第075話 盗まれた血
五件目の依頼は、夜まで待たなければ始まらなかった。
「今日受けるのは、これで四件目です」
ネラは依頼票を渡さず、俺の腕を見る。
「動く」
「動けるかどうかではありません」
「なら受ける」
「一日に何件受けても、信用が一日で五倍になるわけではありません」
「条件は五件」
「三十日以内に五件です」
「早く終わらせたら駄目とは言われてない」
ネラはしばらく黙った。
それから、掲示板の端にある紙を取る。
「夜番です」
「どこ」
「市場の食肉解体店」
豚の血をもらった店だった。
「ここ二日、裏へ置いた血と内臓が減っています。大きな足跡は残っていません」
「人?」
「それも分からないから、見張る依頼です」
「見つけたら殺していい?」
「その確認を毎回しないでください」
「敵かもしれない」
「町の中では、捕まえるか、逃げた方向を覚えて報告してください。襲ってきた時だけ、自分の命を守る範囲で反撃して構いません」
「どこまで?」
「相手が抵抗しなくなったら、そこで手を止めてください」
今までより分かりやすかった。
夜になる前に片靴亭へ戻る。
ベッカへ依頼のことを話すと、夕飯の椀へ蓋を載せた。
「帰ったら温め直しな」
「起きてる?」
「あんたのために夜更かしはしないよ」
「どうやって温める」
「厨房に火種を残す」
「燃えたら」
「燃やしたら宿ごと弁償してもらう」
「金貨で足りる?」
「足りないから燃やすんじゃないよ」
日が落ちてから市場へ行く。
朝に空になった壺も持ってきた。
昼の店は閉まり、吊るされていた肉も片づけられていた。
店主が裏口で待っている。
「本当にお前が来たのか」
「依頼を出した?」
「出したが、血を飲むやつが血泥棒を捕まえるとは思わんだろ」
「俺は買った」
「銅貨一枚で壺まで持っていったな」
「決めたのはそっち」
「次は壺代を取る」
店主が裏の小屋を開ける。
中には血の入った桶と、布をかけた内臓の籠があった。
壁の高いところに細い窓がある。
下には排水用の穴。
人間の子供なら、どちらも通れるかもしれない。
「これを見てればいい?」
「触ったやつを捕まえろ」
「殺さない」
「当たり前だ」
「ネラにも言われた」
「言われなきゃ分からんのか」
店主は少し考え、桶を一つ追加した。
「そっちは余りだ。終わったら持っていけ」
「報酬と別?」
「別だ」
「なら見る」
「血がなきゃ帰ってたのか?」
「依頼は受けたからやる」
店主が出ていく。
小屋の明かりを消した。
暗い方がよく見える。
町の夜には、人の心音が多かった。
壁の向こう。
二階。
路地を通る酔った男。
どれも小屋へ近づかない。
桶の血は冷え始めている。
匂いだけで喉が乾いた。
依頼が終わるまで飲まない。
俺のものと決まった桶と、まだ店主のものを分けておく。
夜が深くなった頃、排水穴の奥から小さな心音が聞こえた。
鼠より遅い。
人間より速い。
息を殺している。
俺は動かなかった。
細い指が穴から出る。
泥だらけの手が床を探り、内臓の籠へ伸びた。
手首を掴む。
「捕まえた」
穴の向こうで、息を呑む音がした。
「離せ!」
声は子供だった。
引けば腕が抜けるかもしれない。
握る力を弱め、代わりに排水穴の外へ回る。
裏路地で、小さな影が走り出した。
追いつくのは簡単だった。
背中の服を掴む。
布が破れ、子供が地面へ転がった。
起き上がる前に道を塞ぐ。
「逃げるな」
「何も取ってない!」
「取ろうとした」
「捨てるやつだろ!」
少年は俺より頭一つ以上低い。
髪は伸びたままで、片方の靴がない。
立ち上がる時、地面の石で手のひらを切った。
血の匂いがする。
桶の豚より薄い。
それでも、人間の血だった。
心音が近い。
少年が切れた手を背中へ隠す。
「食うなよ」
「何を」
「俺を」
俺の眼と牙を見ている。
「食わない」
「血を飲むって聞いた」
「誰に」
「市場のやつら」
もう噂になっていた。
「店の血を盗んだ?」
「捨ててたんだ」
「今は俺が持っていく」
「あんたが来るようになったからだろ」
少年の声が大きくなる。
「前は、夜になれば腸も骨も外に出してた」
「二日前から?」
「……知らない」
俺が血を買った日と近い。
捨てられていたものに持ち主ができ、少年は盗人になった。
「名前は」
「言わない」
「店主に聞かれる」
「連れてくのかよ」
「依頼だから」
少年が足元の泥を掴んだ。
投げる前に手首を押さえる。
「動くな」
「殺さないんじゃなかったのか」
「抵抗しなければ離す」
「逃げたら?」
「また捕まえる」
少年を小屋へ連れて戻る。
朝まで縄で縛る必要はなかった。
入口に俺が座ると、排水穴へ近づかなくなった。
「腹が減ってる?」
「違う」
「心音が弱い」
「それで分かるのかよ」
自分の桶から、固まりかけた血を少し飲む。
少年はさらに壁へ寄った。
「食べ物はない」
「内臓がある」
「店主のもの」
「血は飲むくせに」
「これは俺のもの」
夜が明けるまで、少年の腹は何度も鳴った。
店主が戻ると、最初に俺の桶を見た。
「減ってるな」
「俺の分」
「分かってる」
次に、壁際の少年を見る。
「ミロ」
店主は名前を知っていた。
「前にも言っただろ。勝手に持っていくな」
「捨てるならいいだろ」
「捨てる前に分けろって言ってる」
「分けても、掃除したら残らない」
「働きが足りないからだ」
店主は少年の頭を小突いた。
ミロが顔をしかめる。
「こいつが掃除すれば、捨てる分を渡す?」
「今もその約束だ」
「逃げた」
「二日来なくなって、盗みにだけ戻った」
ミロが顔を背ける。
「何で」
「血を洗うのが嫌だった」
「食うために来たのに?」
「見るのと触るのは違う」
「同じ」
「あんたにはな」
店主が溜息をつく。
「今日からまた来るなら、衛兵には出さん」
「来なかったら」
「次は出す」
ミロは答えなかった。
俺には関係のない約束だった。
依頼票を店主へ出す。
「終わった?」
「終わったよ」
五つ目の印が押された。
余った血を空の壺へ移してもらう。
ギルドへ戻ると、ネラは印を順番に確かめた。
「五件すべて、達成を確認しました」
昨日受けた四件分の報酬として、銅貨十五枚が置かれる。
数えてから布袋へ入れた。
「正式になる?」
「まだです」
「条件は終わった」
「依頼条件は、です」
ネラは五枚の報告書を重ねる。
さらにその下には、エッダが書いた採石場の報告もあった。
「仮登録者は、五日ごとの所在確認と支部内の審査があります」
「いつ」
「最初の確認は明日です。問題がなければ、その後に仮登録の制限を一部外します」
「問題があれば?」
ネラの指が、採石場の報告書を押さえた。
「話を聞くことになります」
五件終わっても、紙は一枚も減らなかった。




