第078話 南古道の三匹
南門へ行く前に、市場で短刀を買った。
新品は銀貨二枚。
鞘まで揃えると、それより高い。
古道の調査報酬と同じ額だった。
「こっちなら銅貨七枚です」
リオナが中古の刃を一本持ち上げる。
ギルドで借りた短刀より細く、刃の根元に小さな欠けがある。
「折れない?」
「大岩熊へ刺したら折れます」
「使えない」
「今回は熊を倒す依頼じゃありません」
「腐肉ハイエナなら」
「当てる場所によります」
店主が鞘から刃を抜いた。
「欠けは研ぎ直せば消える」
「研いで」
「銀貨一枚」
「銅貨七枚で売ると言った」
「今のままならな」
「今のままでいい」
銅貨七枚を払い、短刀を腰へ下げる。
布袋に残るのは銅貨五枚だけになった。
「また減った」
「武器は必要です」
「牙がある」
「町へ戻った時、口の周りを血だらけにしたいなら止めません」
買った短刀を一度抜く。
握りは前のものより細い。
革紐をつける穴もなかった。
「落としたら終わり?」
「落とさないでください」
「エッダは紐をつけた」
「戻ったら穴を開けてもらいましょう」
「いくら」
「まだ買ったばかりです」
リオナの荷物は、俺より多かった。
水袋。
干し肉。
細い縄。
白い印をつける石。
包帯と小さな薬瓶。
矢筒には六本の矢が入っている。
「三本じゃない」
「買い足しました」
「金が減る」
「そのために稼ぐんです」
「減らすため?」
「生きて帰るためです」
俺は蓋つきの壺を麻袋へ入れた。
中には昨夜もらった豚の血が入っている。
水袋は持っていない。
「水は」
「いらない」
「人型でも?」
「血がある」
「喉が渇いたら、それを飲むんですか」
「そう」
「聞かなきゃよかった」
南門で仮登録証と依頼票を見せる。
門番はリオナの名前を先に書いた。
その下に、俺の名前も続く。
「代表者はリオナさんで合ってますね」
「はい」
「違う」
「書類ではそうです」
「町へ帰ってきた時も、二人で報告してください」
白髪の男と同じ条件だった。
南古道は、町を出てしばらくは畑の間を通る。
低い石壁。
刈り取られた麦の跡。
荷車を引く牛が、俺たちを避けて畑へ入りそうになった。
御者が綱を引き、睨んでくる。
「道の端を歩いてください」
リオナに言われる。
「端へ行った」
「牛から遠い方です」
畑がなくなると、道は森へ入った。
古い車輪の跡が二本続いている。
その間に、新しい靴跡もある。
「昨日、捜索が入った?」
「依頼を出した炭焼きの家族です」
「何で戻った」
「ここから先に血があったから」
リオナは道の脇にしゃがむ。
草の先が折れ、土に細い線が残っている。
「荷車が片方へ傾いてます」
「車輪が壊れた?」
「たぶん」
「たぶんが多い」
「足跡だけで全部分かる人はいません」
「エッダは分かってた」
「あの人も、口に出さないだけで間違えます」
リオナは白い石で、近くの木へ短い線を引いた。
「何してる」
「帰りの印です」
「道は一つ」
「逃げる時も同じ道とは限りません」
森へ入るほど、空気が湿っていく。
低い場所に白い霧が残っていた。
風は町の方へ流れている。
俺たちの匂いも、後ろへ運ばれる。
「今日は霧が薄いですね」
「見える」
「襲われた日は、荷車の先も見えなかったそうです」
「誰が見た」
「近くの炭焼き小屋にいた人です。叫び声と、獣の唸りも聞いてます」
「生き残り?」
「別の人です」
襲われた荷車には、炭焼きの兄弟が二人乗っていた。
町へ戻っていない。
森で死んでいるか、どこかへ逃げている。
古い石柱を越えたところで、炭の匂いが濃くなった。
荷車が横倒しになっている。
左の車輪が外れ、坂の下へ転がっていた。
積んでいた炭袋は裂かれ、道が黒く汚れている。
「止まって」
リオナが腕を横へ出した。
「心音はない」
「罠があるかもしれません」
「誰の」
「まだ分かりません」
弓を持ったまま、道の端から近づく。
俺も後ろを歩く。
荷車の下には血が残っていた。
人間の匂い。
二人分が混じっている。
死ぬほど多くはない。
「引きずられてる」
森の奥へ、細い血の線が続いていた。
その周りに、大きな獣の足跡がある。
犬に似ているが、腐肉ハイエナより細い。
「狼?」
「たぶん」
リオナが足跡の横へ指を置く。
「爪が深い。普通の狼より重いです」
「何匹」
「ここだけでは一匹」
荷車の反対側には、小さな裸足の跡がいくつもあった。
人間の子供より幅が広く、指が短い。
「ゴブリン」
リオナが矢を一本抜く。
「こいつらが襲った?」
「待って」
小さな足跡は、血の上へ重なっていた。
黒く乾いた血が、足の形に剥がれている。
「狼が先です」
「分かる?」
「ゴブリンの足跡が、乾いた血を踏んでます」
俺には、匂いが混ざっていることしか分からなかった。
リオナは荷車の荷台を見る。
炭以外に積まれていたはずの食料や道具がなくなっている。
「襲われた後に、持っていったみたいです」
「なら敵?」
「町の物を盗ってます」
「持ち主は死んでるかもしれない」
「まだ決まってません」
俺がガレオの外套を持っていった時と同じだった。
使う人間がいなくても、人間の町では持ち主が消えない。
血の線は東の森へ続く。
ゴブリンの足跡も、同じ東へ向かっていた。
「どっち」
「同じ方向です。先に、人を探します」
「ゴブリンは」
「見つけても、襲撃したと決めるまでは射ません」
東へ進む。
霧が少しずつ濃くなった。
血の匂いは薄れ、代わりに湿った獣の匂いが近づいてくる。
「いる」
「狼?」
「違う」
前方に、三つの心音があった。
大きさは人間の子供に近い。
掠れた声が、木々の奥で低く交わされている。
耳を向けると、町で聞く言葉がいくつか拾えた。
食料。
人間。
狼。
「ゴブリンがいる」
リオナが弓を上げた。
「待て」
矢をつがえたリオナの手首を押さえる。
「いるって言ったでしょう」
「話してる」
「誰が」
「ゴブリン」
木々の間から、低い声が続いていた。
狼、戻る。
人間、まだ生きてる。
食料、持って逃げる。
「何を言ってるか、少し分かる」
「ゴブリン語を?」
「町と同じ言葉も使ってる」
「全部分からないまま近づかないでください」
葉の隙間に見える緑の肌へ、竜眼を向ける。
それぞれの体に重なり、名前が三つ浮かんだ。
【ゴブリン】
【ゴブリン】
【ゴブリン】
普通のゴブリンらしい。
「三匹。名前もゴブリン」
「それは足跡で分かってます」
リオナは弓を下げなかった。
「向こうも、私たちに気づいてますか」
「まだ」
「先に戻って報告します」
「人間が生きてると言った」
「どこに?」
「聞く」
木の陰から出る。
リオナが小声で何か言ったが、止まらなかった。
三匹のゴブリンは、倒木の横にいた。
人間の子供ほどの背丈。
暗い緑の肌。
耳は横へ尖り、鼻が低い。
一匹は炭焼きの荷車からなくなった鋸を持っている。
もう一匹の背には、食料袋があった。
最後の一匹は左脚に布を巻き、地面へ座っている。
俺を見た瞬間、二匹が刃物を抜いた。
石を削っただけの短い刃。
それでも、傷つけるには足りる。
鋸を持ったゴブリンへ念話を送る。
『狼に襲われた人間はどこだ』
そいつだけが頭を押さえた。
「今、何をしたんですか」
「聞いた」
「頭の中に入るな」
鋸を持ったゴブリンが、掠れた声で言った。
掠れているが、人間の言葉だった。
こちらから送った意味は、届いている。
人間の言葉で言う。
「人間はどこだ」
ゴブリンは答えず、後ろのリオナへ刃を向けた。
聞き取れなかったのか、矢を気にしているのか。
もう一度、鋸を持つ一匹へ意味を送る。
『人間はどこだ』
「食うのか」
『町へ持ち帰る』
「同じだ」
何が同じなのかは分からない。
「一人、石の穴。もう一人、狼が持ってった」
『石の穴はどこ』
ゴブリンが東を指す。
ゴブリンは声を落とし、俺へ手を差し出した。
「教えた。食料よこせ」
「何て?」
リオナが後ろから聞く。
「人間一人が、東の石の穴にいる。もう一人は狼に持っていかれた」
「本当ですか」
「食料を寄こせと言ってる」
「盗んだ袋があるでしょう」
「あれは人間のもの」
「だから返してもらうんです」
ゴブリンは俺たちの会話へ口を挟まず、リオナの弓を見て刃物を前へ出した。
『袋と鋸を返せ』
「死んだ人間にはいらない」
『一人は生きてる』
「穴の人間、歩けない。すぐ狼が食う」
リオナが持っている干し肉を見る。
「一枚渡す」
「駄目です」
「場所を聞いた」
「もう聞いたでしょう」
「嘘かもしれない」
ゴブリンの心音は速い。
嘘をついているかは分からない。
「案内させる」
「ついてきたら、後ろから刺されます」
「刺したら殺す」
「そういう話ではなくて」
リオナは三匹を見る。
脚を傷めた一匹。
鋸。
食料袋。
少し迷った後、干し肉を一枚だけ出した。
「案内だけです」
『石の穴まで案内しろ。これを渡す』
ゴブリンが鼻を動かす。
「先に」
『着いてから』
「半分」
干し肉を半分に裂く。
一つを投げると、鋸を持ったゴブリンが拾った。
匂いを確かめ、口へ入れる。
残りの二匹が見ていた。
『残りは後だ』
三匹は小声で話し、傷ついた一匹を倒木の陰へ残した。
二匹が東へ歩き出す。
リオナはその背中へ弓を向けたまま進む。
「念話も使えるんですね」
「使ったことがある」
「誰に」
「魔物」
「どんな」
「今は人を探す」
古い水路やコボルトのことは言わない。
ゴブリンは何度もこちらを振り返った。
霧の中を進み、炭焼きの窯跡へ着く。
土と石で作られた丸い窯が、半分崩れていた。
中から弱い心音がする。
「いる」
リオナが先に入口へ近づく。
「炭焼きの人ですか!」
返事はない。
弓を持ったまま中を覗き、すぐ矢を戻した。
「生きてます」
窯の奥に男が倒れていた。
右脚の膝から下を噛まれ、血のついた布を何重にも巻いている。
顔は白く、呼吸が浅い。
「弟は」
リオナが聞く。
「上へ……引かれた」
「どのくらい前ですか」
「一昨日」
「声は」
「もう、聞こえない」
男の眼が、入口にいるゴブリンへ向いた。
「そいつらが、荷を」
「襲ったのは狼ですね」
男は一度だけ頷いた。
「先に町へ戻します」
「弟を」
「今から二人で探せません」
「まだ、生きてるかもしれない」
リオナの手が止まる。
俺なら、匂いを追える。
だが、この男を置いて進めば、戻った時には死んでいるかもしれない。
「俺が運ぶ」
「町へ戻ります」
「もう一人は」
「位置と魔物を報告して、人数を増やします」
「今なら血の匂いを追える」
「一昨日の血です。狼の縄張りへ入ったら、今いる人まで戻せません」
白髪の男に言われた条件。
Dランク以上の危険を確認したら、リオナが撤退を決める。
まだ狼の姿は見ていない。
男を背負う。
体が動いたことで、右脚の布から血が滲んだ。
温かい匂いが霧へ広がる。
ゴブリンが鼻を鳴らし、後ろへ下がった。
「狼が来る」
鋸を持った一匹が言う。
「どこ」
リオナが聞く。
「三匹。霧の中」
「三匹いる」
俺もリオナへ言う。
リオナが残りの干し肉を投げた。
「帰します」
『約束は終わりだ』
念話を送る。
ゴブリンは干し肉を拾い、傷ついた仲間の方へ走った。
「鋸は」
「持っていった」
「戻ったら報告します」
「追わない?」
「今は人が先です」
窯を出る。
来た時より霧が濃い。
白く印をつけた木を探す。
まだ一つ目も見えない。
「右」
リオナが言う。
「道は左」
「風下を避けます。血の匂いを正面へ流さないで」
右の斜面へ入る。
背負った男の心音が肩のすぐそばにある。
その外側に、別の心音が一つだけ聞こえた。
近い。
「止まれ」
霧の中から、灰色の頭が現れた。
狼。
普通の狼より脚が長く、毛が霧と同じ白灰色をしている。
眼だけが青い。
【霧喰い狼】
名前が見えた時には、もう地面を蹴っていた。
「伏せて!」
背負った男ごと体を低くする。
矢が頭上を通り、霧喰い狼の肩へ刺さった。
「霧喰い狼。単体でDランクです!」
狼は止まらない。
口を開き、男の傷ついた脚へ向かってくる。
左腕で脚を抱え、右手の短刀を抜く。
牙と刃がぶつかった。
細い短刀が軋む。
狼の前脚が胸へ乗り、背中の男がずれた。
爪が上着を裂き、塞がったばかりの胸に痛みが走る。
「落とさないで!」
「分かってる」
狼の口を刃で押し返す。
リオナの二本目が、首の横へ刺さった。
力が緩む。
短刀を抜き、同じ傷へ突き入れた。
血が手へかかる。
霧喰い狼が地面へ落ちた。
心音はまだ止まっていない。
追えば殺せる。
「行きます!」
リオナは狼ではなく、帰る方を見ていた。
「まだ生きてる」
「残りが二匹います」
霧の左右から、別の心音が近づいていた。
「殺してから」
「それを待ってたら囲まれます」
リオナが白い石で近くの木へ線を引く。
「右の坂を下ります」
「道じゃない」
「霧が薄いところまで出ます」
地面の狼が起き上がろうとしている。
血の匂いが濃い。
吸えば、力も因子も取れる。
「セインさん!」
男を背負い直す。
霧喰い狼へ背を向け、リオナの後を追った。
後ろで、傷ついた狼が短く吠えた。
返事は二つあった。




