第074話 できること、任せること
二件目の印を見せると、ネラは次の依頼票をすぐには出さなかった。
「服を乾かしてからにしてください」
「動けば乾く」
「ギルドの床が濡れます」
入口へ戻される。
日向に立っていると、リオナも隣へ来た。
「だから帰ろうって言ったんです」
「お前も受ける?」
「内容によります」
「あと三つ」
「数だけで仕事を選ばないでください」
上着から水が落ちなくなるまで待ち、もう一度受付へ行く。
ネラは小さな依頼票を三枚並べた。
「荷運び、壁の苔落とし、逃げた山羊の捜索です」
「山羊」
「今朝、南区の囲いから逃げました」
「殺していい?」
「駄目です」
「捕まえる?」
「生きたまま、怪我をさせずに返してください」
リオナが俺より先に依頼票を取った。
「これにします」
「何で」
「壁の苔を二人で見つめる話をしたくないので」
「話さず落とせばいい」
「山羊を探します」
依頼人は、南区の外れで乳を売る家だった。
低い石壁の内側に、山羊が五頭いる。
一頭分だけ、首をつなぐ縄が切れていた。
「白耳がいないの」
家から出てきた少女が言った。
十歳くらいに見える。
片手に、乾いた豆の鞘を握っていた。
「白耳?」
「耳が白いから」
「他の山羊の耳は?」
「黒い」
「分かりやすい」
少女は俺の眼を見た後、リオナの後ろへ半歩隠れた。
「噛まない?」
「俺は噛まない」
「山羊のことです」
リオナが言う。
「白耳は、嫌な時は頭でぶつかります」
「強い?」
「セインさんよりは弱いです」
「なら捕まえられる」
「怪我をさせずに、です」
切れた縄の匂いを嗅ぐ。
山羊の獣臭に、乾いた草と乳の匂いが混じっている。
囲いの外には人と荷車の匂いが多い。
それでも、山羊の匂いは道の端へ続いていた。
「こっち」
歩き出すと、少女もついてくる。
「家で待っていてください」
リオナが言う。
「白耳、知らない人には来ないよ」
「私たちが連れて帰ります」
「名前を呼ばないと逃げる」
俺は立ち止まった。
「呼べば来る?」
「私なら」
「連れていく」
「勝手に決めないでください」
「必要」
少女はもう歩き始めていた。
仕方なく、リオナも隣へ並ぶ。
「お名前は?」
「ノア」
「ノアは、白耳が行きそうな場所を知ってますか」
「草があるところ」
「町中にありますね」
匂いは細い路地へ入っていた。
洗濯物の下を通り、古い城壁の方へ続いている。
途中で、地面に落ちた豆の鞘を見つけた。
ノアが持っているものと同じ匂いだった。
「これを食べる?」
「好き」
「落としたのは」
「私じゃない」
鞘には山羊の歯形がついている。
白耳は、食べながら進んでいる。
城壁沿いの空き地で、白い耳が見えた。
体は灰色で、他の山羊より少し大きい。
低い木へ前脚をかけ、葉を食べていた。
「白耳」
ノアが呼ぶ。
山羊が顔を上げる。
少女を見て、一歩近づいた。
その鼻が、俺の方へ動く。
眼が大きく開いた。
白耳は反対へ走った。
「逃げた」
「セインさん、下がって!」
俺が追うと、さらに速くなる。
人間の姿でも、獣には中身が分かるらしい。
白耳は空き地の端へ向かい、積まれた木箱の間を抜ける。
その先には、荷車の通る道がある。
「前へ回る」
「走ったらもっと逃げます!」
走らずに間に合う距離ではない。
壁を蹴り、木箱の上へ乗る。
白耳の前へ降りると、山羊が急に止まった。
後脚が滑る。
俺は両手を出したが、掴まなかった。
強く持てば骨を折るかもしれない。
白耳は道へ出ず、脇の細い隙間へ入った。
俺が近づけば、また逃げる。
「ここにいる」
声だけを返し、壁際へ下がる。
少し遅れて、リオナとノアが来た。
「追い込んだんですか」
「道へ出る前に止めた」
「怪我は」
「してない」
隙間の奥で、山羊の心音が速く鳴っている。
俺が見える間は出てこない。
さらに離れ、建物の角へ隠れる。
「白耳」
ノアの声がする。
豆の鞘を振る乾いた音も聞こえた。
しばらくして、山羊の蹄が動く。
一歩ずつ少女へ近づいていく。
リオナが横から縄をかけた。
「捕まえました」
角から出る。
白耳がまた逃げようとしたが、ノアが首へ抱きついて止めた。
「来ないで」
少女に言われた。
依頼を受けたのは俺だ。
見つけたのも、道へ出るのを止めたのも俺だった。
それでも、近づけば連れて帰れない。
「俺は後ろを歩く」
「見えないくらい後ろでお願いします」
リオナまで同じことを言う。
囲いへ戻るまで、白耳は何度も後ろを見た。
ノアの家で依頼票へ印をもらう。
「ありがとう」
ノアはリオナを見て言った。
「見つけたのは、ほとんどセインさんです」
少女が俺を見る。
白耳も見る。
「怖かったけど、ありがとう」
「山羊が?」
「どっちも」
白耳が急に頭を下げた。
角が腹へ向かってくる。
手のひらで受け止める。
「ぶつかった」
「嫌な時はやるって言ったでしょう」
山羊は捕まっても、俺を怖がったままだった。
三件目の印をもらったところで、リオナは依頼票を俺へ返した。
「私は矢を受け取りに行きます」
「あと二つ」
「私の条件じゃありません」
「読めない」
「受付で聞けばいいでしょう」
「依頼人とも話すと言った」
「昨日までは、私を紙みたいに使ってたのに」
リオナは笑いかけ、途中で口を閉じた。
「昼過ぎには戻ります」
「待たない」
「一人で壊さないでくださいね」
「今日は何も壊してない」
「山羊にぶつかられたでしょう」
「あれは向こうから来た」
リオナはそのまま市場の方へ行った。
受付へ戻る。
ネラは依頼票の三つ目の印を確かめ、別の紙を一枚出した。
「治療院への薪運びなら、一人でも受けられます」
「重い?」
「乾燥薪を二束です」
「少ない」
「重さではなく、濡らさず運ぶ依頼です」
窓の外を見る。
朝は晴れていたが、西の空に雲が集まっている。
「雨が降る前に?」
「そうです」
「持って走る」
「町中では走らないでください」
東門近くの薪置き場へ行く。
依頼票を見せると、片眼の男が屋根の下を指した。
人の胴ほどある束が二つ並んでいる。
「一束ずつ行け」
「両方持てる」
「縄が切れたら弁償だぞ」
束を持ち上げる。
片方を右肩へ載せ、もう片方を左腕で抱えようとした。
噛まれた傷が痛む。
力は入るが、途中で落とすかもしれない。
「一つずつにする」
「最初からそう言ってる」
一束目を持って町へ戻る。
乾いた薪でも、近くで嗅ぐと木の匂いが違った。
樹脂の強いもの。
軽いもの。
中まで湿っているものも、少し混じっている。
治療院の裏口で束を下ろす。
セルカが薪棚の前にいた。
「セイン?」
「薪」
「それは見れば分かる」
セルカは束より先に、俺の左腕を見た。
「その布、昨日巻いたものじゃないでしょうね」
「昨日、エッダに替えられた。今日はまだ」
「薪より先に中へ来て」
「もう一つある」
「雨が降るまで、まだ少しあります」
「濡らすなと言われた」
「その傷を腐らせるなとも言われたでしょう」
エッダと同じ言い方をする。
治療院の裏へ入る。
薬草を煮る匂いと、古い血の匂いが混じっていた。
寝台の間を通ると、奥からダリオがこちらを見た。
上体は起こしているが、腹と左脚を布で固定されている。
「もう働いてるのか」
「金がいる」
「熊の分は受け取っただろ」
「もっとあっても困らない」
「そうだな」
ダリオの声は、前より小さかった。
寝台の横には紙が何枚も置かれている。
「治療費?」
「借用書だ」
「熊を売った金でも足りない?」
「全然だ」
大岩熊の取り分は、ダリオにも銀貨一枚と銅貨六枚。
最初の処置だけで金貨一枚と銀貨六枚かかっている。
「いつ返す」
「治ってからだ」
「治らなかったら」
「働けるところまで治す」
「答えになってない」
「お前、ネラに似てきたな」
セルカが汚れた布を外す。
傷の周りは赤いが、膿は出ていない。
「血を吸ったから治りが早いの?」
「たぶん」
「便利ね」
「痛いのは残る」
「便利だけど、無傷になるわけじゃないのね」
新しい布を巻かれる。
薬の匂いが強い。
「これ、いくら」
「薪を運んでくれた分から取らない」
「依頼と別」
「じゃあ、今度何か手伝って」
「何を」
「まだ決めてない」
値段の決まっていない借りは、少し嫌だった。
「決まってから巻いて」
「もう巻いた」
セルカは残った布を箱へ戻す。
箱の横には、同じ形の瓶がいくつも並んでいる。
中身の色も似ていた。
「全部、薬?」
「そう」
「どうやって分ける」
「札を読むの」
一本を取って見せる。
「これは傷を洗うもの」
隣の瓶も持ち上げる。
「こっちは飲む薬」
「匂いが違う」
「鼻が利かない人は?」
「舐める」
「間違えたら倒れる薬もあるから、絶対にしないで」
セルカが二本を離して置く。
札には別の文字が書かれている。
「こっちが傷」
「そう」
「こっちが飲む」
「今は、瓶の場所で覚えたでしょう」
ベッカと同じことを言われた。
「文字で覚える」
「読めないの?」
「俺の名前だけ」
「それも怪しいな」
ダリオが寝台から言う。
「見てないだろ」
「見なくても分かる」
「見てないなら分からないだろ」
セルカが小さく笑った。
「薪を運び終えたら、簡単な文字表をあげる」
「いくら」
「古いものでいいなら、ただ」
「何で」
「薬を間違えて飲まれたくないから」
外で最初の雨粒が屋根へ当たった。
「薪」
裏口へ走る。
「町では走るなって言われてるんじゃないの?」
ダリオの声が追ってきた。
「雨が先に来る」
二束目を取りに戻った時には、道の石が濡れ始めていた。
薪置き場の男が屋根の下からこちらを見る。
「遅い」
「傷の布を替えられた」
「仕事中に?」
「治療院だから」
「便利な届け先だな」
今度は右肩だけで運ぶ。
雨は強くなったが、薪へ自分の上着をかぶせた。
治療院へ着いた時には、俺の髪から水が落ちていた。
薪の表面は少し濡れている。
中は乾いたままだった。
セルカが依頼票へ四つ目の印を押す。
その横へ、折り畳んだ古い紙を置いた。
「文字表」
開くと、見たことのない文字が何列も並んでいた。
「多い」
「全部を今日覚えなくていいの」
「名前はどれ」
セルカが端の一つを指す。
「まず、これがセインの最初の文字」
一つだけなら、掲示板でも見た。
紙を濡らさないよう上着の内側へ入れる。
「上着が濡れてるから、そこも濡れるよ」
紙を慌てて取り出した。




