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『鎧を脱いだら、世界が変わった』  作者: ムファッサー
第十章 深淵の呪鎖

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第102話 失いたくない願い


 東へ向かう街道。


「……まだ遠いね」


 ソア・ミュスカは、地図を覗き込んでいた。


「エルディアまでは、あと一日半といったところね」


 レイナが答える。


「一日半……」


 ソアは空を見上げた。


「飛んでいけば、もっと早く着けるかな?」


「あなた、昨日の魔力異常で疲れていたでしょう」


「もう大丈夫!」


「本当に?」


「……たぶん!」


「自信を持って言えるようになってから提案しなさい」


 レイナは呆れたようにため息をついた。


 ソアは頬を膨らませる。


「でも、ミレイユさんが危ないかもしれないんだよ?」


「分かっているわ。だからこそ、途中で倒れたりしないようにするの」


「うっ……」


 正論だった。


 ソアは反論できず、肩を落とした。


 そのとき。


「……ソア」


 シードが、ソアの胸元を指さした。


 世界巡鎧の中央。


 《巡りの雫》が、かすかに光っている。


「……ながれ、かわった」


「魔力の流れ?」


「……うん。さっきより、つよい」


 レイナの表情が引き締まった。


「エルディアの方角?」


 シードは少し考えてから頷いた。


「……たぶん」


 ソアは拳を握った。


「……急ごう」


 今度は、レイナも止めなかった。


「ええ。ただし、何かあればすぐに知らせること。あなた一人で突っ込まない」


「分かった!」


「本当に分かっているのかしら……」


 レイナの呟きは、風に流れていった。


     *


 エルディア。


 地下図書館の最深部。


 ミレイユは、紫色の鎖を前に立ち尽くしていた。


 鎖は宙に浮かび、黒い魔力に侵食されながら、ゆっくりと脈打っている。


 その奥には、古代文字が刻まれた石碑があった。


 ミレイユは文字を読み取ろうとした。


 しかし、黒い染みが文字の大半を覆い隠している。


「……肝心なところが読めないわね」


 彼女は杖を掲げた。


「《解析》」


 紫色の魔法陣が広がり、石碑の文字を照らす。


 少しずつ、隠されていた文字が浮かび上がった。


 ――第四の器。


 ――深淵の呪鎖。


 ――願いを受け、暴走する力を結び、次なる流れへと渡すもの。


「……やっぱり」


 ミレイユは目を細めた。


「単に相手を縛るための道具ではないのね」


 さらに解析を進める。


 すると、石碑の下部に別の文章が現れた。


 ――鎖は、持ち主の願いに応じて、その形を変える。


 ――願いが強ければ強いほど、鎖は強くなる。


 ――されど、願いが世界を拒むとき、鎖は持ち主をも縛る。


「……世界を拒む、ね」


 ミレイユは小さく笑った。


「ずいぶんと大げさな言い方をするじゃない」


 しかし、その笑みは長く続かなかった。


 鎖が震えた。


 ジャラリ。


 その音と同時に、彼女の脳裏へ映像が流れ込んできた。


 崩れ落ちる建物。


 燃える街並み。


 逃げ惑う人々。


 そして――


 届かなかった手。


「……っ!」


 ミレイユは杖を握りしめた。


 映像は一瞬で消えた。


 だが、胸の奥に残った感覚は消えない。


 あの日。


 彼女は、まだ今ほど強くなかった。


 呪いの扱いを覚え始めたばかりで、誰かを守れるほどの力などなかった。


 目の前で助けを求める人がいた。


 手を伸ばした。


 それでも、届かなかった。


 その記憶は、今も彼女の心に残っている。


「……もう、あんな思いはしたくない」


 ミレイユは目を伏せた。


 誰かを失うこと。


 助けられなかったこと。


 自分の力が足りなかったこと。


 それらを思い出すたび、彼女はもっと強くなろうとしてきた。


 呪いを増やした。


 術式を磨いた。


 相手の動きを封じ、魔力を奪い、あらゆる抵抗を抑え込む術を身につけた。


 そうすれば、もう誰も傷つけずに済む。


 そう信じていた。


「……私は、間違っていない」


 自分に言い聞かせるように呟く。


「守るために力を求めることは、間違いじゃないわ」


 鎖が、再び震えた。


 まるで、その言葉に応えるように。


 紫色の光が強まる。


 ミレイユの足元に、魔法陣が広がった。


 その中心に文字が浮かび上がる。


 ――願え。


 ――お前が、失いたくないものを。


 ミレイユは息を呑んだ。


「……何を望めばいいの?」


 問いかける。


 答えはなかった。


 ただ、鎖だけが静かに揺れていた。


     *


 その頃。


 エルディアへ続く街道では、別の問題が発生していた。


「……道が、ない」


 ソアは目の前の光景を見つめていた。


 街道の先。


 石橋が、真ん中から崩れ落ちていた。


 その下には深い谷。


 川は干上がり、谷底には黒い魔力の筋が走っている。


「これも魔力異常の影響かしら」


 レイナが周囲を確認する。


「橋の支柱に魔力を流す仕組みがあったみたいね。それが逆流して壊れたんだわ」


「じゃあ、直せば通れる?」


「簡単に言わないで。支柱そのものが崩れているのよ」


 ソアは谷を覗き込んだ。


 反対側までは、かなりの距離がある。


「……飛べば行けるかな」


「またそれ?」


「だって、翼があるし!」


 ソアの背中に、銀白色の翼が淡く浮かび上がる。


 《天翔の翼》。


 以前よりも安定してきたが、長距離を飛ぶにはまだ不安が残る。


 レイナは腕を組んだ。


「向こう岸まで飛べたとしても、私とシードをどうするつもり?」


「……あ」


「考えていなかったわね」


「……考えていませんでした」


 ソアは素直に頭を下げた。


 シードが谷を見つめる。


「……ながれ、ある」


「え?」


「……かぜ。したから、うえに」


 シードは谷底を指さした。


 確かに、干上がった川底から、かすかな風が吹き上がっている。


 ソアは目を輝かせた。


「これを使えば、橋の代わりにできるかも!」


「待ちなさい。風の強さも分からないのに――」


「まずは、ちょっとだけ試してみるね!」


「ソア!」


 ソアは翼を広げた。


 そして、谷の縁から軽く飛び出す。


「いっくよー!」


 ふわり。


 身体が浮き上がった。


 風を受け、反対側へ進んでいく。


「おおっ! いい感じ!」


 しかし、谷の中央に差しかかったところで、風向きが変わった。


「……え?」


 翼が大きく揺れる。


 身体が横へ流された。


「わわわっ!?」


 ソアは慌てて姿勢を立て直した。


 その瞬間、世界巡鎧の脚甲が風に煽られ、バランスを崩す。


「ちょっと待って! 鎧が重い!」


 当然だった。


「ソア、右!」


 レイナの声が飛ぶ。


 ソアは反射的に右へ身体を傾けた。


 だが、今度は左側へ引っ張られる。


「うわあああ!」


 もう駄目だ。


 そう思った瞬間。


 ガシャン!


 ソアの左肩の肩当てが外れ、空中へ飛び出した。


「……あっ」


 肩当ては風を受け、ソアの身体の下へ滑り込んだ。


 ソアは反射的に魔力を流した。


 肩当てが浮かび上がり、彼女の足元を支える。


 同時に、風の流れが変わった。


 翼が風を捉える。


 肩当てが風を受け流す。


 世界巡鎧の各部を巡る魔力が、ひとつの流れになった。


「……これだ!」


 ソアは歯を食いしばった。


 無理やり飛ぼうとするのではない。


 風に逆らうのでもない。


 風と翼と鎧。


 それぞれの動きを感じながら、流れをつなぐ。


 身体が、ゆっくりと安定していく。


「……飛べた」


 反対側の地面が近づいてきた。


「飛べたぁぁぁ!」


 ドサッ!


 最後は少しだけ転がった。


 しかし、ソアは無事に向こう岸へ着地した。


「やった!」


 ソアは立ち上がり、両手を振った。


「レイナ! シード! 成功したよ!」


 反対側では、レイナが額を押さえていた。


「……成功したのは認めるわ。でも、どうやって私たちを渡すつもりなの?」


「……あ」


 ソアは固まった。


 数秒後。


「……戻るね」


「最初からそうしなさい!」


     *


 結局、ソアは肩当てを使って風の流れを確かめ、レイナとシードを順番に渡らせることに成功した。


 ただし、途中で肩当てが一度暴走し、レイナの頭上を飛び越えた。


「……ソア」


「はい」


「次に同じことをしたら、あなたを盾で運ぶわよ」


「それ、どういう意味!?」


「そのままの意味よ」


 シードは肩当てを拾い、ソアに手渡した。


「……おかえり」


「うん。ただいま、私の肩当て!」


 ソアは嬉しそうに肩当てを装着した。


 ガシャッ。


「……やっぱり、鎧って最高!」


「今の一連の出来事を経て、その感想なのね……」


 レイナは呆れながらも、少しだけ笑っていた。


 そして、三人は再び東へ向かった。


 しかし、ソアはまだ気づいていなかった。


 さっき、風の流れをつかんだ瞬間。


 彼女の中で、《成長共鳴》がほんの一瞬だけ安定していたことに。


 その力は、単に離れた鎧を動かすためのものではない。


 自分と、自分以外のもの。


 それぞれの力をつなぎ、ひとつの流れとして扱うための力だった。


 まだ未熟で、長くは続かない。


 それでも、ソアは少しずつ、その意味に近づいていた。


     *


 エルディア。


 地下図書館。


 ミレイユは、紫色の鎖を前に立っていた。


 鎖は、彼女の手が届く距離に浮かんでいる。


 触れようと思えば、触れられる。


 だが、彼女は手を伸ばさなかった。


「……私は、誰も失いたくない」


 静かな声だった。


「大切な人たちを守りたい。助けを求める人に、今度こそ手を伸ばしたい」


 鎖が震えた。


 紫色の光が、彼女の指先へと伸びる。


「でも……」


 ミレイユは、ゆっくりと息を吐いた。


「誰かを守るために、その人の自由を奪うことはしたくない」


 鎖の動きが止まった。


 その言葉を待っていたかのように、石碑の文字が浮かび上がる。


 ――願いを選べ。


 ――力を求めるのか。


 ――それとも、願いを貫く覚悟を求めるのか。


 ミレイユは目を細めた。


「……ずいぶんと意地の悪い試練ね」


 彼女は杖を握り直した。


「でも、答えはまだ出ていないわ」


 そして、鎖から一歩離れた。


「私は、あなたを手に入れるために来たんじゃない」


 ミレイユは石碑を見つめた。


「あなたが何のために作られたのか。それを確かめるために来たのよ」


 その瞬間。


 地下図書館全体が、大きく揺れた。


 ゴゴゴゴ……!


「……っ!?」


 天井から砂埃が落ちる。


 遠くで、何かが崩れる音がした。


 鎖が激しく震え、黒い光が一気に広がる。


 石碑の文字が、次々と消えていく。


 そして最後に、一文だけが残った。


 ――願いを手放せぬ者よ。鎖は、お前を選ぶ。


「……何ですって?」


 ミレイユが顔を上げた。


 紫色の鎖が、彼女へ向かって伸びてきた。


 避ける間もなかった。


 鎖は彼女の手首に巻きつき、強く締めつけた。


「くっ……!」


 黒い魔力が、腕を駆け上がる。


 ミレイユはすぐに呪いを発動しようとした。


 だが、魔力が動かない。


「……そんな!」


 鎖は彼女の魔力の流れを封じていた。


 そして、脳裏に声が響く。


 ――願え。


 ――もう二度と、失わぬために。


 ミレイユは歯を食いしばった。


「……私は……」


 目の前に、再びあの日の光景が浮かぶ。


 届かなかった手。


 崩れ落ちる街。


 守れなかった人々。


 そして。


 ソアの笑顔。


 自由に走り、鎧を壊し、何度転んでも前へ進んでいく少女。


 ミレイユは、その姿を思い浮かべながら、必死に声を絞り出した。


「……私は、あなたの言いなりにはならない」


 鎖が、さらに強く締まった。


 痛みが走る。


 魔力が吸い上げられる。


 それでも、ミレイユは目を逸らさなかった。


「……私の願いは、私が決める!」


 紫色の光が、地下図書館を満たした。


 その光の奥で。


 鎖の一部が、ほんのわずかに輝きを取り戻した。


 しかし、黒い侵食は止まらない。


 ミレイユの手首に巻きついた鎖は、ゆっくりと腕を這い上がっていく。


 そして。


 彼女の背後に、巨大な魔法陣が浮かび上がった。


 その中心に刻まれていた文字は――


 《深淵の呪鎖》――適合試験、開始。


 ミレイユは、鎖に拘束されたまま顔を上げた。


「……上等よ」


 その瞳には、恐怖と決意が同時に宿っていた。


「私が何を守りたいのか……あなたに、見せてあげるわ」

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