第080話 夜明けに二匹を狩る
夜は、治療院の長椅子で過ごした。
片靴亭へ戻るには遅く、胸と肩の傷を見たセルカが外へ出さなかった。
眠れたのは、少しだけだ。
カルドの心音が弱くなるたびに目が覚めた。
夜明け前、治療院の戸が開く。
リオナが十二本の矢を入れた矢筒を背負って入ってきた。
「起きてたんですか」
「今、起きた」
「目、開いてましたけど」
答えずに体を起こす。
肩に巻かれた布が引きつった。
「腕は動きますか」
「動く」
「セルカさんは?」
「動くかじゃなく、戦えるかを聞いてください」
奥からセルカが出てくる。
手には、血で汚れた布が何枚も載っていた。
「戦える」
「本人に聞くと、そう言うと思ってました」
セルカは俺の右肩を押す。
痛みはある。
けれど、昨日より腫れは引いていた。
「傷が開いたら戻ること。血を飲めば何でも治ると思わないこと」
「何か飲める血はある?」
「ここは治療院です」
「ない?」
「ありません」
カルドが寝ている台を見る。
右脚は厚い布と板で固定されている。
心音は続いていた。
「起こさないで」
セルカが先に言った。
「弟の場所を聞く」
「昨夜、分かる範囲は全部聞きました」
セルカは棚から畳んだ紙を出す。
炭焼き窯と荷車、それから弟が引きずられた方向が、線だけで描かれていた。
「本人が描いた?」
「私が聞いて描きました。本人が描いたら、たぶん窯が丸になる前に寝ます」
紙をリオナへ渡す。
「脚は」
「今のところ残せそうです」
その言葉で、リオナの顔が少し緩んだ。
「ただし、また歩けるかはまだ分かりません」
緩んだものが戻る。
「行きます」
リオナが言った。
「二人とも、帰ってきてください」
「はい」
「セインも」
「分かった」
治療院を出る。
東の空が白み始めていた。
ギルド前には、ベルクとエッダが立っている。
ベルクは丸盾と片手槍を持ち、エッダは曲がった短剣と罠用の細い糸を腰へ下げていた。
「四人で行く」
ベルクが言う。
「討伐優先ですか」
「生存者がいれば救出、死んでいれば遺体を回収、狼を見つけたら帰路を確保してから狩る」
「逃げたら?」
俺が聞く。
「南古道から遠ざかるなら深追いしない」
「また戻る」
「戻る前に罠と討伐依頼を置く」
全部を今殺すつもりではない。
けれど、逃がすだけでもない。
エッダが俺の短刀を抜かせた。
刃の一部が欠け、先端も少し曲がっている。
「これで狼を刺した?」
「三回」
「次は二回目で折れるかも」
鞘へ戻される。
「使うな?」
「骨へ当てないで」
「当たった」
「でしょうね」
エッダは腰の後ろから短い解体刀を抜いた。
柄をこちらへ向ける。
「貸しです。失くしたら銀貨一枚」
「高い」
「なら失くさないで」
受け取る。
俺の短刀より刃が厚い。
「帰ったら返す」
「血も拭いて」
南門が開く。
門の外には通行止めの柵が置かれ、昨日まで通れた古道に衛兵が二人立っていた。
森へ着くまで、誰もあまり話さなかった。
昨日つけた白い線を見つける。
その近くには、俺たち以外の新しい足跡があった。
狼ではない。
三本指の小さな跡。
「ゴブリン?」
リオナがしゃがむ。
「三匹です。こちらへ来て、途中で引き返してます」
「何を見に来た」
「残った道具」
「狼の様子かもしれません」
リオナが言う。
エッダは足跡を一つ指でなぞり、立ち上がった。
「どちらでも、今はいない」
霧は昨日より薄い。
遠くの木まで見える分、動く影も増えた。
鳥が枝を移るたび、リオナの指が弓弦へかかる。
「沢はこっち」
斜面を下る。
血を投げた場所には、割れた壺だけが残っていた。
落ち葉が広く踏み荒らされている。
狼が血を垂らした跡は、目では見つけられなかった。
「飲んで戻ったみたいですね」
「傷ついた一匹」
「どうして分かるんですか」
「矢で傷つけた狼の血の匂いが混じってる」
リオナが匂いを嗅ごうとし、すぐ顔をしかめた。
「私には豚の血しか分かりません」
「それでいい」
沢へ出る。
倒した霧喰い狼は、昨日の場所に残っていた。
腹の一部が食われている。
「仲間が食った?」
「腹だけなら、別の小型魔物かもしれない」
エッダが周囲の泥を見る。
「大きい足跡は二匹分。どちらも死骸へ近づいてる」
「共食い?」
「食べたかは断定できない」
狼の足跡は、沢の上流と森の奥へ分かれていた。
血が混じっているのは、森の奥へ続く方だけだ。
昨日、最初に傷つけた狼だ。
「先に負傷個体を追う」
ベルクが決めた。
「動けるうちに仕留める。もう一匹はエッダが見る」
沢を離れる。
傷ついた狼の足跡は、右前脚だけ浅い。
歩幅も揃っていなかった。
途中から、人間を引きずった跡と重なる。
折れた枝に、黒い布が残っている。
リオナが布を外した。
「炭焼きの上着です」
その先には、片方だけの靴が落ちていた。
人間の匂いが濃くなる。
血。
汗。
それから、腐り始めた肉。
心音は聞こえない。
「近い」
俺が言う。
「狼ですか」
「人間」
低い茂みを回る。
木の根元に、男が横たわっていた。
片脚に靴がなく、服の背中が大きく裂けている。
リオナが駆け寄ろうとする。
「待て」
ベルクが腕を掴んだ。
「心音がない」
俺が言う。
リオナの足が止まる。
男の首には、炭で黒くなった細い紐が巻かれていた。
カルドも同じものを腕につけていた。
「ルッツです」
リオナが小さく言った。
死骸の周りに、狼の足跡が多すぎる。
近づいた跡も、離れた跡もある。
エッダは短剣の柄から手を離さなかった。
「食べるなら、もっと食べてる」
「餌じゃない?」
「私たちを待つ餌にはなる」
右の木陰から、低い唸り声がした。
同時に、左奥の茂みが揺れる。
二つの心音。
一つは速く、弱い。
もう一つは、ほとんど動いていない。
「来ます!」
リオナが矢をつがえる。
ベルクが盾を上げ、ルッツの死骸と俺たちの間へ入った。
死骸の向こうで青い眼が開き、左の茂みからもう一匹が低く飛び出した。
左から来た一匹が、まっすぐリオナを狙った。
ベルクの丸盾が横から入る。
牙が盾の縁へ噛みつき、ベルクの靴が土を滑った。
「右も来る!」
俺が言うと、エッダが振り向く。
ルッツの死骸の向こうから、傷ついた霧喰い狼が走っていた。
右前脚を庇っている。
昨日の矢は抜けていたが、肩と首の傷から血が滲んでいる。
「リオナ、右!」
エッダの声と同時に矢が飛ぶ。
傷ついた狼は横へ跳んだ。
矢は胸を外れ、後脚へ刺さる。
狼の体が崩れた。
それでも、倒れたままルッツの腕へ噛みつく。
「持っていく気です!」
リオナが二本目をつがえる。
「撃つな。遺体に当たる」
ベルクはもう一匹を盾で押さえたまま動けない。
俺が行く。
傷ついた狼はルッツの腕を離し、こちらへ口を開いた。
血の匂いが強い。
俺の胸ではなく、裂けた上着の奥を狙っている。
昨日と同じだ。
こいつらは、先に血が出ている場所を狙う。
左腕を前へ出す。
狼の頭が動いた。
牙が腕へ届く直前、半歩だけ横へずれる。
エッダから借りた解体刀を、首の傷へ入れた。
厚い刃が肉へ沈む。
狼の肩がぶつかり、体ごと地面へ倒された。
右肩に痛みが走る。
刀から手を離さない。
狼が首を振るたび、傷の中で刃が動いた。
前脚の爪が胸へ来る。
手首を掴む。
力は向こうの方が強い。
爪先が少しずつ近づいてくる。
「離れて!」
リオナの矢が、狼の脇腹へ刺さった。
力が一瞬だけ抜ける。
その間に膝を腹へ入れ、下から押し返した。
狼の体が横へ傾く。
首へ刺した刃を、両手で引いた。
傷が大きく開く。
噴き出した血が口へ入った。
温かい。
逃さず飲み込む。
狼は立とうとしたが、矢の刺さった後脚が滑った。
首から血が落ち続ける。
心音が弱くなり、止まった。
――――――――――
霧喰い狼を討伐しました。
経験値を取得しました。
Lvが33から34に上昇しました。
筋力:140から144に上昇しました。
敏捷:188から192に上昇しました。
魔力:128から132に上昇しました。
――――――――――
体の内側に力が増える。
右肩の痛みは残ったままだ。
頭の中の通知を追うより先に、立ち上がる。
ベルクの盾へ噛みついていた狼が、急に口を離した。
仲間の血へ顔を向ける。
「下がる!」
エッダが叫ぶ。
狼は後ろへ跳んだ。
その足元で、細い糸が張る。
エッダが木の根と自分の短剣の柄へ回していた糸だ。
後脚が引っかかる。
完全には倒れない。
糸を引きずったまま、霧の濃い方へ走る。
「逃げます!」
リオナが追おうとする。
「左へ出る」
心音は、正面から少しずつずれている。
見えている影は囮みたいに霧へ残り、本体は左の木へ近づいていた。
「左の木の裏!」
ベルクが片手槍を投げる。
霧の中で狼が身を伏せ、槍は頭上を通った。
だが、進む方向が変わる。
エッダのいる側へ寄った。
「こっちに寄せないで」
エッダは糸を離し、木の裏へ回る。
狼がその背中を追う。
リオナの矢が横腹へ刺さった。
一度よろめいても、止まらない。
エッダへ牙が届く。
その前に、俺が横から体当たりした。
一緒に茂みへ転がる。
狼はすぐに起き上がり、俺の腹を蹴った。
爪が上着と皮膚を浅く裂く。
解体刀を振る。
鼻先へ当たったが、刃は毛と皮を切っただけだった。
狼の口が開く。
自分の腹から滲んだ血へ触れた。
血液操作で、一滴だけ指先へ集める。
指を弾き、狼の鼻へ飛ばした。
血が鼻先へつき、狼の頭がぶれる。
俺の匂いが近すぎて、狙う場所を外した。
牙が肩の横を通る。
エッダが後ろから踏み込み、曲がった短剣で後脚の腱を切った。
狼の腰が落ちる。
ベルクが走ってくる。
投げた片手槍を拾う時間はない。
丸盾を狼の頭へ叩きつけた。
一度目で地面へ伏せる。
二度目で牙が折れた。
「押さえろ!」
狼の前脚を掴む。
エッダが後脚を踏み、リオナは矢をつがえたまま周囲を見る。
ベルクが腰から予備の短剣を抜いた。
狼の首へ深く入れる。
刃を抜かず、そのまま体重をかけた。
暴れていた脚が止まる。
森の中に、俺たち以外の大きな心音はなかった。
「終わり?」
リオナの声が少し上ずっている。
俺は周囲の音を探す。
鳥と、小さな魔物と、四人の心音。
「死んだ」
「先に、そう言ってください」
リオナが弓を下げる。
ベルクは答えず、ルッツの死骸へ近づいた。
首と胸へ指を当てる。
「間違いない」
「昨日の夜には、もう」
エッダが傷と血の乾き方を見る。
「日が落ちる前か、少し後。夜にここへ着いても、間に合わなかったはず」
リオナは何も言わなかった。
昨日、夜の森へ入っていても間に合わなかった。
ベルクが自分の外套を外し、ルッツへかけた。
「運ぶぞ」
「狼は?」
俺が聞く。
「場所を記録して、後で回収班を寄越す」
「血は今しか飲めない」
三人がこちらを見る。
「腐る」
「分かりましたから、少しだけにしてください」
リオナがため息をついた。
倒した二匹の首から、それぞれ血を飲む。
死んでから時間は経っていない。
温かさが残っていた。
――――――――――
固有スキル【因子吸収Lv1】が発動しました。
因子【霧喰い狼因子】の蓄積量が増加しました。
因子【霧喰い狼因子】の一部が、新たな能力として発現しました。
スキル【霧適応・最下位Lv1】を獲得しました。
――――――――――
――――――――――
スキル【霧適応・最下位Lv1】
自然の霧や魔力を含む薄い霧の中で、視覚と嗅覚が阻害されにくくなる。
霧を生み出したり、操作したりすることはできない。
――――――――――
顔を上げる。
薄い霧の向こうにある木の輪郭が、少しだけはっきり見えた。
「何か増えました?」
リオナが聞く。
「霧の中が見やすくなった」
「もう?」
「三匹分」
エッダは狼を見てから、俺の口元についた血を見る。
「それ、ギルドで測れる?」
「分からない。前は能力まで出なかった」
「そう」
それ以上は聞かれなかった。
木を二本切り、外套を間へ結ぶ。
ルッツを載せると、即席の担架は深く沈んだ。
ベルクと俺が前後を持つ。
来た時より、帰りの方が重かった。




