第087話 塩と針と尾行者
ギルドを出た後、治療院へ向かった。
右腕の傷は、ゴルナが洗って巻き直している。
それでも、町へ戻ったら洗えとフィナに言われた。
自分で水をかけるだけでは、また前と同じだと言われそうだった。
治療院の裏口では、セルカが桶の水を捨てていた。
俺の籠を見る。
「今日は何を運んできたの?」
「もう売った」
「先に傷を見せる方は、まだ覚えてないみたいね」
「一度洗った」
「誰が?」
「ゴルナ」
セルカは聞いたことのない名前に少し眉を上げたが、追及しなかった。
中へ入り、台へ右腕を置く。
布を外すと、薬草の苦い匂いが広がった。
「ちゃんとした処置」
「なら帰る」
「ちゃんとしてても、噛まれた傷は中が膿むの」
止められた。
傷の周りを押される。
痛みはあるが、濁った液は出ない。
「何に噛まれた?」
「大灰殻ムカデ」
「それを先に言って」
セルカが手袋を替える。
「毒は強くないけど、腐った物も食べる魔物だから」
「死骸じゃない」
「ムカデが何を食べていたかの話」
洗浄液を傷へ流される。
沁みた。
腕を引こうとすると、手首を押さえられる。
「動かない」
「痛い」
「言えるようになったね」
「フィナにも言われた」
「その人と私は気が合いそう」
新しい布を巻きながら、セルカが笑った。
処置代は銅貨三枚。
自分の革紐から払う。
所持金は銀貨三枚と銅貨八枚になった。
「それは?」
台の横に置いた木札を、セルカが指す。
「買うもの」
読んでもらう。
塩。
丈夫な布。
縫い針。
小さい鉄釘。
「ずいぶん生活らしい買い物ね」
「俺のじゃない」
「頼まれたの?」
「苔と交換する」
「灰灯苔?」
「知ってる?」
「傷薬へ混ぜるから」
セルカは木札の端へ、小さな印を書き足した。
「何」
「布は目が詰まったもの。薄すぎると包帯にも袋にもならない」
「読めない」
「店の人には読める」
木札を小袋へ戻す。
廊下の奥から、片脚を引きずる音がした。
ユアンが水差しを二つ持って歩いてくる。
俺を見ると、足元へ目を落とした。
「靴、買ったのか」
「買った」
「じゃあ、あれは捨てた?」
「部屋にある」
「何が?」
「足布」
ユアンはしばらく黙った。
「まだ持ってたのか」
「返す」
「いや、いらない」
「借りた」
「洗った?」
「何度も」
「なら、もっといらない」
水差しを置き、ユアンが椅子へ座る。
「あれ、ずっと使ってたんだぞ」
「使える」
「お前が使ってた時点で、もう俺より高い所まで行ってる」
「どこに」
「魔境だよ」
何と返せばいいか分からない。
「返さなくていい?」
「いい」
「捨てる?」
「何で俺に確認するんだ」
「借りたから」
ユアンは額を押さえた。
「好きに使え。靴が濡れた時に巻けばいいだろ」
「分かった」
借りた物ではなくなった。
それだけで、小袋の中に空きができたように感じる。
「ダリオは?」
「寝てる」
「歩ける?」
「まだ立てない」
ユアンは水差しへ手を伸ばす。
「俺は運びの仕事を増やした。槍だけ持ってても、治療費は減らないからな」
「金がいる?」
「お前には借りない」
「貸すとは言ってない」
「そこは言えよ」
ユアンが笑い、水差しを持って奥へ戻った。
市場へ出る。
塩を売る店は三軒あった。
一軒目では、小袋一つで銅貨六枚。
二軒目では五枚。
三軒目は四枚だったが、袋の底に砂が混じっている。
二軒目へ戻る。
布はセルカが足した印を見せ、目の詰まった端切れを銅貨四枚で買った。
縫い針は四本で銅貨二枚。
小さい鉄釘は十本で銅貨三枚。
合わせて銀貨一枚と銅貨四枚。
集落の革紐から、最後の銅貨が外れた。
塩、布、針、釘を背負い籠へ入れ、布で上を覆う。
「さっきの殻、売ったのか」
肉屋の前で声をかけた男が、通りの角にいた。
近くで見ると、店主ではない。
革の前掛けに、緑色の糸で小さな秤が縫われている。
「売った」
「いくらだ」
「三枚で銀貨一枚と銅貨八枚」
「次は一枚につき、そこへ銅貨一枚足す」
「何で」
「ギルドへ払う手数料がない」
「検査は」
「うちでする」
「誰」
「ヴァルカ商会の買い付けだ。オルド」
男は薄い木札を出した。
緑の秤と、文字が刻まれている。
「次に持ってきたら、東市場の革屋へこれを出せ」
「場所は言わない」
「殻が買えれば、場所はいらん」
「何に使う」
「肩当てと、荷馬車の底だ」
「荷馬車?」
「石皮トカゲより薄くて軽い。数がそろえば使える」
木札を受け取る。
高く売れるなら、断る理由はない。
けれど、ゴルナは値段を先に聞けと言った。
「持ち主に聞く」
「お前のじゃないのか?」
「三枚は俺のだった」
「次の話だ」
「次の殻は、まだ誰のものでもない」
オルドは一度目を細め、それから笑った。
「面白い返事をするな」
「何が」
「普通は、あると言ってから取りに行く」
木札だけを残し、人混みへ戻っていった。
蜂蜜を固めた小さな飴が、隣の屋台に並んでいる。
一つ、銅貨一枚。
自分の革紐から銅貨を一枚外した。
所持金は銀貨三枚と銅貨七枚。
紙へ包まれた飴を、針と混ざらない場所へ入れた。
余ったから買ったわけではない。
ティオに一束では買えないと言った。
あれは本当だった。
それでも、今の金なら一つは買えた。
片靴亭へ戻ると、ベッカが階段の下から俺を見た。
「また部屋を空けたね」
「払ってる」
「だから貸したままにしてる」
「問題ない」
「朝、空の部屋へ声をかけてた私の問題だよ」
個室の鍵を開ける。
机の上には、ユアンから借りた足布が置いた時のまま残っていた。
もう返さなくていいと言われた。
汚れているが、捨てる必要もない。
乾いた布袋へ入れ、背負い籠の底へ移した。
塩と針は机へ置かない。
集落へ渡すまでは、俺の物ではない。
狩猟刀を手が届く場所へ置き、服のまま横になった。
右腕の痛みで一度起きたが、朝まで扉が開くことはなかった。
翌朝、残り三泊になった部屋へ鍵をかける。
「今度はどこへ」
下へ降りると、ベッカが鍋を磨いていた。
「魔境」
「帰る日は」
「今日」
「昨日も同じことを言った?」
「言ってない」
「なら少しはましか」
南門を出る。
背負い籠の中には、塩、布、針、釘。
一番上へ蜜飴を入れている。
門から離れてしばらく歩いたところで、後ろの心音が一つだけ残っていることに気づいた。
他の旅人は、街道を東か南へ進んだ。
その一つだけが、俺と同じ間隔で歩いてくる。
止まる。
後ろの足音も、少し遅れて止まった。
振り返ると、遠くに茶色い外套が見える。
男は道端の草へ屈み、靴紐を直すふりをした。
また歩く。
足音も動き始める。
町へ戻る気はないらしい。
灰灯苔の採取地へ続く白い石の印が見えた。
そこでは曲がらず、街道を先へ進む。
男も曲がらなかった。
黒骨洞から離れる道へ入っても、ついてくる。
籠の重さが肩へ食い込んだ。
このまま歩けば、集落へ戻るのが遅くなる。
真っ直ぐ戻れば、道を見られる。
街道を外れ、木の多い斜面へ入った。
男は少し迷った後、同じ場所から草を踏んだ。
追うのを隠す気がなくなっている。
乾いた沢を下り、倒木の向こうで籠を下ろす。
自分の血を一滴だけ浮かせ、血液操作で右の岩陰へ飛ばした。
白い石肌に赤がつく。
その手前の枯れ葉を靴で払い、俺が岩の裏へ回ったように跡を残す。
自分は左の木へ回った。
やがて、男が沢へ下りてくる。
男は枯れ葉の切れた跡を辿り、石についた赤を見て足を速めた。
近づいた背中へ、狩猟刀を向けた。
「何でついてくる」
男の肩が跳ねる。
振り向こうとしたため、刃を首へ近づける。
「動くな」
「待て、俺は何も取ってない」
「取る場所を探してる」
「違う」
「じゃあ戻れ」
男は両手を上げた。
三十歳より少し若い。
外套の下には、短い採取鎌と空の袋がある。
武器は腰の小刀だけだ。
「灰灯苔を採るだけだ」
「場所を知らない」
「だから、あんたが行く所を見ようとした」
「同じだ」
「苔は誰の物でもないだろ」
「俺の道にある」
「山は領主の物だ」
「道は登録した」
男が黙る。
「非公開採取地か?」
「そう」
「Fランクが?」
「何が違う」
「普通は持ってない」
男はゆっくり両手を下ろそうとした。
首へ刃が触れる。
止まった。
「誰に聞いた」
「門で殻を見た」
「それだけ?」
「市場で値段を聞いてた。黒骨洞の近くだって話も聞こえた」
「オルドに言われた?」
「誰だ、それ」
心音は速い。
名前を聞いた時だけ変わった様子はない。
嘘かどうかは分からないが、商会の男に頼まれたわけではなさそうだった。
「見つけたらどうする」
「苔を採る」
「その後」
「場所を売る」
「誰に」
「採取人にだ。殻があるなら、解体屋にも売れる」
自分で殻を狩るつもりはない。
道だけを見つけ、他の人間へ売る。
男の袋から、白い石灰の欠片が出てきた。
木や石へ印を残すためのものだ。
「名前は」
「何で」
「ギルドに言う」
「何も取ってない」
「登録した道を探した」
「それで依頼が出るかよ」
「分からない」
ネラへ聞かなければ分からない。
けれど、男も分からないらしい。
「名前」
「サム・ロッカ」
「登録証は」
「今はない」
「今は?」
「更新してない」
男の外套から、欠けた木札が出てきた。
文字は読めない。
名前らしい形だけは刻まれている。
「戻る」
「分かった」
「先に歩け」
「町までか?」
「街道まで」
「あんたは?」
「後ろにいる」
男を先に歩かせる。
背負い籠は自分で持つ。
道を売るつもりだった人間に、塩と針を持たせる気はない。
乾いた沢を上り、街道へ戻った。
「このまま南門へ行け」
「行かなかったら?」
「次は話さない」
男が俺の顔を見る。
「殺すのか」
「分からない」
本当に、まだ決めていなかった。
町で人間を殺せば、ガレオの時とは違う跡が残る。
放せば、別の道から探すかもしれない。
男は俺の顔を見たまま、後ろへ下がった。
「行く。もう追わない」
「信じてない」
「ならどうしろってんだ」
「町まで歩け」
サムは背を向ける。
何度か振り返りながら、南門の方へ歩いていった。
姿が見えなくなっても、しばらく心音を追う。
街道から外れた音はしなかった。
白い石灰は俺が持ったままだ。
そこから大きく道を変え、日が傾く頃にコボルト集落へ着いた。
見張りは、背負い籠より先に俺の後ろを見た。
「一人?」
「一人」
小門が開く。
取引小屋へ入ると、ゴルナとフィナが待っていた。
「遅かった」
「つけられた」
二人の顔が変わる。
「ここまで?」
「途中で戻した」
「誰に」
「町の男」
籠を下ろす。
塩と布を出しても、ゴルナは見なかった。
「顔は見られた?」
「最初から見られてる」
「道のことだよ」
「白い石の印までは知ってる。そこから先は見せてない」
奪った石灰を机へ置く。
「印をつけるつもりだった」
フィナが石灰を指で擦る。
「これ、雨でも少し残る」
「次も来ると思う?」
「分からない」
「一人が見つけたら、他にも探す者が出る」
ゴルナはようやく籠へ目を落とした。
「売れたからね」
銀貨一枚と銅貨四枚で買った品を、机へ並べる。
塩の袋。
目の詰まった布。
縫い針四本。
小さい鉄釘十本。
「金は残った?」
「残ってない」
「ちょうど?」
「値段を三軒で聞いた」
ゴルナが塩を少し舐める。
布を明かりへ透かし、針の先も確かめた。
「砂は少ない。布も悪くない」
「セルカが印を書いた」
「町にも、あんたへ教える人がいるんだね」
「傷を洗う人」
「その人には集落を話した?」
「話してない」
フィナが鉄釘を一本持ち上げる。
「水路の印へ使える」
「人間が来るなら、印を増やすだけじゃ足りないよ」
ゴルナは机へ石灰で一本の線を引いた。
「次から、町へ戻る道と、集落へ戻る道を同じにしない」
「遠くなる」
「今日も遠回りしたんだろ」
「した」
「なら最初から決めておく」
三本爪の水路へ直接入らず、一度黒巣側へ回る。
町へ出る時も、白い石の印がある採取路は使わない。
苔と殻を運ぶ日は、集落側の見張りを増やす。
一つずつ決めていく。
「これ」
ティオが小屋の戸から覗いていた。
紙に包んだ蜜飴を出す。
「何?」
「甘いもの」
「集落の?」
「俺の金で買った」
ティオはゴルナを見る。
「もらっていい?」
「それはミナトに聞きな」
「いい?」
「そのために買った」
包みを受け取ると、すぐ口へ入れた。
噛もうとして、顔をしかめる。
「硬い」
「舐めるものだ」
「先に言って」
口の中で転がし、もう一度だけ噛んだ。
半分に割れた音がする。
片方を紙へ戻し、服の中へ隠した。
「残すの?」
フィナが聞く。
「明日の分」
「溶けるよ」
ティオは服の中から紙を出した。
どこへ置くか迷い、結局、口へ戻す。
ゴルナが机に引いた線の上へ、もう一本を足した。
町から来る道と、集落へ戻る道は、途中から別々に伸びていた。




