第093話 二日分の道
町へ戻ったのは、門が閉まる少し前だった。
片靴亭の食堂には、夕食を終えた客が二人だけ残っている。
ベッカが鍋の底を木匙で集めた。
「食べるかい」
「食べる」
「昼は」
「食べてない」
「またかい」
「忘れてた」
豆と刻んだ干し肉が、椀へ入れられる。
人間の食事だけでは、血ほど腹は満ちない。
それでも、温かいものを飲むと体の冷たさが少し薄くなった。
個室へ上がり、鍵をかける。
左肩を下にしないよう寝台へ横になった。
目を閉じると、レグが槍を杖にして歩く音が残っていた。
翌朝、残る宿泊は五泊になった。
市場の食肉解体店へ寄る。
店先では、豚の後脚が一本ずつ吊られていた。
「血は」
店主が包丁を止める。
「朝からそれか」
「ある?」
「今抜いたのがある」
裏へ回る。
桶の中には、まだ温かい血が半分ほど溜まっていた。
「持ち帰るなら壺はないぞ」
「ここで飲む」
「客から見えない所でやれ」
銅貨一枚を渡し、木の椀へ二杯飲む。
家畜の血は、魔物の血より薄い。
体の奥に残っていた空腹は静まった。
所持金は銀貨三枚と銅貨一枚。
「毎朝来る気か」
「必要なら」
「解体しない日もある」
「いつ」
「二日後は休む」
覚えておく。
ギルドへ入ると、受付前に長い木箱が三つ並んでいた。
油の匂いがする箱。
塩袋。
革紐で蓋を縛った薬箱。
その横で、ユアンが槍の石突きを見ている。
「足布」
俺が言うと、ユアンが顔を上げた。
「返さなくていいって言っただろ」
「持ってる」
「使えばいい」
「今は靴がある」
「なくしたら使え」
ユアンは俺の革靴を見た。
「前よりましだな」
「中古」
「俺のも中古だ」
靴の先に、補修した跡が二つある。
木箱の向こうからベルクが出てきた。
「ちょうどいい」
「何が」
「二日、空いてるか」
「何で」
「護衛が一人来ない」
「死んだ?」
「腹を壊した」
ベルクは薬箱を軽く叩く。
「デルム村まで運ぶ荷だ」
「何がある」
「塩、灯油、鉄の留め具、薬」
「帰りは」
「豆と羊毛を積む」
荷を運ぶ商人は、少し離れた机でネラと話している。
丸い腹の上へ革帯を巻き、帳面を何度も開いていた。
「依頼はEランクだが、Fでも補助なら入れる。食事込みで銀貨一枚と銅貨四枚だ」
「二日で?」
「無事に戻れば」
北牧草地の夜番より長い。
報酬も多い。
「何を倒す」
「倒す仕事じゃない」
ベルクが先に言った。
「荷車を村へ入れて、帰りの荷も町まで運ぶ」
「襲われたら」
「荷から離れない」
「敵が逃げたら」
「追わない」
「また来る」
「それでも追わない」
ユアンが槍を床へ立てる。
「前に一度、追った護衛が二人戻らなかった」
「敵を追って?」
「森へ入って、別の群れに囲まれた」
「荷は」
「残った護衛が守った」
敵を倒しても、荷車を失えば依頼は終わらない。
魔境では、巣から離れて獲物を追わないこともある。
人間の道では、それを最初から決めておくらしい。
「受ける」
ネラの前へ行く。
商人がこちらを見る。
「こいつが代わりか?」
「Fランクですが、戦闘経験はあります」
ベルクが答える。
「荷車の護衛は?」
「ない」
「馬は扱えるのか」
「触ったこともない」
商人はベルクを見る。
「大丈夫なのか」
「役割を決めます」
「薬箱を落とされたら困るぞ」
「俺が馬車の前、ユアンが後ろ、セインは森側を見る」
「荷を持って逃げないだろうな」
「逃げない」
ネラが依頼票を机へ置く。
「出発は明朝です」
「今日じゃない?」
「車輪と荷の確認が終わっていません」
「夜に進めば早い」
「馬と商人が眠れません」
俺一人の道ではない。
登録名を書く。
昨日より、最後の線が少し曲がった。
「今夜は酒を飲むなよ」
ベルクがユアンへ言う。
「飲みません」
「前の護衛でも聞いた」
「一杯です」
「飲んだんだな」
ユアンは槍を持ち上げ、木箱の反対側へ移った。
俺には何も言われない。
「俺は?」
「酒を飲むのか」
「飲んだことはある」
「弱い?」
「味が分からなかった」
「なら飲むな」
「分かった」
依頼票には、明日の夜に泊まる場所まで書かれている。
俺はまだ読めない。
ベルクに村の名と道順をもう一度聞き、覚えた。
片靴亭へ戻る。
「明日の夜は戻らない」
ベッカへ言う。
「その次は」
「戻る予定」
「予定かい」
「帰れたら」
「そこは帰ると言いな」
「帰る」
ベッカは俺の部屋の鍵を見た。
「なら、空けておくよ」
「借りてる」
「分かってるよ」
明日、荷車と一緒に町を出る。
魔境へ戻る時とは違う門を使う。
夜明け前に目を覚ました。
片靴亭の個室は、まだ暗い。
机の上へ置いた狩猟刀と登録証を確かめる。
古い文字表と商会の契約書は残す。
扉へ鍵をかけ、食堂へ下りた。
ベッカが黒パンへ薄く脂を塗っている。
「早いね」
「荷車が出る」
「朝飯を持っていきな」
「いくら」
「固くなった端だよ。鍋へ入れるつもりだったけどね」
「ただ?」
「持っていけと言ってるだろ。食べられるうちに」
包んだ黒パンを受け取る。
「明日の夜には戻る」
「商人に合わせな」
「遅かったら」
「部屋は借りたままだよ」
「分かってる」
「なら、行ってきな」
北門ではなく、町の東門へ向かう。
門の内側に、幌をかけた荷車が止まっていた。
茶色い馬が一頭。
昨日の木箱と塩袋が、荷台へ隙間なく積まれている。
ベルクは車輪の前へ屈み、軸へ油を塗っていた。
ユアンは荷台へ上がり、革紐を締め直している。
「遅くない」
「まだ鐘も鳴ってない」
ユアンが答える。
「何をする」
「緩んでる所を探せ」
荷台を見る。
「どこ」
「分からないなら、揺らせ」
木箱を一つ押す。
動かない。
隣の塩袋も動かない。
奥の薬箱だけが、わずかに鳴った。
「そこ」
ユアンが荷台の下から短い木片を取り、箱の隙間へ入れた。
「道で揺れると、端から崩れる」
「落ちたら拾う」
「瓶が割れたら拾えない」
箱を押す。
今度は動かなかった。
商人のハルムが、小屋から帳面を抱えて出てくる。
「薬箱へ乗るなよ」
「乗ってない」
「靴で触っただろ」
「押した」
「同じだ」
ユアンが荷台から下りる。
「昨日からずっとあれですか」
小声でベルクへ聞く。
「荷が村へ着くまではな」
町の鐘が鳴った。
東門が開く。
ベルクが馬の左前へ立ち、ユアンは荷車の後ろへ回る。
俺は森に近い右側。
ハルムが御者台へ上がった。
「出すぞ」
車輪が動き、石畳の継ぎ目で荷台が揺れる。
さっき詰めた薬箱は鳴らなかった。
町の壁を離れると、道の両側に低い麦畑が続いた。
朝露をつけた穂が、風に合わせて傾いている。
魔境の木々とは違い、遠くまで見える。
隠れる場所も少ない。
「右ばかり見るな」
ベルクが前から言う。
「森側を見る」
「畑にも人は隠れられる」
左を見る。
農夫が二人、道から離れた場所で鍬を振っていた。
荷車へ手を上げる。
ハルムだけが返した。
「知ってる?」
「知らん」
「何で」
「道ですれ違ったら、敵じゃないと先に見せるんだ」
手を上げるだけで、敵ではないことになるらしい。
次にすれ違った荷車へ、俺も手を上げた。
相手の御者が少し遅れて返す。
「睨むな」
ユアンが後ろから言った。
「見てるだけ」
「牙を見せずに笑え」
「難しい」
「なら、手だけでいい」
昼前に、道は林の中へ入った。
車輪の音が土へ沈み、心音を拾いやすくなる。
小鳥。
木の根元を走る鼠。
遠くに、四足の魔物が一匹。
荷車へ近づく動きはない。
浅い川の側で止まり、馬へ水を飲ませた。
ハルムは最初に荷台を見た。
ベルクは馬の脚を確かめる。
ユアンは道の後ろへ戻り、追ってくるものがいないかを見る。
俺は川沿いの心音を探した。
「食べないのか」
ベルクが黒パンを見る。
「食べる」
「さっきから持ってるだけだぞ」
一口噛む。
硬い。
血を飲んだ後だから、空腹はない。
それでも噛み続け、半分を飲み込んだ。
「残りは夜にしろ」
「腐る?」
「お前が食べるのに時間がかかる」
残りを布へ包み直す。
休憩を終え、また道へ戻った。
林は少しずつ深くなる。
後ろに一つ、人間の心音があった。
遠い。
同じ速さで、道の外を動いている。
「後ろに人がいる」
ユアンが振り返る。
「見えないぞ」
「林の中」
「木こりじゃないのか」
「さっきから同じ距離」
ベルクが荷車を止めた。
「いつからだ」
「川を出た後」
「一人?」
「一つ」
ユアンが槍を持ち直す。
ベルクは林へ入らず、道の端にある泥を見る。
新しい靴跡が一つ。
川の方から、荷車と同じ向きへ続いていた。
「追うか」
俺が聞く。
「追わない」
「まだ一人」
「荷車を止めたままにする方が危ない」
ベルクはハルムへ向く。
「次の休み場は使いません」
「馬を休ませる場所だぞ」
「知られてる場所でもある」
「村まで歩かせる気か」
「古い料金所で短く止めます」
ハルムは後ろの林を見た。
「本当にいるのか」
「靴跡はあります」
「旅人かもしれん」
「なら、別の場所で休んでも困りません」
荷車が再び動く。
しばらくすると、後ろの心音は止まった。
遠ざからない。
俺たちが進むのを、林の中で待っている。
「止まった」
「位置を覚えろ」
ベルクは前を向いたまま言った。
その後、心音はついてこなかった。
古い料金所が見える。
屋根の半分が落ちた小屋と、道の両側に残る石柱。
馬を止める前に、声を出した。
小屋の中は空。
倒れた屋根の裏も空。
道の先に、三つ。
人間の心音が隠れていた。
「前にもいる」
ベルクの手が、盾の縁へかかった。




