第097話 腐らなかった苔
片靴亭へ戻ると、上着は厨房の裏に吊られたままだった。
表面は乾いている。
油の匂いは、近づけばまだ分かる。
「着る」
ベッカへ借りた布を返す。
「もう出るのかい」
「苔を見る」
「昨日帰ったばかりだろ」
「何日持つか試してる」
「あんたが見なきゃ腐るのか」
「腐ってからだと遅い」
上着を着る。
少し硬くなった肩が、左の腫れへ触れた。
「今夜は」
「戻らないかもしれない」
「残り二泊だよ」
「分かってる」
「本当に?」
「二泊」
古い文字表と新しい契約書は、机へ残す。
狩猟刀と登録証だけを持ち、北門から町を出た。
三本爪の荷置き場へ着いたのは、日が傾く前だった。
入口の背殻は動いていない。
鉄釘も、革紐も残っている。
中へ入る。
灰灯苔の光は、運び込んだ日より弱い。
葉の裏を見る。
黒く溶けた場所は増えていなかった。
空気穴に近い一束だけ、葉の端が乾いて丸まっている。
入口で背殻が鳴った。
フィナが中へ入ってくる。
「腐ってない?」
「端は乾いてる」
フィナが乾いた葉へ触れる。
「薬に混ぜるなら、これくらいは使える?」
「町で聞く」
「売れなかったら」
「集落で使う?」
「光は残ってる」
乾いた葉を一枚、別の布へ包む。
町へ持ち帰り、ギルドか薬問屋へ見せる。
「新しい苔は」
「まだ刈ってない」
「何で」
「ゴルナが、ミナトが見てからって」
「言った?」
「言ってない」
「なら、ゴルナが決めた」
「そうだよ」
フィナは棚の間へ指を入れる。
「ここ、狭い」
「広げる?」
「苔を増やすなら」
「増やさない」
「売れるのに?」
「今の棚に入る分だけ」
重ねれば、下から黒くなる。
空気穴へ近づけすぎれば、端から乾く。
今の広さなら、布一枚へ二束ずつ。
棚は三段。
「六束」
「今より少ない」
「傷ませない量」
「町へ行くたび、六束?」
「三日置いて平気なら」
今回の苔は、それより長く置いている。
腐らなかった。
乾き始めた。
三日ごとに六束なら、今の棚でも重ねず運べる。
「採る方が追いつかないかも」
「なら減らす」
「もっと採れとは言わないんだ」
「腐ったら売れない」
フィナが乾いた一束を持ち上げた。
「ゴルナに見せる」
「俺も行く」
集落側の小門へ向かう。
取引小屋の前で、レグが槍を持って立っていた。
杖のように地面へついていない。
右脚の固定は、木が一本減っている。
「歩ける?」
「見れば分かる」
「前も言った」
「前より歩ける」
レグは取引小屋から小門まで進んだ。
右脚を引くが、柱へはつかまらない。
戻る時だけ、一度槍を地面へついた。
「道はまだ無理」
フィナが言う。
「分かってる」
「言ってみただけ」
「毎回言うな」
ゴルナへ、保管できるのは一度に六束と話す。
「少ないね」
「棚を増やせば増える」
「今は増やさないのかい」
「売れ続けるか分からない」
「殻は契約を増やしたんだろ」
「苔は別」
新しい契約の条件も伝える。
二十日の間は、売る背殻を先にオルドへ見せる。
その代わり、契約中と終わった後二十日は、商会が道を探さない。
「終わったら、また探せる」
ゴルナが言う。
「その前に次を決める」
「ずっと契約する気かい」
「売る間は」
「売らなくなったら」
「道を変える」
ゴルナはすぐに頷かなかった。
机に置いた乾いた苔を裏返す。
「六束だけ刈る」
「三日後に運ぶ」
「その時まで、今の苔を捨てるんじゃないよ」
「何で」
「乾いた方が高く売れるかもしれない」
俺は、生のまま光る方が売れると思っていた。
ゴルナはそう決めていない。
「両方持っていく」
「なら、値段を別々に聞きな」
フィナが籠を取りに戻る。
レグもそちらへ動こうとした。
「兄さんは待ってて」
「苔を運ぶだけだ」
「六束でも重い」
「一束なら」
「転んだら全部潰れる」
レグは槍を持ったまま止まった。
フィナもすぐには行かず、机の上に残った一束を見る。
「そっちの葉、裏も見ておいて。黒い所があったら除けて」
「ミナトが見ただろ」
「一枚ずつじゃない」
レグは取引小屋の椅子へ座った。
槍を手元へ立てかけ、片手で苔を引き寄せる。
フィナが籠を取りに行った後、薄い葉を机へ広げる音がした。
その夜は黒巣で眠った。
外側の七匹は減っていない。
血牙コウモリも、奥へは入ってこなかった。
朝になると、片靴亭の契約は残り一泊になっている。
乾いた灰灯苔の葉を持ち、町へ戻った。
ギルドの買取窓口へ出す。
薬草を扱う女が、葉を指で曲げた。
「乾かしたの?」
「置いてたら乾いた」
「端だけだね」
「売れる?」
「このままでは安くなる」
「腐ってない」
「乾かすなら、全部同じように乾かさないと使いにくいんだよ」
女は葉の光る中央と、丸まった端を別々に見る。
「傷薬へ混ぜる粉なら、きちんと乾いた方が長く置ける」
「高い?」
「重さは減るから、一束の値段では比べられないね」
「新しいのは束で買った」
「乾いた葉は重さで買う」
「同じ六束なら」
「乾かし方で半分以下にもなるよ」
生の苔を六束運んでも、乾かした後に六束分の値段が残るわけではない。
腐りにくくなる代わりに、売れる重さは減る。
「光は」
「傷薬なら少し残ればいいけど、灯りの芯へ混ぜるなら新しい方がいい」
使う相手によっても値段が変わる。
「どう乾かす」
「風を通して、日には当てない」
三本爪の荷置き場と同じだった。
違うのは、途中で止めず、葉全体を乾かすこと。
「これは」
「見本なら置いていきな」
「金は」
「値段をつけられる量じゃないよ」
葉を一枚残す。
新鮮な六束と、乾かした六束。
次は両方を同じ量にすれば、値段を比べられる。




