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『鎧を脱いだら、世界が変わった』  作者: ムファッサー
第十章 深淵の呪鎖

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第103話 届かなかった手


 ――暗い。


 ミレイユ・アルカナが最初に感じたのは、それだった。


 手首に巻きついた紫色の鎖。


 身体を取り囲む巨大な魔法陣。


 そして、目の前に広がる、見覚えのある街並み。


「……ここは」


 石畳の道。


 立ち並ぶ家々。


 街の中央には、小さな噴水がある。


 かつてミレイユが暮らしていた街だった。


 しかし。


 空は赤く染まり、遠くから悲鳴が聞こえてくる。


 建物の壁には亀裂が走り、魔力灯は激しく点滅していた。


「……そんな」


 ミレイユは息を呑んだ。


 忘れるはずがない。


 何度夢に見たか分からない光景。


 自分の力が足りなかった、あの日。


「いや……」


 彼女は首を振った。


「これは過去よ。今の私とは関係ない」


 そう言い聞かせる。


 だが、手首の鎖が小さく震えた。


 ジャラリ。


 耳元で、声が響く。


 ――本当に?


「……っ!」


 ミレイユは顔を上げた。


 広場の向こうに、小さな少女が立っていた。


 淡い茶色の髪。


 白いワンピース。


 見覚えのある姿だった。


「……リナ?」


 少女は振り返った。


「ミレイユお姉ちゃん!」


 その声を聞いた瞬間、ミレイユの胸が締めつけられた。


 リナ。


 かつて、この街で暮らしていた少女。


 魔法の才能はほとんどなかったが、いつも笑顔で、困っている人を見つけると放っておけない子だった。


 ミレイユが初めて呪いの研究に成功した日も、真っ先に駆け寄ってきた。


『お姉ちゃん、すごい!』


 そう言って、満面の笑みを浮かべていた。


 そして、あの日。


 ミレイユが手を伸ばしても、救えなかった人の一人だった。


「……リナ」


 少女が駆け寄ってくる。


「ねえ、お姉ちゃん。助けて」


 ミレイユの足が止まった。


 目の前で、建物が崩れ始める。


 石壁が砕け、瓦礫が落ちてくる。


「危ない!」


 ミレイユは走り出した。


 杖を構え、魔法陣を展開する。


「《拘束陣》!」


 紫色の鎖が飛び出し、落下する瓦礫を受け止めた。


 しかし、すべては止められない。


 大きな石材が、リナの頭上へ落ちていく。


「リナ!」


 ミレイユは手を伸ばした。


 あと少し。


 あと少しで届く。


 だが。


 ガシャン!


 手首の鎖が強く締まった。


「……っ!?」


 身体が動かない。


 魔力も流れない。


 まるで、何かに縫い止められたようだった。


「どうして……!」


 瓦礫が落ちる。


 リナは、ただミレイユを見つめていた。


「お姉ちゃん……」


「待って!」


 ミレイユは必死にもがいた。


「今、助けるから!」


 しかし、鎖は緩まない。


 そして――


 ドォンッ!


 視界が、白く染まった。


     *


「……っ!」


 ミレイユは目を見開いた。


 目の前に広がっていた街並みが消え、暗い空間に戻っていた。


 息が荒い。


 額には汗が浮かんでいる。


「……幻影?」


 彼女は手首を見た。


 紫色の鎖は、まだそこにある。


 黒い侵食は、さっきよりも広がっていた。


「……なるほど」


 ミレイユはゆっくりと息を整えた。


「私の記憶を使って、心を揺さぶろうというわけね」


 鎖は答えない。


 ただ、静かに脈打っている。


 その足元に、文字が浮かび上がった。


 ――もっと力があれば、救えたのに。


 ミレイユは唇を噛んだ。


「……ええ。そうよ」


 否定はしなかった。


「あのとき、もっと力があれば。もっと早く術を使えていれば。もっと多くの人を守る方法を知っていれば……」


 彼女は拳を握りしめた。


「救えた人がいたかもしれない」


 鎖が反応した。


 紫色の光が強まる。


 ――ならば、力を求めよ。


 ――誰も失わぬための力を。


 ミレイユの目の前に、無数の鎖が現れた。


 それらは空間を埋め尽くし、やがて巨大な魔法陣を形作る。


 魔法陣の中心には、ひとつの光景が映し出された。


 燃える街。


 逃げ惑う人々。


 そして、彼女の手が届かなかった人々。


 だが、今度は違った。


 鎖が人々を包み込む。


 崩れかけた建物を支え、炎を閉じ込め、逃げ道を確保する。


 誰も傷つかない。


 誰も失われない。


 すべてが、鎖によって守られていた。


「……これは」


 ミレイユは目を見開いた。


 理想の光景だった。


 かつて望んだもの。


 何度も夢に描いたもの。


 誰も失わずに済む世界。


 鎖は、そのすべてを実現していた。


 ――願え。


 ――お前の望む世界を。


 ミレイユは、ゆっくりと手を伸ばした。


「……もし、本当にできるのなら」


 誰も失いたくない。


 誰にも悲しい思いをしてほしくない。


 もう二度と、あの日のような後悔をしたくない。


 その願いは、嘘ではなかった。


 けれど。


 ミレイユの手が、鎖に触れる寸前で止まった。


「……待って」


 彼女は、映し出された光景を見つめた。


 人々は、確かに守られていた。


 だが、誰一人として動いていなかった。


 鎖に包まれた人々は、ただその場に立ち尽くしている。


 逃げる必要もない。


 助け合う必要もない。


 何かを選ぶ必要もない。


 鎖が、すべてを決めているからだ。


「……これは」


 ミレイユの表情が曇った。


 街を守る鎖。


 人々を守る鎖。


 しかし、その鎖は人々の身体だけでなく、自由までも縛っていた。


「……こんなのは、違う」


 ミレイユは手を引いた。


「守るというのは、何もかもを私の思いどおりにすることじゃない」


 その瞬間。


 映像が崩れた。


 鎖が激しく震える。


 ――ならば、失うことを許容するのか。


「……っ」


 その声は、彼女の心の奥を突いていた。


 誰かが傷つくこと。


 誰かを救えないこと。


 手を伸ばしても届かないこと。


 それを受け入れられるのか。


 ミレイユは、すぐには答えられなかった。


 彼女は強い。


 百の呪いを操り、敵の力を削ぎ、戦場を支配するほどの魔女だ。


 それでも。


 大切な人を失う恐怖だけは、力では消せなかった。


「……私は」


 言葉が震えた。


「……まだ、分からない」


 鎖は静かに光った。


 ――ならば、答えを示せ。


 次の瞬間、暗闇が崩れた。


     *


 同じ頃。


 東方の街道。


「……見えてきた!」


 ソアが前方を指さした。


 遠くに、巨大な城壁が見える。


 その内側には、塔のような建物がいくつも並んでいた。


 エルディア。


 古代魔法の研究が盛んな都市だ。


「ようやくね」


 レイナが安堵の息を吐いた。


「ここまで来れば、ミレイユと合流できるはずよ」


「よかったぁ……」


 ソアは胸を撫で下ろした。


 そして、世界巡鎧の肩当てを確かめる。


「……よし。まだ壊れてない」


「今はそれより、ミレイユのことを考えなさい」


「もちろん考えてるよ!」


「本当かしら……」


 レイナが疑いの目を向ける。


 シードはソアの胸元に触れた。


「……ソア」


「ん?」


「……あのひと、くるしい」


 ソアの表情が変わった。


「ミレイユさん?」


「……うん。とおいけど、わかる」


 シードは目を閉じた。


 葉の先が、淡い緑色に光っている。


「……くろいながれが、からまってる」


 レイナは険しい表情を浮かべた。


「黒い魔力が、ミレイユを狙っているということ?」


「……たぶん」


 ソアは拳を握りしめた。


「……急ごう」


 翼を広げようとする。


 しかし、レイナがすぐに肩を掴んだ。


「待ちなさい」


「えっ?」


「飛ぶなら、三人で連携して進むわ。昨日のように、あなた一人で突っ込むのはなし」


「……はい」


「それと、無理に《成長共鳴》を使おうとしないこと。必要なときに、できる範囲で使うのよ」


 ソアは少し考えた。


 昨日、風と鎧の流れがつながった瞬間。


 自分の力だけでは動かせないものが、自然と動いた。


 けれど、あれをもう一度できるかは分からない。


「……うん。分かった」


 ソアは頷いた。


「でも、ミレイユさんを助けるために、できることは全部やるよ」


 レイナは小さく笑った。


「ええ。それでいいわ」


 三人は、再びエルディアへ向かって歩き始めた。


     *


 エルディアの地下。


 ミレイユの試練は、さらに深い場所へと続いていた。


 暗闇の中に、無数の人影が現れる。


 かつて救えなかった人々。


 彼女が呪いの研究を始めた頃に出会った冒険者。


 助けを求めてきた村人。


 そして、幼い少女リナ。


 彼らはミレイユを責めなかった。


 ただ、静かに見つめていた。


 その視線が、彼女には何よりもつらかった。


「……やめて」


 ミレイユは顔を背けた。


「そんな目で見ないで……」


 誰も責めていない。


 それでも、彼女自身が自分を責めていた。


 もっと強ければ。


 もっと早ければ。


 もっと何かできていれば。


 そう考えずにはいられなかった。


 鎖が、再び彼女の手首を締めつける。


 ――願え。


 ――もう二度と、誰も失わぬように。


 ミレイユの前に、ひとつの扉が現れた。


 扉の向こうには、静かな街が広がっている。


 誰も傷つかず、誰も失われない街。


 すべての人が鎖に守られ、決して危険な目に遭わない世界。


 その街の入口に、文字が浮かび上がった。


 ――すべてを縛れば、すべてを守れる。


 ミレイユは扉を見つめた。


 その言葉に、心が揺れる。


 もし本当に、そんなことができるなら。


 もう誰も失わなくて済むのなら。


 あの日の後悔を、二度と繰り返さずに済むのなら。


「……私は」


 彼女は一歩、扉へ近づいた。


 手首の鎖が、嬉しそうに震えた。


 しかし、そのとき。


 別の声が、記憶の奥から響いた。


『大切なものって、縛りつけておかなくても、大切なままでいられるんだよ!』


 ソアの声だった。


 ミレイユは、はっと顔を上げた。


「……ソア」


 彼女は目を閉じた。


 そして、扉から一歩離れた。


「……私は、まだ答えを出せない」


 手首の鎖が強く締まる。


 痛みが走る。


 それでも、ミレイユは続けた。


「でも……誰かの自由を奪ってまで、守りたいとは思わない」


 紫色の光が、わずかに揺れた。


 黒く染まっていた鎖の一部に、細い紫色の輝きが戻る。


 しかし、試練は終わらない。


 扉の向こうの街が消え、今度は崩れ落ちる建物が現れた。


 リナが、瓦礫の向こうに立っている。


「お姉ちゃん……」


 ミレイユの顔が強張った。


「……リナ」


 少女は、あの日と同じように手を伸ばしていた。


「助けて」


 ミレイユは、再び手を伸ばした。


 今度は鎖が彼女を拘束していない。


 魔力も使える。


 それなのに。


 手は、届かなかった。


 指先が、あと少しのところで空を切る。


「……どうして……」


 ミレイユは膝をついた。


 涙が頬を伝う。


「……どうして、届かないのよ……!」


 鎖が、彼女の背後で大きく広がった。


 紫色の光と、黒い光が入り混じる。


 そして、彼女の目の前に最後の問いが浮かび上がった。


 ――届かなかった手を、もう一度伸ばす覚悟はあるか。


 ミレイユは顔を上げた。


 涙を拭い、震える手を握りしめる。


「……あるわ」


 声は、まだ震えていた。


 それでも。


「何度だって、伸ばすわ」


 彼女は立ち上がった。


「たとえ、届かないことがあっても……」


 鎖が、静かに鳴った。


「……それでも、私は手を伸ばす」


 紫色の光が、暗闇を照らした。


 その瞬間。


 手首に巻きついていた鎖が、ほんの少しだけ緩んだ。


 試練は、まだ終わらない。


 だが、ミレイユは初めて、鎖に答えを与え始めていた。

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