


「……分かってるわ!」


 ミレイユは必死に鎖を引き剥がそうとした。


 しかし、黒い鎖は彼女の腕に食い込み、離れようとしない。


「……っ、離れなさい!」


 魔力が爆発した。


 バァンッ!!


 衝撃で、ソアたちの身体が壁へ叩きつけられた。


「きゃあっ!」


「ぐっ……!」


 レイナがソアをかばう。


 その隙に、鎖が三人の身体を再び拘束した。


「……そんな……!」


 ミレイユの目が見開かれる。


 彼女は仲間たちを見た。


 傷ついている。


 動けなくなっている。


 自分の力で。


「……私が……?」


 声が震えた。


「……私が、みんなを……」


 その瞬間、黒い魔力が囁いた。


 ――だから、もっと力を得よ。


 ――今のままでは、守れない。


 ――すべてをつなぎ留める力が必要だ。


 ミレイユは、首を振った。


「……違う」


 ――失いたくないのだろう?


「……違う!」


 ――ならば、願え。


 ――誰も離れない世界を。


 ――誰も傷つかない世界を。


 ミレイユの目から、涙がこぼれた。


「……私は……」


 ソアは、痛む身体を起こした。


「ミレイユさん……!」


 ミレイユが振り向く。


 ソアは、必死に笑おうとしていた。


「大丈夫……! 私たち、まだ大丈夫だから……!」


 その言葉が、かえってミレイユを追い詰めた。


 まだ大丈夫。


 今は、まだ。


 でも、次は?


 その次は?


 いつか、本当に手が届かなくなったら?


 もう、二度と取り戻せなくなったら?


「……嫌」


 ミレイユの声が、かすれた。


「……もう、嫌なの……」


 鎖が、彼女の背中で大きく広がった。


 黒い鎖が何本も重なり、翼のような形を作り出す。


 そして、彼女の前に新たな文字が浮かび上がった。


 【《深淵の呪鎖》――同調率上昇】


 【願望反応:増幅中】


 【警告:魔力経路の侵食を確認】


 ミレイユは、文字を見つめた。


「……増幅?」


 理解するより早く、黒い魔力が彼女の身体を包み込んだ。


 頭の中に、ひとつの考えが浮かぶ。


 自分が、もっと強くなればいい。


 もっと強くなれば、誰も傷つかない。


 もっと強くなれば、誰も失わずに済む。


 そのために、何が必要なのか。


 もう、答えは分かっていた。


「……そうよ」


 ミレイユは、ゆっくりと顔を上げた。


「私が、もっと強くなればいいのよ」


「……ミレイユさん?」


 ソアの声が届く。


 しかし、ミレイユはその声に答えなかった。


 彼女は両手を広げた。


 無数の鎖が、地下図書館全体へと広がっていく。


「もう、誰にも……」


 紫色の光が、最後の抵抗をするように輝いた。


 けれど、その光も少しずつ黒に飲み込まれていく。


「……誰にも、私の手の届かないところへ行かせない」


 その言葉と同時に。


 地下図書館のすべての扉が、音を立てて閉じた。


 ガシャンッ!!


 ソアたちは、完全に閉じ込められた。


 そしてミレイユは、まだ気づいていなかった。


 彼女が求めた力は、守りたい人たちを守るためのものではなく――


 守りたい人たちを、自分の手の中に閉じ込めるための力へと変わり始めていた。

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