第076話 名前を書く
ギルドを出て片靴亭へ戻ると、朝の客が食堂に残っていた。
蓋をされた椀を持ち上げる。
豆と野菜が固まり、表面に薄い膜ができていた。
「それ、昨夜のだよ」
ベッカが朝の粥を配りながら言う。
「食べる」
「分かってるから残したんだよ」
椀の中身を鍋へ戻し、少し水を足して温められる。
上着から、セルカにもらった文字表を出した。
端が少し湿っている。
机の上へ広げる。
四隅へ木の椀を置いた。
温まった煮込みを食べる。
豚の血を飲んだ後でも、塩と豆の味は分かった。
腹を満たす力は弱い。
それでも、冷えたままより温かい方がよかった。
「先払いは今朝までだよ」
ベッカが空いた椀を下げる。
「まだ泊まる」
「なら、また二泊分」
布袋から銅貨十枚を出し、銀貨一枚へ替えてもらう。
銀貨を一枚渡した。
布袋に残るのは、銅貨十二枚になった。
朝の客がいなくなった後も、文字表の前に残った。
俺の名前の最初にある形を探す。
同じ形は、表の中にいくつもあった。
指でなぞる。
次の形。
その次。
炭がないため、机の上へ指だけを動かした。
しばらくして、扉が開いた。
弦を張り直した短弓が先に入ってくる。
「まだ起きてたんですか」
リオナだった。
「今帰った」
「夜番、終わったんですね」
「五件も終わった」
「昨日だけで?」
「最初の一件は前」
「そういう問題じゃありません」
リオナは向かいの椅子を下ろした。
俺の前にある文字表を見る。
「セルカさんの?」
「もらった」
「薬の借りですか」
「傷を巻いた借り」
「また怪我したんですか」
「もう塞がってる」
布を見せる。
リオナは触らず、外から傷の位置を確かめた。
「今日くらい休んだらどうです」
「依頼がある?」
「休む話をしています」
「ないなら文字を覚える」
「それも休んでません」
リオナが息を吐く。
腰の袋から、折り畳んだ依頼票を出した。
「一つ、あります」
「ある」
「今すぐは受けられません」
「何で」
「Eランクの調査依頼だからです」
紙には、森と道らしい絵が小さく描かれている。
「今朝早く、南の古道で炭焼きの荷車が襲われました。霧が濃く、何に襲われたかは分かっていません」
「魔物?」
「それも分かりません。痕跡を調べて、危険なら戻って報告する依頼です」
「その場で倒したら?」
「相手によります」
「俺はLv三十三だ」
「強さではなく、登録はFです」
「お前は」
「昨日、Eに上がりました。でも、普通はFランクをE依頼へ連れていけません」
「なら何で持ってきた」
リオナは紙の端を指で潰した。
「回収依頼でベルクさんたちと一緒に戻ったでしょう。明日の審査で許可が出れば、一件だけ特例で組めるかもしれません」
「お前が頼んだ?」
「まだです。一人では受けられないので、一緒に組める人を探しています」
「他にもいるだろ」
「います。それでも、セインさんなら匂いや心音で足跡の見落としに気づけます」
「何で俺」
すぐには答えなかった。
短弓の弦を指で確かめる。
「便利だから」
「そうです」
「信用してる?」
「全部はしてません」
「なら同じ」
リオナが顔を上げる。
「セインさんも、私を信用してないんですか」
「全部は」
「そうですか」
少しだけ不満そうだった。
「でも、矢を当てた」
「大岩熊に?」
「腐肉ハイエナにも」
「それは覚えてるんですね」
「使えることは覚える」
「褒められた気がしません」
依頼票を取る。
文字は読めない。
森の絵と、端に押された赤い印だけが分かる。
「報酬は」
「銀貨二枚。二人で分けます」
「少ない」
「調査だけならです。討伐へ変われば別に出ます」
「受ける」
「審査の後です」
「先に決める」
ギルドへ向かう。
ネラは俺たちを見て、受付の板を上げた。
「今日は所在報告の日ではありません」
「これを受ける」
リオナが依頼票を出す。
ネラは依頼票より先に、俺を見る。
「Eランク依頼です」
「リオナと組む」
「正式な臨時パーティとして申請し、審査で許可が出た場合に限ります」
「申請する」
ネラが別の紙を出した。
空欄を一つずつ説明する。
依頼中の分配。
怪我をした時の治療費。
途中で得た素材の所有。
死亡した時に荷物を誰へ渡すか。
「死んだ後はいらない」
「遺体と所持品の扱いは残った人に関係します」
「リオナが持っていけばいい」
「勝手に決めないでください」
「いらない?」
「そういう話ではなくて」
ネラが空欄へ何かを書く。
「相互返還で登録します」
「何を返す」
「貸し借りした物は持ち主へ。亡くなった方の荷物は、ギルドへ届けます」
最後に、リオナが自分の名前を書く。
俺の前にも炭筆が置かれた。
「署名してください」
「書けない」
「登録時に聞きました」
「名前は覚えた」
片靴亭の壺についた札を思い出す。
最初の形を書く。
次は少し曲がった。
最後まで書いても、リオナの文字より大きい。
「読める?」
ネラが紙を見る。
「セイン、ですね」
「合ってる」
「自分の名前です」
炭筆を置く。
黒瀬湊ではない名前が、初めて俺の手で紙に残った。
リオナはその横へ、自分の名前をもう一度小さく書き足していた。
「何してる」
「見本です」
「お前の名前は書かない」
「私の名前も覚えてください」
その日の午後、治療院へ行った。
審査は明日だ。
Fランクの条件は終わり、Eランクの依頼は受けられない。
セルカに巻かれた左腕の布を見る。
内容の決まっていない借りを残すより、先に返した方がいい。
裏口を開けると、洗った布が籠へ積まれていた。
セルカはその横で、薬瓶を一つずつ日に透かしている。
「何か手伝う」
「急にどうしたの」
「布の分」
「まだ覚えてたんだ」
「決まってない借りは嫌」
「なら、ちょうどよかった」
セルカが洗濯籠を指す。
「干して」
「それだけ?」
「全部」
籠は三つあった。
血の染みが残る布。
薬草の色がついた布。
白いままの布。
外の縄へ順番にかける。
「血のついたものは端」
セルカが裏口から言った。
「何で」
「風で重ならないように」
「白いのが赤くなる?」
「洗い直しになる」
端へ移す。
血は何度洗っても、わずかに匂いが残っていた。
人間のもの。
獣人のもの。
魔物に噛まれた傷から、毒の匂いが混じっているものもある。
口へ入れたいとは思わなかった。
古く、水と薬へ薄まっている。
「終わった」
「まだ一籠」
「空」
「瓶が入ってるでしょう」
布の下に、小さな瓶が何本も隠れていた。
「何で一緒に入れる」
「置く場所がなかったから」
「片づけが苦手?」
セルカの手が止まる。
「誰に聞いたの」
「見れば分かる」
「ダリオさん?」
「誰にも聞いてない」
机の上には薬草、紐、紙、空瓶が重なっている。
一か所だけ空いているのは、セルカが肘を置く場所だった。
「洗って、同じ札の箱へ戻して」
「文字は読めない」
「昨日、文字表を渡したでしょう」
「全部は覚えてない」
「だから練習になるの」
三つの木箱が並べられる。
箱の札には、それぞれ違う文字が一つ大きく書かれていた。
「傷、熱、毒」
セルカが順番に指す。
「瓶の札と同じものへ入れて」
「匂いで分ける」
「空瓶は、もう匂いが混ざってる」
一本嗅ぐ。
苦い薬草と酒。
その奥に、甘い樹皮の匂いもある。
どの薬だったのかは分からない。
札を見る。
箱の形と比べる。
一つ目は傷。
二つ目も傷。
三つ目は、途中の線が少し違う。
「毒」
「合ってる」
「簡単」
「じゃあ、全部お願い」
籠の底には、まだ三十本以上あった。
簡単ではなかった。
同じ文字でも、書いた人によって線が曲がっている。
札が濡れ、端しか残っていない瓶もある。
匂いと文字の両方を見て、一つずつ箱へ入れる。
途中で、傷の札がついた瓶から強い苦みを感じた。
「これ」
セルカへ渡す。
「文字は傷」
「匂いが毒と同じ」
蓋を開けたセルカの顔が変わった。
指先へ一滴だけつけ、すぐ水で洗う。
「毒消しじゃなくて、虫殺しの薬」
「毒の箱?」
「どこにも入れない」
「札が違う」
「洗う前から間違ってたみたい」
セルカは瓶を別の棚へ置いた。
「見つけなかったら」
「傷口へ使った人が、もっと悪くなってた」
「文字だけでも駄目?」
「間違えて書く人がいるからね」
「なら匂いもいる」
「普通の人には無理」
セルカは机の上を見た。
空いている場所が少ない。
「片づけた方がいい?」
「それは借りの範囲を超えるから、今日はいい」
瓶を全部分け終える頃、裏口の近くからダリオの声がした。
椅子へ座り、包帯を巻いた左脚を別の椅子へ載せている。
「歩いていいの?」
「歩いてない。運ばれた」
「セルカ」
「寝台で動こうとするから、椅子ごと運びました」
「止まらなかった?」
「止まらなかった」
ダリオは椅子の背へ体を預ける。
「リオナと組むらしいな」
「一件だけ」
「あいつが頼んだのか」
「そう」
「珍しい」
「何で」
「自分から組もうとは、あまり言わない」
「前は四人いた」
「誘ったのは俺だ」
ダリオが干された布を見る。
「俺が動けない間に、ユアンは隊商の護衛補助へ入る。セルカはここだ」
「リオナだけ仕事がない?」
「誘いはある」
「なら困らない」
「知らない連中の前では、怖くても黙る」
森では、よく喋っていた。
俺の前で怖くないわけではない。
「俺には言う」
「お前には言っても嫌われないと思ってるんだろ」
「嫌うかもしれない」
「そういう意味じゃない」
ダリオは包帯の巻かれた脚を見る。
「守ってやれとは言わん」
「守れる」
「言えば、あいつは自分で行けると思って無茶をする」
「なら何をする」
「帰る時は、二人で帰ってこい」
「死んだら」
「その時は、その時だ」
「それでいいのか」
「一度死にかけると、言えることが減る」
ダリオはセルカを呼び、椅子ごと治療院の中へ戻されていった。
セルカが空瓶の籠を持ち上げる。
「これで借りは終わり」
「布一枚より多い」
「虫殺しの薬を見つけた分を引いた」
「なら同じ?」
「同じにしておいて」
借りは消えた。
代わりに、傷、熱、毒の三文字が残った。
治療院を出る時、入口でエッダとすれ違った。
昨日までと同じ軽い革鎧を着ている。
「明日、ギルドに来て」
「審査?」
「それと、採石場の話」
エッダは止まらず、ダリオのいる奥へ歩いていった。




