第060話 戻る道にいた灰色の男【別視点・リオナ】
リオナ・フェルムは、同じ白い石を三度見た。
一度目は往路。
二度目は、月白草を採った帰り。
三度目は、道を確かめるために少し戻った今だった。
石の上には、前に来た時にはなかった泥がついている。
指で触れる。
まだ乾いていない。
「止まってください」
前を歩いていたダリオが、すぐに足を止めた。
大きな盾を地面へ下ろし、周囲を見る。
「何があった」
「ここ、さっき通りましたよね」
「通ったな」
後ろから来たユアンが白い石を覗き込む。
「迷ったってことか?」
「違います。迷ってません」
「じゃあ、何で戻った」
「確かめたかったからです」
「それを迷ったって言うんじゃないのか」
「道は合ってます」
「二人とも、声を落として」
セルカが背負い袋を下ろした。
必要な薬草を探そうとして、中から布、空の瓶、干し肉の包みを順番に出していく。
「消臭草、どこへ入れたっけ」
「左の小袋だろ」
ダリオが言う。
「どうして知ってるの」
「昨日、セルカが自分で入れてた」
「見てたなら、止めてくれればいいのに」
「何をだ」
「左は毒消しを入れる場所」
セルカは別の袋を開け始めた。
リオナは白い石から立ち上がる。
「泥が新しいんです。私たちが行った後に、何かがここを通ってます」
道の両側には、膝より高い草が生えている。
折れた跡はない。
大きなものが通れば、もっと乱れるはずだった。
小型の魔物なら気にする必要はない。
そう言いかけ、木の幹に目が止まった。
自分の頭より高いところで、樹皮が剥がれている。
縦に四本。
爪痕ではない。
硬い何かを擦りつけた跡だ。
「ダリオさん」
呼ぶ声が、少し上ずった。
ダリオは傷を見て、盾を持ち直す。
「帰るぞ」
「月白草は採れたんですよ」
ユアンが言う。
「だから帰る」
「この辺りは前にも来た」
「前にいなかったものがいる」
ダリオの返事は短かった。
誰が見落としたかは聞かなかった。
リオナも、言い訳をしなくて済んだ。
四人は来た道を戻る。
今度はダリオが先頭で、リオナは最後についた。
短弓へ矢をつがえたまま歩く。
鳥の声がしない。
往路では、木の上に何羽もいた。
虫の音まで減っている。
「これ、まずいですよね」
「喋るな」
ユアンに言われ、口を閉じる。
怖い時ほど、何か言いたくなる。
自分の呼吸だけが大きく聞こえた。
白い石を越えた先で、ダリオが止まった。
道がなくなっている。
太い倒木が、斜面から落ちて道を塞いでいた。
往路にはなかった。
枝には緑の葉がつき、根元から土がこぼれている。
古い倒木ではない。
「右から回れます」
リオナは斜面を見る。
「細いですけど、一人ずつなら」
「先を見ろ」
ダリオが盾を構えたまま言う。
リオナは倒木へ近づき、枝の隙間から向こうを覗いた。
地面に、大きな足跡がある。
人の頭ほどの幅があった。
爪の跡は深く、土の中へ入っている。
倒木を越えたところで一度止まり、こちらへ向きを変えていた。
喉が乾く。
「大岩熊」
セルカが小さく言った。
「ここ、あいつの縄張りじゃないだろ」
ユアンの槍先が揺れる。
「今はそうみたい」
リオナは答えた。
言った直後、自分の声が嫌になった。
もっと早く気づくべきだった。
泥。
木の傷。
消えた鳥。
痕跡はあった。
別々のものだと思っていた。
「右へ入る」
ダリオが指示する。
「走るな。目を合わせるな。荷物は置け」
セルカが月白草の入った袋だけを胸へ抱えた。
「これは?」
「置け」
「依頼の分です」
「命より高いなら持っていけ」
セルカは一拍だけ迷い、袋を地面へ置いた。
斜面へ入る。
最初にユアン。
次にセルカ。
リオナが続き、ダリオが最後へ回った。
上から、土が一粒落ちてくる。
リオナは顔を上げた。
斜面の上に、灰色の塊がいる。
熊の形をしているが、背中の毛は石の板みたいに固まっていた。
前脚を置くたび、爪が土へ沈む。
大岩熊はこちらを見ていない。
落とした月白草の袋を嗅いでいる。
「動かないで」
リオナは囁いた。
大岩熊が袋を前脚で押した。
布が裂け、白い草が地面へ散る。
薬草の匂いが広がった。
セルカの背負い袋からも、同じ匂いがしている。
大岩熊の頭が上がった。
黒い鼻が、斜面に並ぶ四人へ向く。
「行け!」
ダリオが盾を構える。
大岩熊が斜面を滑るように降りてきた。
リオナは走った。
後ろで、盾へ岩がぶつかったような音がする。
振り返る。
ダリオの体が宙へ浮いていた。
盾ごと木へ叩きつけられる。
大岩熊の前脚がもう一度上がる。
ダリオは地面へ落ちたまま、起き上がらなかった。
大岩熊の前脚が振り下ろされる前に、リオナは矢を放った。
眼は狙えない。
動く頭ではなく、鼻先へ向けた。
矢が黒い鼻の横へ刺さる。
大岩熊が顔を振り、前脚の軌道がずれた。
爪はダリオの肩を外れ、地面を抉った。
「セルカ!」
リオナが叫ぶ。
セルカは返事をせず、ダリオの背負い帯を両手で掴んだ。
一人では動かせない。
ユアンが槍を突き出し、大岩熊の顔を遠ざける。
「リオナ、引け!」
「どこへ!」
「どこでもいい!」
「よくないです!」
言い返しながら、リオナもダリオの腕を持った。
二人で斜面の窪みへ引きずる。
ダリオの口から、短い息が漏れた。
生きている。
ただ、左腕は力なく地面を擦り、盾を握っていた手も開いていた。
「胸が」
セルカが外套の留め具を外す。
鎧の左側が大きくへこんでいる。
左脚も、膝の下が不自然に腫れていた。
「外で見ないと分からない。ここじゃ無理」
「ここから出す方法を考えてください」
「考えてる」
「何かあります?」
「今、話しかけないで」
セルカの手も震えていた。
それでも、ダリオの口元を確かめ、首へ指を当てている。
前では、ユアンが一人で大岩熊を止めていた。
槍先が喉の下へ入る。
浅い。
大岩熊は首を振り、柄を前脚で払った。
ユアンの体が斜面へ転がる。
「ユアン!」
「来るな!」
起き上がり、折れていない槍を構え直す。
大岩熊の背中には、矢も刃も入らない。
石みたいな毛が重なり、動くたびに擦れ合っている。
腹側は柔らかい。
喉も。
分かっていても、そこへ届く前に前脚が来る。
リオナは二本目の矢をつがえた。
残りは七本。
全部射っても、倒せるとは思えない。
ダリオを置いて逃げることもできない。
大岩熊がユアンではなく、窪みにいる三人へ顔を向けた。
薬草の匂いを追っている。
「袋を投げます」
セルカが言った。
「まだ持ってたんですか」
「こっちの予備」
腰に結んでいた小袋を外す。
中には、乾燥させた月白草が入っていた。
「右へ投げる。反対へ走って」
「ダリオさんは」
「私が残る」
「一人じゃ運べません」
「じゃあ、何か考えて」
声が強くなった。
セルカが怒鳴るところを、リオナは初めて見た。
大岩熊が近づく。
ユアンが横から槍を入れる。
今度は前脚の内側へ刺さった。
大岩熊が吠え、ユアンを追う。
「今!」
セルカが袋を投げた。
右の斜面へ落ち、口が開く。
薬草が散った。
大岩熊の鼻が動く。
それでも、向きを変えなかった。
血の匂いの方が濃い。
ダリオの鎧の下から、地面へ赤いものが落ちている。
「駄目」
リオナの声が掠れた。
熊はもう、窪みの前まで来ている。
矢を眼へ向ける。
当てても、その後がない。
弦を引く指に汗が滲んだ。
その時、熊の背後で枝が折れた。
灰色の外套を着た男が、森から出てくる。
靴を履いていない。
脛の途中までしかないズボンに、袖のない上着。
外套だけが、その姿に合っていなかった。
「逃げろ」
男は大岩熊を見たまま言う。
武器は持っていない。
「無理です!」
リオナは反射的に返した。
「怪我人がいます。あなたも下がってください!」
男は窪みにいるダリオを一度見た。
次に、折れかけた盾へ目を向ける。
「死んでない?」
「まだです」
「なら、動かすな」
「分かってます!」
セルカが怒鳴った。
男は少しだけ目を細める。
怒ったわけではない。
何かを確かめるような目だった。
大岩熊が振り返る。
灰色の外套を着た男へ吠えた。
男は逃げなかった。
地面に落ちていたダリオの盾へ手を伸ばす。
片手で持ち上げようとして、重さに腕が下がった。
今度は両手で握る。
構え方は知らないように見えた。
「それ、使えるんですか」
リオナが聞く。
「初めて持つ」
「待ってください!」
男は待たなかった。
大岩熊へ向けて、盾を持ったまま走り出した。




