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最弱コウモリ幼体に転生したので、血を吸って進化する  作者: HATENA 
第5章 名前のない冒険者

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第073話 壺の札

 片靴亭へ戻ると、ベッカは俺より先に壺を見た。


「それ、昨日の豚じゃないね」

「腐肉ハイエナ」

「中身を聞いたんじゃないよ」


 蓋の隙間から、まだ血の匂いが漏れている。


 ベッカは食堂へ入ろうとした俺の胸を、濡れた布巾で押し返した。


「裏」

「金は払える」

「泥を落とすのに金貨を出されても、床はきれいにならない」


 靴はないが、足布とズボンの裾に土がついていた。


 胸には群れ長の爪で裂かれた線があり、左腕の布にも血が滲んでいる。


「先に洗いな」


 裏の水場へ回る。


 冷たい水を左腕へかけると、噛まれた傷が痛んだ。


 エッダに洗われた時より血は少ない。


 それでも、群れ長を殴ったせいで傷の縁がまた開いていた。


 ベッカが後ろから桶を置く。


「その壺も寝台へ持っていく気かい」

「俺のもの」

「あんたが寝てる間に割れたら、部屋中あんたのものになるね」

「割らない」

「大部屋には、酔って転ぶ馬鹿がいる」


 昨日も、隣の寝台から床へ落ちた人間がいた。


 俺が起きている間なら避けられる。


 眠っている時までは分からない。


「どこに置く」

「厨房の下に貯蔵穴がある」

「冷たい?」

「部屋よりはね」

「いくら」


 ベッカは少し考えた。


「宿代を払うなら、壺一つくらい置いてやる」

「今日から自分で払う」

「なら二泊分を先に」

「一泊ずつじゃないの」

「明日逃げる顔には見えないからね」


 銀貨を一枚出すと、ベッカの眉が上がった。


「急に金持ちになったじゃないか」

「熊を売った」

「一頭?」

「残ってたところだけ」

「残りを背負って帰ってこなくてよかったよ」

「銀貨一枚で足りる?」

「銅貨十枚。二泊ならちょうどだよ」


 銀貨を渡す。


 布袋には、銅貨七枚が残った。


「銀貨一枚が、銅貨十枚?」

「そうだよ。疑うなら、次から全部銅貨で払いな」

「違ってたら」

「私を疑えばいい」

「分かった」

「そこで素直になるのもどうなんだい」


 ベッカが壺を持ち上げる。


 俺は反射的に手を伸ばした。


「取らないよ」

「俺が殺した群れ長の血」

「なら、落とさないよう自分で運びな」


 厨房の奥に、床板を持ち上げる取っ手があった。


 下から冷たい空気が上がってくる。


 石を積んだ浅い穴に、野菜の籠と酒の瓶が並んでいた。


 空いている端へ壺を置く。


「札をつけるよ」


 ベッカが細い木片を持ってきた。


 黒い炭で何かを書き、壺の紐へ挟む。


「何て書いた」

「セイン」


 木片を見る。


 短い線と曲がった線が並んでいる。


 教室で何度も書いた黒瀬湊とは、どこも似ていなかった。


「これが俺?」

「名前だよ」

「読めない」

「知ってる」


 ベッカは炭を俺へ渡した。


「同じのを書いてみな」


 床板の裏へ木片を置く。


 最初の線を真似る。


 炭が太く、見本より大きくなった。


 二つ目は曲がる場所がずれた。


 最後まで書くと、木片の半分が黒くなっている。


「違う」

「読めなくはない」

「同じじゃない」

「最初から同じに書けたら、教会の先生はいらないよ」


 もう一度書こうとすると、ベッカが木片を取った。


「先に血を飲みな」

「腐る?」

「もう固まり始めてる」


 蓋を開ける。


 群れ長の血は、壺の内側へ濃い塊を作っていた。


 傾けても、昨日の豚の血より流れにくい。


 指で崩して口へ入れる。


 冷えていても、魔物の血は家畜より濃かった。


 喉を通るたび、左腕と胸の傷が熱を持つ。


 痛みは弱くなったが、噛み跡は残っている。


「全部飲むのかい」

「残す」

「明日までならともかく、何日も置けば腹を壊すよ」

「壊れないかもしれない」

「試したいなら、自分の布団の上でやりな」

「駄目だと言った」

「だから腐る前に飲みなって話だよ」


 持ち帰れば、後で使えると思っていた。


 洞窟では、死骸を巣へ運んでいた。


 血だけにしても、ずっと同じではない。


「長く残す方法は」

「塩を入れて料理にするか、薬師に保存剤を売ってもらうか」

「どっちが安い」

「飲むだけなら、新しい血をまた買う方が安い」


 群れ長はもういない。


 同じ血を買うこともできない。


 壺の底に、濃い赤が残っている。


 全部飲めば傷はもう少し治る。


 残せば、次に腹が減った時に使える。


 半分だけ飲み、蓋を閉めた。


 ベッカが俺の書いた札を壺の紐へ差し込む。


「明日の朝、読めるか確かめな」

「場所を覚えてる」

「隣の壺を飲まないためだよ」


 隣には、茶色い液体の入った瓶がある。


「あれは?」

「酢」

「血じゃない?」

「朝までに、せめて自分の名前くらい覚えな」


 床板が閉じられる。


 朝、貯蔵穴の壺には俺の札が残っていた。


 ベッカが床板の横へ立つ。


「読めるかい」

「セイン」

「壺を見て答えたね」

「俺の血が入ってる」

「名前じゃなく、匂いで選んだだろ」


 札だけを外される。


 木片を裏返されると、どちらが上だったか分からなくなった。


「セイン」

「本当に?」

「たぶん」

「読めてないね」


 札を取り返す。


 群れ長の血は一晩で固まり、黒い塊になっていた。


 指で崩して、残りを食べる。


 少し苦くなっている。


 腐った肉を食う魔物の血だからか、腹は痛まなかった。


 左腕の噛み跡は塞がり始めているが、強く握るとまだ痛む。


「今日も仕事?」

「あと四つ」

「帰ってくるなら夕飯前にしな」

「遅れたら」

「冷えた豆を食べることになる」


 それは、少し嫌だった。


 ギルドの掲示板前には、朝から人が集まっていた。


 大きな紙の前は装備を持った冒険者に塞がれ、端の小さな紙だけが空いている。


 文字の並びは、どれも同じに見えた。


 俺の札で見た形を探す。


 一つだけ似た線があった。


「これ、セイン?」


 隣にいたリオナが紙を見る。


「違います」

「同じ形がある」

「一文字だけです」

「一つ合ってる」

「名前は一文字だけじゃ読めません」

「なら、残りも覚える」

「昨日まで読ませる気だったのに」


 リオナは掲示板の紙を一枚指した。


「北門近くの共同井戸で、泥上げの手伝いです」

「泥を取るだけ?」

「たぶん」

「たぶん?」

「雨の後は、排水溝まで詰まってることがあります」


 受付へ行き、リオナが依頼名を伝える。


 ネラは手元から、その依頼票を出した。


 ネラは俺の左腕を一度見た。


「回収依頼の翌日に受けるんですか」

「動く」

「傷が開いた場合、依頼人に治療費は請求できません」

「分かってる」

「昨日までは分かっていませんでした」

「昨日聞いた」


 ネラが依頼票へ印を押す。


 二件目のFランク依頼になった。


 共同井戸は、北門から入る荷車の道沿いにあった。


 石で囲まれた井戸の横に、水を受ける長い槽がある。


 溢れた水は細い溝を通り、町の外へ流れるはずだった。


 今は泥と枯れ葉で塞がり、井戸の周りまで濁った水が広がっている。


「遅いよ」


 井戸番の老婆が、木の柄のついた桶を渡してきた。


「一昨日から水が引かないんだ」

「昨日頼んだんですか?」


 リオナが聞く。


「一昨日だよ」

「それならギルドで止まってたんだと思います」

「泥が待ってくれるならいいけどね」


 老婆は俺の眼を見て、桶から手を離す。


「そっちの兄ちゃん、井戸へ落ちないでおくれよ」

「落ちない」

「落ちたやつはみんなそう言う」


 泥上げは戦いより簡単だった。


 溝へ溜まった泥を桶ですくい、荷車用の籠へ移す。


 ただ、傷ついた左腕で持ち上げるたびに痛みが残る。


 右手だけで運ぶと、リオナより早かった。


「手伝う意味あります?」

「紙を読んだ」

「もう終わってます」

「依頼人と話してる」

「それも仕事なんです」

「なら意味はある」


 泥を取っても、水は流れなかった。


 溝の奥に、まだ詰まっているものがある。


 濁った水へ手を入れる。


「待ってください」


 リオナが腕を掴んだ。


「傷があるでしょう」

「右手」

「そういう問題じゃなくて、何がいるか分からないのに」


 水の中から、腐り始めた匂いがする。


 泥より少し甘い。


「死んでる」

「何が」

「分からない」


 指先に毛が触れた。


 尾を掴み、引き寄せる。


 水面へ浮いてきたのは、水を吸って膨らんだ大鼠だった。


 リオナが顔を背ける。


「それ、この前の倉庫から逃げたやつじゃないですよね」

「分からない」

「分からないで済ませないでください」

「死んでる」

「死んでいるのは分かります」


 大鼠の腹が、石の隙間へ引っかかっていた。


 無理に引けば千切れる。


 石を一つ外そうとして、止める。


 倉庫では、勝手に壊して弁償になった。


「これ、外していい?」


 井戸番へ聞く。


 老婆は大鼠を見て、眉間へ深い皺を寄せた。


「戻せるならね」

「戻せる?」


 リオナを見る。


「その大きさなら」


 石を持ち上げる。


 大鼠を抜き、泥の横へ置いた。


 溜まっていた水が一気に流れる。


 底から腐った葉と小さな骨が出てきた。


 石を元の隙間へ戻す。


 水は止まらない。


「これで終わり?」

「井戸の水も汲み直す」


 老婆が言った。


「死骸が浸かってた水を、そのまま飲ませる気かい」

「井戸の中ではない」

「槽へ戻る水が跳ねてるよ」


 目では分からなかった。


 井戸の水と、泥の水は近すぎる。


 汲み上げた最初の桶を捨て、槽を何度も洗う。


 終わる頃には、上着の裾まで濡れていた。


 老婆は依頼票へ丸い印を押した。


「次の雨までには、溝の蓋も直してもらわないとね」

「俺たちの仕事?」

「別の依頼だよ」

「受ける」

「まだ出してないよ」


 リオナが濡れた髪を絞る。


「今日はもう帰りませんか」

「あと三つ」

「一日で全部やる条件じゃないです」

「夕飯まで時間がある」

「私は着替えたいです」


 夕飯まで、まだ時間はあった。

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