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最弱コウモリ幼体に転生したので、血を吸って進化する  作者: HATENA 
第5章 名前のない冒険者

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第079話 霧の外へ

 坂は落ち葉で滑った。


 背中の男がずれるたび、噛まれた右脚から血が落ちる。


 霧喰い狼の心音は、後ろと左右に分かれていた。


 一匹は傷ついている。


 残る二匹は、俺たちより先へ回ろうとしている。


「右前に一匹」


 リオナへ言う。


「距離は」

「走ればすぐ」

「走らないで」

「追いつかれる」

「下りで走ったら、この人を落とします」


 リオナは木へ白い線を引きながら、斜面を横へ進む。


 来た道には戻っていない。


「どこへ行く」

「沢です」

「町は」

「沢を下れば畑の近くへ出ます」

「遠い?」

「安全なら近いです」


 安全ではない。


 右前の狼が足を止めた。


 心音だけが、同じ場所から聞こえてくる。


「前にいる」

「見えますか」

「見えない」


 霧と木の間に、狼の姿はなかった。


 歩く速度を落とす。


 背中の男が小さく呻いた。


「水……」


 リオナが水袋を出そうとする。


「止まるな」

「一口だけです」

「狼が前にいる」


 男の口へ水を少しだけ流し、すぐ袋を戻す。


 その間に、後ろの心音が近づいた。


 傷つけた一匹。


 追いつかれる。


 麻袋の中で、壺が背中へ当たった。


 豚の血。


 町へ戻ってから飲むつもりだった。


「これを使う」

「何を」


 壺を取り出す。


 蓋を開け、左の斜面へ投げた。


 石へ当たり、壺が割れる。


 固まりかけた血が、落ち葉へ散った。


「それ、飲むための血でしょう」

「またもらえる」


 後ろの一匹が進む方向を変えた。


 血の匂いへ寄っていく。


 だが、右前の一匹は動かない。


 もう一匹も左側から距離を詰めている。


「一匹だけ」

「十分です」


 リオナが細い縄を出す。


 端を木の幹へ一度回し、反対側を持ったまま進んだ。


「何する」

「通った後に引きます」

「狼が踏む?」

「踏ませます」


 霧の中で、青い眼が一瞬だけ見えた。


 右前。


 俺たちが縄を越えるまで動かない。


「来る」


 リオナが前へ走る。


 俺も男を背負ったまま縄を跨いだ。


 その直後、灰色の影が横から飛び出す。


 俺ではなく、リオナへ向かっている。


「後ろ!」


 リオナが縄を引いた。


 低く張られた縄へ、霧喰い狼の前脚がかかる。


 体が前へ崩れた。


 リオナは振り向かず、さらに坂を下る。


 狼はすぐ起き上がる。


「倒さない?」

「時間を作る罠です!」


 殺すためではない。


 逃げるための罠。


 洞窟にいた頃なら、転んだ相手へ噛みついていた。


 今は背中に人間がいる。


 前へ進む。


 水の音が近づいた。


 白い霧の下に、細い沢が見える。


 深さは足首ほど。


「入って」


 リオナが水の中へ下りる。


 俺も続く。


 冷たい水が足布へ染みた。


 血の跡は沢へ流れていく。


 匂いも薄くなる。


 対岸へ上がる直前、男の心音が弱くなった。


「止まる」

「ここでは駄目です」

「死ぬ」


 岩陰へ男を下ろす。


 リオナが右脚の布を開いた。


 動いたせいで、傷がまた広がっている。


「押さえてください」


 布の上から傷を押さえる。


 力を入れすぎないよう、指を開く。


 リオナは新しい布を巻き、その上から細い棒を当てた。


「まだ息はあります」

「心音も」


 対岸で水が跳ねた。


 縄に脚を取られた霧喰い狼が、沢へ入ってくる。


 肩に矢は刺さっていない。


 最初に傷つけた狼とは別の個体だ。


「一匹来た」

「残りは」


 心音を探す。


 豚の血の近くに一匹。


 もう一匹は、上流側を回っている。


「分かれてる」

「ここで止めます」


 リオナが弓を構えた。


「逃げるんじゃない?」

「この人の血を止めるまでです」


 さっきとは違う。


 必要だから戦う。


 霧喰い狼が沢を蹴る。


 水が白く跳ねた。


 矢が一度飛ぶ。


 狼は頭を下げ、矢に背中の毛を掠めさせた。


 そのまま岩へ乗る。


 俺は男から手を離し、短刀を抜いた。


 狼の牙が左腕へ来る。


 噛み跡を狙っている。


 腕を引き、代わりに短刀を下から入れる。


 刃は胸の毛を裂いたが、浅い。


 狼が体を捻る。


 前脚の爪が肩へ当たった。


 上着がさらに裂ける。


 爪を掴み、沢へ引き落とす。


 狼の体が水へ横倒しになった。


 頭を上げる前に、首の下へ短刀を刺す。


 一度。


 二度。


 三度目で、刃の欠けた場所が骨へ当たった。


 短刀が手から抜けそうになる。


 両手で押し込む。


 狼の脚が水を掻き、やがて止まった。


 狼の首から短刀を抜く。


 刃についた血を舐め取った。


――――――――――

霧喰い狼を討伐しました。

経験値を取得しました。


固有スキル【因子吸収Lv1】が発動しました。

因子【霧喰い狼因子】を取得しました。

――――――――――


――――――――――

因子【霧喰い狼因子】

気配遮断、嗅覚、群れ連携、霧適応などが含まれる。

現在の肉体では、新たな能力として発現していない。

――――――――――


「今、刃の血を舐めました?」

「因子を取った」

「それだけで?」

「血を吸えば、取れることがある」


 リオナが死んだ狼を見る。


「大岩熊の時も?」

「取った」

「腐肉ハイエナも」

「取った」

「その力を使えるんですか」

「まだ」


 上流側の心音が動いた。


「来る」


 話を止める。


 男をもう一度背負う。


 リオナは対岸へ落ちた矢を取りに戻ろうとしたが、諦めた。


「残りは三本」

「足りる?」

「足りなくなる前に出ます」


 沢を下る。


 残る狼の心音は、しばらく左右をついてきた。


 霧が薄くなり、木々の先に畑の石壁が見える。


 遠くで、人間の鐘が鳴った。


 追ってくる心音が、森の中で動きを止める。


 森の外までは出てこなかった。


 リオナがようやく弓を下げる。


「魔物だけですか」

「何が」

「因子を取れる相手」


 人間因子は、もう俺の中にある。


「血があれば」


 それだけ答えた。


 リオナは次の質問をしなかった。


 背中の男がまた呻き、二人でそちらを見た。


 畑の鐘が、もう一度鳴った。


 石壁の向こうから、鍬と長い棒を持った男たちが走ってくる。


 先頭の男は俺を見ると足を止めた。


「魔物が出た!」

「違います、冒険者です!」


 リオナが冒険者登録証を出す。


「この人を運ぶのを手伝ってください!」


 俺の背中にいる男を見て、二人が鍬を捨てた。


「カルドじゃないか」

「生きてたのか」


 名前を呼ばれても、男は目を開けなかった。


 畑で使う板戸が運ばれてくる。


 その上へカルドを下ろすと、背中から重さがなくなった。


 血の匂いだけは残っている。


「もう一人は?」


 板戸の端を持った男が聞いた。


「まだ森です」

「ルッツが?」


 リオナは頷いた。


 男たちは何も言わず、板戸を持ち上げた。


 俺も手を出そうとする。


「セインさんは後ろを見てください」


 リオナが止めた。


 森の中に、二つの心音が残っている。


 近づいてはこない。


 白い霧の奥で、こちらを待っている。


 畑を抜ける頃には、鐘を聞いた衛兵も来ていた。


 槍を持った三人が森へ向き、その間を板戸が通る。


「何が出た」

「霧喰い狼が三匹です。一匹は倒しましたが、二匹残っています」


 衛兵の顔が変わる。


「群れか」

「南古道へは誰も入れないでください」

「門へ伝える」


 一人が町へ走った。


 俺たちは、その後を追った。


 南門では荷車が止められ、門前の人間が固まっていた。


 血に濡れたカルドと、服の裂けた俺を交互に見ている。


「道を空けろ!」


 衛兵の声で人が割れた。


 治療院まで走る。


 セルカは運び込まれたカルドを見ても驚かなかった。


「台へ。右脚の布は外さないで」


 板戸ごと診察台の横へ置かれる。


「リオナ、いつ噛まれたか分かる?」

「一昨日だと思います」

「思いますじゃ困るけど、本人に聞けないなら仕方ない」


 セルカは布を切り、傷の周りだけを出した。


 黒く変わった血と、裂けた肉が見える。


「水を沸かして。そっちの棚から赤い札の瓶も」


 手伝いの女が動く。


 俺も赤い札を見る。


 読めない文字が並んでいるが、瓶からは酒と薬草の匂いがした。


「セインは?」

「動ける」

「聞いてない。どこを怪我したの」

「肩と胸」

「見せて」

「この人が先」

「分かってる。だからその間に見せて」


 裂けた上着を少し開く。


 胸の爪傷は浅い。


 右肩には新しい腫れがあり、古い傷の近くが赤くなっている。


 セルカは指で触れ、俺が腕を引いたのを見た。


「動けると、治ってるは別だから」

「血を飲めば治る」

「傷口に泥を入れたまま治さないで」


 濡らした布を押しつけられる。


 痛い。


「ギルドへ行ってください」


 セルカはカルドの脚から目を離さずに言った。


「こっちは死なせません」

「脚は」

「残せるかは、今から決めます」


 カルドの心音は弱いが、さっきより乱れていない。


 その音を確かめてから、治療院を出た。


 冒険者ギルドの前では、南古道へ向かう依頼がすべて外されていた。


 ネラが受付の内側から手を上げる。


「奥へ。支部長も呼んでる」

「先に報告書を」


 リオナが言う。


「口頭が先。書くのは後でいい」


 奥の小部屋には、ベルクとエッダがいた。


 壁に掛けられた南古道の地図へ、赤い駒が三つ置かれている。


「座れ」


 ベルクが椅子を指す。


 俺は立ったままでいる。


 リオナだけが座り、膝の上に両手を置いた。


「最初から話せ」

「荷車を調べた後、東へ続くゴブリンの足跡を追いました」

「やはりゴブリンか」


 支部長が地図を見る。


「違います」


 リオナがすぐに否定した。


「荷車を襲ったのは霧喰い狼です。ゴブリンはその後に来て、落ちていた道具を拾っています」

「見たのか」

「三匹と接触しました」


 小部屋が静かになる。


「戦った?」


 エッダが聞いた。


「取引した」


 俺が答える。


「何と何を」

「干し肉と、生きてる人間の場所」


 エッダが一度だけ目を細める。


「言葉は」

「人間の言葉も、少し使ってた」

「前にも魔物と取引したことが?」

「ゴブリンとは今日が初めて」

「そうじゃなくて」


 エッダは何かを言いかけ、口を閉じた。


「続けて」


 ベルクがリオナを見る。


 リオナは窯跡の位置、カルドの怪我、霧喰い狼三匹との接触、撤退中に一匹を倒したことまで話した。


 狼の血から俺が因子を取ったことには触れない。


「もう一人は」

「霧喰い狼に引きずられた跡がありました。窯から北東へ続いています」

「生死は」

「確認できていません」


 支部長が赤い駒を二つに減らす。


「単体でD、群れならC相当だ。Eランク調査の範囲じゃない」

「だから戻りました」

「正しい」


 ベルクが短く言った。


 リオナの肩から、少しだけ力が抜けた。


 支部長は地図の横へ新しい札を掛ける。


「南古道を封鎖。霧喰い狼二匹の討伐と、行方不明者の捜索を緊急依頼へ切り替える」

「いつ出る」


 俺が聞く。


「夜の森へ入る気か」

「まだ明るい」


 窓の外では、太陽が西へ傾き始めている。


「森へ着く頃には暗くなる」


 ベルクが言った。


「霧喰い狼は夜の方が動きやすい。こちらは足跡を失う」

「残ってる人間は」

「生きていれば、今夜を越せる場所を探している」

「探せてなかったら?」


 返事はなかった。


 扉が開く。


 ネラが入ってきた。


「カルド・メイスの意識が戻りました」

「話せるか」

「短くなら」


 治療院へ戻ると、カルドは診察台の上で目を開けていた。


 顔から血の気がなく、唇だけが動く。


「ルッツは」


 リオナが台の横へ立つ。


「まだ見つかっていません」

「生きてた」

「見たんですか」

「狼に……引かれた時、叫んでた」

「いつです」

「一昨日の、朝……俺が窯へ逃げる前」


 それから二日以上経っている。


 カルドは震える手を上げ、リオナの袖を掴んだ。


「弟なんだ」

「分かっています」

「あいつ、脚が遅い。俺が、荷を捨てろって……」


 息が続かなくなる。


 セルカが手を外させた。


「もう喋らせないで」


 カルドの手が台へ落ちる。


 人間の心音は、遠くからでも聞こえる。


 けれど、森に残った一人の音はもう分からない。


「夜明けに行く」


 俺が言う。


 リオナがこちらを見た。


「セインさんも?」

「道も、狼の匂いも知ってる」

「怪我してます」

「お前も」


 リオナは自分の擦り傷を見て、何も言わなくなった。


 カルドの閉じた目の端から、涙が一本だけ流れた。


 俺はそれより、森の中に残した二つの心音を思い出していた。

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