第085話 空けていた巣
大灰殻ムカデの背殻を外し終えるまで、昼近くかかった。
穴掘りの二人は、重ねた殻を縄で縛っている。
大きな背殻だけで七枚あり、小さい個体の殻まで合わせれば、一度では集落へ運びきれない。
「先に戻る?」
フィナが聞いた。
「黒巣を見る」
「その腕で?」
「道を開けた」
「だから、今日は戻っても道は消えないよ」
右腕の布には、まだ赤い染みが広がっている。
痛みもある。
けれど、水路の向こうが通れると分かっただけでは足りない。
黒巣を長く空けていた。
俺が戻らない間も、魔境の魔物は動いている。
「見るだけ」
「その言い方、町で覚えた?」
「何が」
「怪我してる人は、みんなそう言う」
フィナは穴掘りの二人へ、殻を集落まで運ぶように頼んだ。
自分は弓と灯りを持つ。
「来るのか」
「水路が本当に黒巣まで通れるか、集落も知らないと困る」
「中には入れない」
「見せてって言ってない」
返事が少し早かった。
俺も、それ以上は言わなかった。
三本爪を刻んだ背殻から先へ進む。
大灰殻ムカデの体が塞いでいた場所を越えると、水路は少しずつ狭くなった。
白い筋のある壁。
途中で二つに割れた尖った石。
見覚えのある場所が続いている。
人型になってから歩くと、以前より天井が近い。
壁の傷も、床の窪みも小さく見えた。
「ここ、何度も通ったの?」
「通った」
「一人で?」
「前は飛べた」
「今も飛べるでしょ」
「ここでは大きい」
フィナは俺の背中を見た。
人型の服の下に翼はない。
説明しようとすると長くなるので、そのまま歩く。
黒巣へ上がる穴の手前で止まった。
ここから先は、俺が幼体だった頃に何度も爪をかけた道だ。
「待ってろ」
「どのくらい?」
「分からない」
「それだと待てない」
「何かいたら戻る」
「いなかったら?」
「見てから決める」
フィナは口を閉じ、壁へ背をつけた。
「大きい音がしたら入るから」
「入るな」
「返事があれば入らない」
右腕を庇いながら、穴を上がる。
入口に張った金属線は残っていた。
片側だけが石から外れ、床へ垂れている。
人間だった時の指で結び直せるほど、細い線だ。
触れる前に、奥へ声を出した。
返ってきた形は、記憶よりずっと多かった。
天井に七匹、奥の窪みに三匹、さらに床近くにも一匹いる。
どれも翼があり、逆さにぶら下がっていた。
心音が重なっている。
俺が一歩入ると、暗闇の中で一斉に羽が動いた。
【血吸いコウモリ】
昔、保存した肉を奪いに来た魔物と同じ名前だった。
体は、幼体だった頃の俺より大きい。
今の俺なら、片手でも押さえられる。
一匹が奥から飛んでくる。
他より一回り大きい。
【血牙コウモリ】
開いた口に、細長い牙が二本見えた。
顔へ来る。
左手を上げると、血牙コウモリは途中で向きを変え、右腕の傷へ回った。
血の匂いを追っている。
噛みつかれる直前、右手の甲だけを硬くした。
顎の間へ差し込む。
牙が灰色の皮膚へ当たり、浅い傷だけを残した。
指が動かしにくい。
そのままでは掴めない。
硬化を解き、首の後ろを握る。
血牙コウモリが暴れ、翼の先が手首へ何度も当たった。
床へ押しつける。
音撃を近い距離で放つと、小さな体が石の上で止まった。
殺せる。
牙を立てれば、血も因子も取れる。
けれど、巣の奥には石皮トカゲの骨が増えていた。
古い肉はほとんど残っていない。
代わりに、虫の羽と小さな殻が床へ散っている。
こいつらは、ここで食っていた。
俺がいない間、別の魔物も追い払ったらしい。
握る力を緩める。
血牙コウモリはすぐには飛ばなかった。
床を這って距離を取り、天井の仲間へ向かって鳴く。
ほかの血吸いコウモリも奥へ寄る。
逃げ道は塞がない。
俺へ近づいてもこない。
「奥は使う」
言葉が通じた様子はない。
それでも、狩猟刀の鞘で床へ線を引き、内側へ入る。
血吸いコウモリたちは天井の外側に残った。
黒巣の奥には、ガレオの道具を置いていた窪みがある。
金属線の残りも、乾いた布も、幼体だった頃に集めた骨も、なくなってはいない。
ただ、糸に包んで残した洞窟鼠は死んでいた。
乾いて軽くなった体が、灰色の糸へ引っかかっている。
血はもう残っていない。
俺がここへ置いたまま、町で何日も過ごした。
近くにいたら、死ぬ前に吸っていたと思う。
今は、手を伸ばして糸から外す。
床の骨と一緒に、奥の窪みへ寄せた。
黒巣は残っていた。
残っていても、前と同じではなかった。
入口へ戻ると、血吸いコウモリが天井からこちらを見ている。
一匹だけ、さっき床へ押さえた血牙コウモリの近くにいた。
追い出す必要はない。
俺が戻った時に奥へ入らなければ、それでいい。
垂れていた金属線を結び直す。
外へ下りると、フィナが弓を構えていた。
「遅い」
「いた」
「何が?」
頭上の穴から、血吸いコウモリが一匹だけ出てきた。
俺たちの上を回り、水路の奥へ飛んでいく。
フィナが矢を向ける。
「撃つな」
「巣を取られたんじゃないの?」
「外側だけ使わせる」
「飼うの?」
「勝手にいる」
「それ、飼ってるのと何が違うの」
答えは分からない。
黒巣の入口を見上げる。
もう一匹は出てこなかった。
「今夜、ここで寝るの?」
「そのつもり」
「敷く物、あった?」
「外套がある」
フィナは、穴の奥に置いた古い外套を思い出したらしく、鼻に皺を寄せた。
「あれ、まだ人間の匂いがする」
「俺には分からない」
「帰ったら、余ってる毛布がないか聞く」
「いらない」
「聞くだけ」
フィナはもう集落へ向かっていた。




