第094話 古い料金所
「止めるな」
ベルクが言った。
ハルムは手綱を引きかけている。
「前にいるんだろ」
「止まれば囲まれます」
馬が古い料金所へ近づく。
道の先にある三つの心音は動かない。
後ろの一つは、また近づき始めていた。
「後ろも来る」
ユアンが荷車の左側へ移る。
「任せろ」
「一人」
「増えたら言え」
倒れた小屋の向こうから、男が一人出てきた。
革鎧の上へ、土色の外套を羽織っている。
手には錆びた片手剣。
「止まれ」
ハルムが舌打ちする。
「ここに料金所はないぞ」
「道を通るなら置いていけ」
「何をだ」
「薬箱一つ」
荷を知っている。
昨日、町で積んでいるところを見られたのかもしれない。
「断る」
ベルクが丸盾を上げる。
「馬を進めてください」
道の右側で、弦が軋んだ。
「右に一人」
言うより先に、倒れた屋根の隙間から石弓が出た。
音撃を放つ。
弦が鳴る瞬間、男の頭へ音をぶつけた。
矢は馬から外れ、荷車の車輪へ刺さった。
馬が前脚を上げる。
「手綱を離すな!」
ベルクが御者台の横へ盾を入れる。
片手剣の男が走ってくる。
盾と剣がぶつかった。
小屋の裏から、もう一人が鉤のついた棒を持って出る。
荷車の幌へ引っかけた。
布が裂け、木枠が横へ引かれる。
積んだ塩袋が傾いた。
荷台へ手を伸ばし、袋を押し戻す。
「セイン、馬から離れるな!」
「分かってる」
鉤の男が棒を引き直す。
荷ではなく、今度は俺の脚を狙った。
横へ避ける。
棒を掴み、引く。
男の体が小屋の陰から出た。
手を離さない。
そのまま荷車の側まで引き寄せる。
「放せ!」
男が腰から短剣を抜いた。
左前腕の、刃が当たる部分だけを硬くする。
刃が腕へ当たり、表面を滑った。
手首にも肘にもかからない、手のひらほどの範囲だ。
手首を動かし、短剣を持つ手へ棒を押しつける。
骨が鳴った。
男の指から短剣が落ちる。
後ろで、ユアンの声がした。
「一人じゃない!」
心音を探す。
林から出た一人とは別に、道の窪みから小さな心音が立ち上がっていた。
「後ろに二人」
「遅い!」
ユアンの槍が一人目の棍棒を受ける。
もう一人は、ユアンを避けて荷車へ走ってくる。
背が低い。
大人ではない。
手に武器は持っていなかった。
荷車の後ろへ飛びつき、革紐へ指をかける。
「薬は奥だ!」
前の男が叫んだ。
少年の手が、灯油の箱から薬箱へ移る。
俺は鉤の棒を放し、荷台へ上がった。
少年が薬箱を抱える。
重さで体が傾いた。
箱ごと腕を掴む。
「離せ」
「嫌だ!」
「落ちる」
「お前も来い!」
林へ向かって叫んでいる。
ユアンと戦っていた男は、もう道の外へ逃げ始めていた。
追えば捕まえられる。
荷台では、少年が箱を抱えたまま暴れている。
薬瓶が中でぶつかった。
「箱を置け」
「これがなきゃ帰れない!」
「持っても逃げられない」
少年が俺の手へ噛みついた。
牙はない。
痛みもほとんどない。
それでも離れない。
箱を奪えば、荷台から落ちる。
襟を掴み、先に荷台の内側へ引き上げた。
少年の背中が塩袋へ当たる。
薬箱を取り上げ、元の隙間へ戻す。
前では、ベルクが片手剣の男を盾で石柱へ押しつけていた。
石弓の男は小屋の裏から逃げる。
「一人逃げる」
「追うな!」
ベルクの声が飛ぶ。
まだ近くに、逃げる男の心音がある。
林へ入れば、すぐ追いつける。
俺は荷台から降りなかった。
少年がもう一度起き上がろうとする。
肩を塩袋へ押し戻した。
「痛い!」
「動くから」
「殺すなよ!」
「動かなければ殺さない」
「その言い方やめろ!」
ユアンが後ろから戻ってくる。
左の袖が切れ、前腕から血が流れていた。
匂いが届く。
腹は満ちているのに、喉が熱くなった。
「浅い」
ユアンが自分で言う。
「見せて」
「今はあいつを縛れ」
少年の両手を革紐で縛る。
ベルクは片手剣の男を地面へ伏せさせ、背中へ膝を置いていた。
鉤の男は、右手を押さえて小屋の側に座っている。
三人を捕らえた。
石弓の男と、ユアンを襲った男は林へ逃げている。
「五人いたのか」
ハルムが御者台から降りる。
「最初は四つだった」
「そこの小さいのは、道の窪みに伏せてた」
ユアンが少年を見る。
「数えられなかった?」
「心音が小さかった」
「子供だからか」
「違う。息を止めてた」
ハルムは薬箱の蓋を開ける。
瓶を一つずつ数え、割れていないか確かめた。
「全部ある」
それから、裂けた幌を見る。
「こっちは弁償させる」
地面へ伏せられた男が笑った。
「金があるように見えるか」
「なら働け」
「村へ着いてから話してください」
ベルクが男の腕を縛る。
「こいつらを乗せる場所がないぞ」
ハルムが言う。
「歩かせます」
「遅れる」
「置いていけば、次の荷車を襲います」
「薬が着かなきゃ、俺が違約金を払う」
「日暮れまでには着けます」
ベルクがユアンの腕を見る。
「動くか」
「槍は持てます」
「血が出てる」
「布を巻けば止まります」
俺は残していた足布を小袋から出す。
ユアンがそれを見た。
「使う時が来たな」
「返さなくていい?」
「血がついたら、もういらない」
布を前腕へ巻く。
滲んだ赤が、すぐ表まで広がった。
顔を近づけず、結び目だけを締める。
捕らえた三人を革紐でつなぐ。
荷車は、また動き始めた。
林へ逃げた心音はもう遠い。
追わなかった。
薬箱は、荷台に残っている。
デルム村の柵が見えた頃には、日が山へ触れていた。
門の前に、鍬と短い槍を持った男たちが集まっている。
荷車の後ろを歩く三人を見ると、槍の穂先が上がった。
「襲われたのか」
「古い料金所で待ち伏せです」
ベルクが答える。
「こいつらが?」
「二人は逃げました」
村の男が、縛られた片手剣の男へ近づく。
「クレグ」
呼ばれた男は顔を上げなかった。
「知ってる?」
俺が聞く。
「去年まで、西の石切り場にいた」
男はベルクへ向き直る。
「ほかの二人は知らん」
捕まえた鉤の男と少年は、この村の者ではないらしい。
村の中へ入る。
荷車が広場へ着く前に、女が一人走ってきた。
「薬は?」
ハルムが荷台を指す。
「割れてない」
「見せて」
「先に受け取りの印だ」
「病人が待ってるんだよ」
「箱が全部あるか、一緒に数える」
女は御者台へ手をかけたまま、ハルムを睨んだ。
それでも勝手に箱は取らなかった。
村長が来る。
ベルクから依頼票を受け取り、炭筆で印をつけた。
「荷は受け取る」
「帰りの分は」
「豆袋が八つ、羊毛が六包みだ」
「昨日は羊毛五つと聞いた」
「一つ増えた」
「荷代も増える」
「町へ着いてから話す」
「今決める」
ハルムは薬箱を下ろす前に、村長と値段を話し始めた。
薬を待っていた女が、二人の間へ入る。
「その一つは次の荷車へ回しな」
「雨が来たら羊毛が傷む」
「今夜飲ませる薬は、雨を待てない」
村長が先に折れた。
「五包みでいい」
「なら最初の話どおりだ」
ハルムが薬箱の革紐を解く。
女は瓶を一つずつ数えた。
中から青い液の入った小瓶を取り、布へ包む。
「誰の薬」
「村の者だよ」
「何の病気」
「あんたが飲むのかい」
「飲まない」
「なら、そこまでだ」
女は小瓶を抱え、広場の奥へ走っていった。
塩と灯油も、注文した家ごとに分けられる。
鉄の留め具は、壊れかけた水車へ使うらしい。
荷台が空になるにつれ、村の者が近づいてきた。
待ち伏せの三人は、広場の端へ座らされている。
少年だけが、荷から配られる黒パンを見ていた。
「食べるか」
聞くと、顔を背ける。
「いらない」
腹の音がした。
「そう」
パンを自分で食べる。
少年がこちらを見る。
「何で食うんだよ」
「いらないと言った」
「一回しか聞いてないだろ」
「二回聞く?」
「もう食っただろ!」
残っていた半分を見せる。
「これは俺の」
「最初からくれる気なかったんじゃないか」
「聞いただけ」
少年は縛られた手を膝へ置き、また顔を背けた。
村の女が、別のパンと水を三人の前へ置いた。
「手をほどかないと食えない」
片手剣の男が言う。
「食べさせてもらいな」
「誰に」
「そこの子に」
少年が男を睨んだ。
「俺も縛られてる」
「なら、待ってな」
女はそのまま離れていった。
ユアンの腕は、村の治療小屋で洗われた。
足布を外すと、血は止まりかけている。
傷は浅いが、泥が入っていた。
外した足布は、治療小屋の廃布入れへ捨てられた。
「明日、槍を振れる?」
「帰りも護衛だ」
「聞いてない」
「振れる」
薬を塗った女が、布をきつく結ぶ。
「これで振れなくなったね」
「緩めてくれ」
「村を出てから、自分で緩めな」
ユアンは腕を曲げようとし、諦めた。
治療小屋の外では、ベルクと村長が話している。
「料金所で襲われたのは、今月二台目だ」
「前は報告がありません」
「荷を半分置いて帰ってきた」
「町へは?」
「商人が届けると言った」
ハルムが荷台の幌を直しながら振り返る。
「俺の所には来てない」
「道を使う商人は、お前だけじゃない」
村長は縛られたクレグを見る。
「石切り場が閉じてから、何人か消えた」
「料金所に住んでいるのか」
ベルクが聞く。
「冬までは誰もいなかった」
「今は」
「村の者は近づかん」
料金所から逃げた二人が、どこへ戻ったのかは分からない。
閉じた石切り場に仲間がいるなら、道から遠くはない。
「何人いる」
ベルクがクレグへ聞く。
男は答えない。
「五人だけ?」
俺が聞く。
隣で、少年が顔を上げた。
何かを言う前に、クレグが少年を睨む。
「黙ってろ」
「まだいる」
クレグが初めてこちらを見た。
「だから何だ」
「冒険者」
村長はしばらく黙り、村の男たちを見る。
「道を使えなくなると、次の薬も来ない」
「ギルドへ依頼を出してください」
ベルクが言う。
「金が要る」
「町へ報告すれば、領主側の巡回も動く可能性があります」
「可能性か」
「俺たちは明日、捕らえた三人と一緒に戻ります」
「逃げた連中が待ってるぞ」
「分かっています」
ハルムが裂けた幌へ革紐を通す。
「豆と羊毛も運ぶ」
「減らす?」
「減らさん」
「人も三人増えた」
「歩かせろ」
ハルムは切れた革紐を歯で引いた。
「空で帰れば、今日の分まで赤字になる」
逃げた二人も、明日この荷車が同じ道を戻ると分かっている。
村の共同小屋で夜を過ごす。
ベルクが入口側。
ユアンが壁際。
俺は窓の近くへ横になった。
外では、帰りの荷へ使う豆袋が運ばれている。
その向こうの納屋から、縛られた三人の心音が聞こえていた。




