第091話 倒さない依頼
部屋を出て、冒険者ギルドへ向かう。
背殻を売った金だけで、正式登録の実績は増えない。
依頼札の前に立つ。
読める文字は少ない。
傷。
夜。
北。
知っている形を探していると、横から札を一枚取られた。
「それ、牧草地の続き」
リオナだった。
「柵を壊すやつか」
「そう」
「何がいた」
「たぶん岩角鹿」
「たぶん?」
「足跡と、角で削った跡だけ。姿は見てない」
札を受付へ持っていく。
「今夜もう一度、柵を見張るの。セインも来る?」
リオナは受付へ出しかけた札を、俺にも見える向きへ戻した。
「牧場の二人は」
「羊を見てもらう。今度は、魔物を探す方にもう一人ほしい」
「見つけるだけならできる」
「見つけた後も勝手に追わない人がね」
俺の返事を待ち、札から手を離さない。
「追わない。それで、俺も依頼に入れる?」
「私が代表なら、Fランク一人を補助で入れられる」
「報酬は」
「銀貨一枚と銅貨二枚。二人なら半分」
「銅貨六枚」
「危険がなければね」
「あったら」
「見つけた物によって追加が出る」
ネラが二人を見る。
「前の調査ではDランク相当の足跡が出ています」
「岩角鹿はD?」
「成体はDです。戦う依頼ではありません」
「来たら」
「柵の外へ誘導し、戻って報告してください」
「倒したら」
「領主の狩猟林から出た個体なら、勝手な討伐で罰金になる可能性があります」
リオナが小さく息を吐く。
「前の晩も、それを聞いてたから戦わなかった」
「見たの?」
「影だけ。牧場の人が槍を持って追おうとしたから止めた」
ただ柵を壊す魔物ではないらしい。
「受ける」
臨時同行の欄へ、自分の名前を書く。
前より速く【セイン】の線を引けた。
「字、上手くなった?」
リオナが覗く。
「読めない」
「名前は書けてる」
「名前だけ」
「最初はそれでいいよ」
夕方、北門で待ち合わせる。
部屋へ戻る時間はない。
今日借り直した鍵を小袋へ入れ、北の牧草地へ向かった。
北の牧草地は、町の壁から歩いて一時間ほどの場所にあった。
低い柵の向こうで、羊が固まっている。
壊されたのは北側の二か所。
太い杭が途中から裂け、横木が内側へ倒れていた。
「外から入った」
リオナが土へ屈む。
蹄の跡は、俺の手より大きい。
柵の杭には、白い傷が何本も残っている。
「角を擦った跡」
「何でここに来る」
「牧草を食べるなら、もっと低い所が壊れるはず」
壊れた杭の周りを嗅ぐ。
木と羊の匂いに、塩が混じっていた。
「塩」
「柵に?」
リオナも近づき、杭へ指を触れる。
白い粉がついた。
牧場主の女が、後ろから答える。
「羊用の塩を運ぶ時、袋を破ったんだよ」
「いつ?」
「四日前」
「壊れ始めたのは」
「その夜から」
リオナが女を見る。
「最初に見に来た時、言ってほしかったです」
「塩をこぼしただけだよ」
「魔物には、それが理由になることもあります」
「なら、水で流せば来ないのかい」
「今夜、確かめます」
柵の外へ、塩を少しだけ撒く。
壊れた場所から森と反対へ、細く匂いをつなげた。
最後には、拳ほどの塩の塊を置く。
「高いんだよ、それ」
牧場主が言う。
「柵を直すよりは安いです」
「また来たら?」
「原因が塩なら、次からこぼさないでください」
「原因じゃなかったら」
「逃げます」
女の顔が険しくなる。
「金を払って見張りを頼んだのに?」
「Dランクの魔物を二人で倒す依頼ではありません」
「そっちの男は強いんだろ」
俺を指す。
「Fランクです」
「見えないね」
「俺もそう思う」
リオナがこちらを見る。
「そこで同意しないで」
日が落ちる前に、羊を南側の小屋へ集めた。
俺たちは北の柵から離れ、干し草を積んだ荷車の影へ入る。
月が上がる。
羊の心音は多い。
町より少ないが、黒巣よりずっと騒がしい。
その外側にある音を探す。
「来る?」
リオナが小声で聞く。
「まだ」
「分かるんだ」
「近ければ」
「便利」
「頭が痛くなる」
「便利だけじゃないんだね」
時間が過ぎる。
牧場主は家へ戻らず、南の小屋で羊を見ていた。
何度かこちらを覗きに来る。
「まだかい」
「静かにしてください」
「羊が鳴いてるのに?」
「人の声とは違います」
リオナが答える。
女は納得していない顔で戻った。
「前もああだった?」
「前は旦那さんもいた」
「どんな人」
「鹿を追おうとした人」
「似てる」
「夫婦だからね」
森の中で、枝が折れた。
羊とは違う重い心音が近づいてくる。
声を出す。
木々の間に、大きな四足の形が返った。
頭から左右へ、太い角が伸びている。
「来た」
リオナが弓へ手をかける。
「一匹」
「大きさは」
「馬くらい」
森の影から、灰色の頭が出た。
【岩角鹿】
角の表面が石のように盛り上がっている。
首を振るたび、枝が折れた。
岩角鹿は柵へ近づき、昨日削った杭の匂いを嗅ぐ。
新しい塩は、柵の外へ続いている。
頭がそちらへ向いた。
「うまくいった?」
「まだ」
岩角鹿が一歩進む。
塩の線を嗅ぎ、森とは反対へ歩き始めた。
柵から離れていく。
リオナの肩から力が抜けた。
その時、羊小屋の戸が開いた。
「本当に来たのか!」
牧場主の夫が槍を持って走り出す。
岩角鹿が振り返った。
石の角が、男の方へ向く。
「止まって!」
リオナが荷車の影から出る。
牧場主の男は聞かなかった。
槍を両手で持ち、柵の外へ走る。
「角が売れるぞ!」
岩角鹿が前脚で土を掻いた。
塩の匂いから、男の方へ向き直る。
距離は短い。
俺も走った。
岩角鹿が頭を下げる。
石の角が、地面すれすれまで落ちた。
音撃を横から放つ。
岩角鹿の右耳へ音がぶつかる。
頭が少しだけ揺れた。
止まらない。
牧場主へ体をぶつけ、柵の内側へ押し倒す。
背中へ角が迫った。
左肩の、角が当たる部分だけを硬くする。
石の先が灰色の皮膚へ当たる。
体が横へ飛んだ。
柵の杭へぶつかり、息が抜ける。
硬化した場所は破れていない。
その周りが痛い。
「セイン!」
リオナの矢が、岩角鹿の足元へ刺さる。
攻撃ではない。
地面へ続けて二本放ち、柵と男の間を塞いだ。
岩角鹿が矢を避け、外側へ向きを変える。
「塩の方へ!」
リオナが叫ぶ。
立ち上がり、岩角鹿の横へ回る。
正面から押しても勝てない。
森へ戻る側を塞ぎ、音撃を短く放つ。
岩角鹿が嫌がって反対へ進む。
そこには、塩の線が残っている。
一歩。
もう一歩。
走り出した。
俺たちから離れ、塩の塊へ向かう。
「追うぞ!」
牧場主が起き上がる。
リオナが槍の柄を掴んだ。
「追わないでください!」
「あの角なら銀貨になる!」
「領主の狩猟林から来た個体です!」
「ここは俺の牧場だ!」
「だから、柵の外へ出しました!」
男は槍を引こうとする。
リオナも離さない。
「放せ!」
「罰金を払いたいなら、先に奥さんへ聞いてください!」
南の小屋から、妻が走ってきた。
「何やってるんだい!」
「角を取る」
「柵を直す金まで罰金にする気かい!」
夫の動きが止まった。
岩角鹿は塩の塊を舐め終え、さらに北へ歩いている。
追わなければ、戻ってこない。
心音が少しずつ遠ざかった。
「逃がした」
男が言う。
「追い払う依頼です」
リオナは槍から手を離した。
「昨日は姿も見つけられなかっただろ」
「だから今日、見つけて追い払いました」
「倒してない」
「倒す依頼ではありません」
同じ言葉を、リオナは声を荒らげずに言い直した。
牧場主の妻が、壊れた柵を見る。
「明日、塩を流すよ」
「塩袋も柵から離してください」
「分かった」
「あんたは?」
夫を見る。
「槍を置く」
「今すぐ」
男は渋々、小屋へ戻った。
リオナがその背中を見送り、長く息を吐く。
「魔物より疲れる」
「弱いのに追う」
「角の値段が見えたから」
「死んだら使えない」
「それが見えなくなる人もいるの」
左肩の硬化を解く。
皮膚は元の色へ戻った。
角が当たった周りだけが赤く腫れている。
「怪我は?」
「増えた」
「見せて」
「浅い」
「それを私が見るの」
上着の肩を開く。
リオナが指で周りを押し、骨が動くか確かめた。
「折れてないと思う」
「硬くした」
「全部?」
「当たるところだけ」
「前より上手くなってる」
黒牙大イタチに腕を噛ませた時は、手首まで固めて抜けなくなった。
今は、角が当たる場所だけを守れた。
牧場の柵は、もう鳴っていない。
羊の心音も少しずつ落ち着いていた。




