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最弱コウモリ幼体に転生したので、血を吸って進化する  作者: HATENA 
第5章 名前のない冒険者

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第058話 同じ匂い

 咳をすると、胸と腹が一緒に縮んだ。


 翼の時にはなかった動きだった。


 喉を押さえようとして、右手が顎へぶつかる。


 距離を間違えた。


 指先で顔を触る。


 鼻は短い。


 頬には毛がなく、耳も小さい。


 口を開けば、犬歯だけが他の歯より長かった。


 舌で触れると、先はまだ鋭い。


 立ち上がろうとする。


 右足を前へ出したつもりで、膝が外へ曲がった。


 壁へ肩からぶつかる。


 黒巣に積んだ石が落ち、入口の方で軽い音を立てた。


 誰かが入ったわけではない。


 今の音は俺が立てた。


 もう一度、壁へ手をつく。


 指を開くと、石の小さな凹凸まで手のひらに当たった。


 爪だけで体重を支えていた時より、滑る。


 足の裏も同じだった。


 石へ触れている場所が広く、濡れた部分を踏むたびに冷たい。


 膝を少し曲げ、重心を前へ置く。


 今度は立てた。


 天井へ頭は当たらない。


 それでも、黒巣の中央に立つと、翼を広げていた時より大きく場所を取っている気がした。


 一歩進む。


 左足が思っていたより遠くへ出た。


 右を合わせる。


 三歩目で、外套の裾を踏んだ。


 まだ着てもいない布に足を取られ、片膝をつく。


 手が先に床へ出た。


 転ばずに済んだ。


 人間だった頃なら、当たり前にしていた動きだ。


 今は、手が出たことに少し遅れて気づく。


 灰色の外套を拾う。


 両手で持てば、あれほど運びにくかった布が簡単に持ち上がった。


 広げ、前後を確かめる。


 袖がある。


 腕を入れようとして、指が内側の縫い目へ引っかかった。


 片方を通す間に、反対の肩から布が落ちる。


 何度か繰り返し、ようやく両腕が袖へ入った。


 ガレオの外套は少し大きい。


 裾は膝より下まであり、前を閉じれば体は隠せた。


 留め具は、胸元に二つある。


 片方の金具を穴へ入れようとしても、指が思った角度に曲がらない。


 親指で押し、人差し指で引く。


 外れる。


 もう一度。


 今度は入った。


 金具一つに、牙で革紐を結ぶより時間がかかった。


 それでも、自分だけで閉じられた。


 両手を見る。


 掌の線も、指の長さも、覚えていたものとは違う。


 爪は黒くない。


 強く力を入れると、先だけが少し尖った。


「手」


 声にすると、黒巣の壁から音が返った。


 低く、少し掠れている。


 念話ではない。


 口が動き、息が音になっている。


「俺は」


 次の言葉が喉で止まった。


 黒瀬湊。


 その名前は今も覚えている。


 だが、レグたちへ渡したのは別の呼び方だった。


「ミナト」


 自分の声で聞くと、フィナが呼んだ時より短く響いた。


 ステータスを開く。


 目の前に、人型になった後の表示が現れた。


――――――――――

名前:ミナト

種族:下級吸血鬼

種族ランク:C

進化段階:第5段階

Lv:30


HP:272/272

MP:128/128


筋力:128

耐久:144

敏捷:172

感知:180

魔力:116

器用:132

精神:120


状態:

なし


種族特性:

吸血鬼Lv1

壁面適応Lv2

古血適応Lv2

嗅覚・最下位Lv3

飛行Lv3

竜眼・下位

魔力器官Lv1

音波感知Lv1

熱感知・最下位Lv1


固有スキル:

因子吸収Lv1


スキル:

竜因子適応Lv1

因子吸収補助Lv1

飢餓耐性・最下位Lv1

粘着耐性・最下位Lv1

糸感知・最下位Lv3

毒耐性・最下位Lv1

音撃・最下位Lv1

念話・最下位Lv3

血液操作・最下位Lv1


称号:

異界より転じた魂

最弱幼体

古き帝の血を啜ったもの


保有因子:

洞窟鼠因子

血吸い蛭因子

古代竜帝因子

骨舐め鼠因子

薄羽虫因子

血吸いコウモリ因子

灰糸蜘蛛因子

石皮トカゲ因子

大灰糸蜘蛛因子

黒巣母蜘蛛因子

針尾蛇因子

針尾オロチ因子

黒爪猟犬因子

人間因子

赤角猪因子

夜狩り梟因子

――――――――――


 名前が【なし】ではなくなっている。


 自分で名乗り、何度も呼ばれた名前が、いつからか俺のものとして認識されたらしい。


 最弱幼体の称号は残っていた。


 今の体を幼体と呼ぶには無理がある。


 それでも、最弱の幼体として始まったことまで消えるわけではない。


 飛行Lv3も残っている。


 人型の背中に翼はないが、吸血鬼の説明どおりなら、血牙魔蝙蝠に近い姿へ戻れば使える。


 今すぐ試す気にはならなかった。


 進化で体内の血を使っている。


 元へ戻れなくなれば、外套を用意した意味もない。


 表示を閉じる。


 入口へ向かって歩いた。


 途中で一度、右足と左足がぶつかる。


 壁へ手をつき、止まった。


 今度は転ばなかった。


 黒巣の入口は、横向きにならなければ通れなかった。


 肩が片方ずつ石へ擦れる。


 血牙魔蝙蝠の時に使えなくなった細い亀裂は、人型では頭も入らない。


 広い道を選び、古い水路へ向かう。


 裸足で石を踏むたび、足の裏へ角が当たった。


 皮膚は見た目より硬い。


 切れはしないが、痛みはある。


 外套の裾も何度か岩へ引っかかった。


 手で持ち上げれば歩きやすくなる。


 その動作を思いつくまで、裾を二度踏んだ。


 暗闇は見える。


 吸血鬼へ統合された夜目は、人型でも変わらない。


 短く声を出すと、音の反響も返ってきた。


「あ」


 ただし、今までの鳴き声より低く、広がり方が違う。


 音波感知へ使うには、喉の奥へ魔力を通す必要があった。


 意識して息を吐く。


 人間には聞こえにくい細い音が、水路の先へ走った。


 曲がり角。


 床の窪み。


 天井から垂れた根。


 形は分かるが、蝙蝠の時より輪郭が粗い。


 耳の位置と、声を出す器官が変わったせいかもしれない。


 歩いて覚え直すしかない。


 水路の途中に、浅い水溜まりがある。


 足を入れる前に止まった。


 水面へ、知らない男が映っている。


 最初は、誰かが向こうから覗いているのかと思った。


 俺が首を傾けると、そいつも同じように動く。


 黒に近い髪が、額と頬へかかっていた。


 教室にいた頃より長い。


 濡れ羽みたいに青黒く、前へ落ちた髪の隙間から暗い赤の眼が見える。


 肌は白い。


 血色が薄く、暗い水の中では死体にも見えた。


 顔立ちは整っている。


 黒瀬湊より鼻が高く、顎の線も細い。


 十代の終わりか、二十歳を少し過ぎたくらいに見える。


 高校の教室へ入っても、誰も俺だとは思わない。


 口を開く。


 犬歯が見えた。


 そこだけは、さっきより自分の顔に見える。


「ミナト」


 水面の男の口が動く。


 声も知らない。


 名前だけが同じだった。


 手で水面を崩し、そのまま先へ進む。


 外へ続く入口には、大きな石が戻されている。


 前なら、合図を置いて開けてもらうしかなかった。


 石の下には、レグが残した鉄棒がある。


 両手で握る。


 冷たい鉄の感触が、掌へ収まった。


 腰を落とし、棒の端を持ち上げる。


 石が浮く。


 思っていたより軽い。


 腕だけでなく、脚と背中にも力が入っている。


 浮いた隙間へ小石を入れ、もう一度押す。


 大きな石が根を越えた。


 外から夕方の光が入ってくる。


 人型の体でも通れる幅まで開け、鉄棒を置く。


 これなら、集落側を待たなくても出られる。


 勝手に使わないという約束までなくなったわけではない。


 外へ出たら札を内向きへ戻す。


 三本爪の札を探し、手に取った。


 蝙蝠の爪で持っていた時より小さい。


 枝へ結ばれた紐も、指なら簡単に外せた。


 札を戻し、石を元の位置へ押す。


 完全には閉じない。


 内側から入れた小石が残っている。


 手を隙間へ入れ、一本ずつ掻き出した。


 石が落ち、入口を隠す。


 乾いた川底へ立つ。


 木々の上を飛んでいた時より、森が高い。


 枝の間に空は見えるが、そこへすぐ上がる翼はなかった。


 取引小屋まで歩く。


 血と煙の匂いは、遠くからでも分かった。


 柵が見える前に、前方で弦が鳴る。


 矢が足元の土へ刺さった。


「止まって」


 フィナの声だった。


 木の陰から短弓を向けている。


 その後ろでは、レグが槍を構えていた。


「外套を開け」


 俺は立ち止まる。


 声で答えようとして、二人の武器を見た。


 人の姿を見せるとは言った。


 その人間が、ガレオの外套を着て現れるとは伝えていない。


 レグの槍先は、胸へ向いていた。


 フィナも次の矢をつがえている。


 外套を開けば、武器を持っていないことは分かる。


 その下に何も着ていないことまで見える。


『撃つな』


 念話を送る。


 フィナの指が止まった。


「ミナト?」


『そうだ』


「声が違う」


『これは前と同じだ』


 念話に声はない。


 それでも、意味の届き方は覚えていたらしい。


 レグは槍を下ろさない。


「証拠は」


『古い水路を開けた。根に金属線を残した。三本爪の道では狩らない』


「聞いてた人間かもしれない」


『お前は根を引いて転んだ』


「それは言わなくていい」


 フィナの口元が少し緩む。


 弓はまだ下がらなかった。


「外套を開けて」

「無理だ」


 初めて、二人へ声で答えた。


 レグの耳が動く。


 フィナは一度目を瞬いた。


「喋った」

「喉ができた」

「もう一回」

「無理だと言った」

「何が無理なの」


 答えたくなかった。


 レグが外套の裾から見える裸足へ目を向ける。


「服がないのか」

「外套はある」

「それは服じゃないの?」

「下がない」


 フィナが弓を下ろした。


 少し遅れて、レグも槍先を地面へ向ける。


「先に言え」

「聞かれた」

「そうじゃなくて」


 レグは言葉を探し、諦めた。


「ここで待て」

「逃げない」

「入るなって意味だ」


 二人は柵の方へ戻った。


 すぐにゴルナが出てくる。


 鉈は持っていなかった。


 代わりに、長い棒の先へ灯りをつけている。


 俺の顔、手、足を順番に照らした。


「本当に変わったね」

「分かるのか」

「血の匂いは同じだよ」


 ゴルナが近づく。


 人型になった俺の方が背は高い。


 それでも、見上げながら鼻を動かした。


「梟。角兎。黒爪猟犬。それと、ずっと前からある古い血」


 古代竜帝因子のことまでは分からない。


 俺の中へ混ざった匂いとして感じているだけだ。


「外套は人間のだね」

「黒骨洞にあった」

「持ち主は」

「死んでいる」

「お前が殺した?」


 フィナがゴルナを見る。


 レグは黙っている。


「殺した」


 隠しても、外套の匂いから遠くないうちに分かる。


「襲われたからだ」

「そうかい」


 ゴルナは、それ以上聞かなかった。


 外套の胸元を指す。


「人間の町へ行くなら、それは着ない方がいい」

「なぜ」

「服には持ち主の癖が残る。繕い方も、留め具も、知ってるやつが見れば分かる」


 ガレオの金属板は持ってこなかった。


 服だけなら大丈夫だと思っていた。


 人間は、俺が考えているより細かいところを見る。


 ゴルナが柵の内側へ手を振る。


 しばらくして、フィナが布の束を抱えて戻ってきた。


「人間用じゃないけど」


 広げたのは、袖のない厚手の服と、紐で縛るズボンだった。


 どちらもコボルト用で、背中と腰が広い。


「倉にあった大きいやつ。丈は足りないと思う」

「ここで着るのか」

「小屋の中なら見えない」


 取引小屋へ入る。


 壁は半分崩れているが、フィナとレグが布を張った。


 ゴルナは外で待つ。


「手伝う?」


 フィナが布の向こうから聞いた。


「いらない」

「前は袋も一人でつけられなかった」

「手がある」

「使えるの?」

「たぶん」


 ズボンへ片脚を入れる。


 立ったままもう片方を通そうとして、壁へ肩をぶつけた。


 外でフィナが笑う。


「聞こえた」

「黙れ」


 座ってやり直す。


 丈は脛の途中までしかない。


 腰の紐を結ぶ時、金属線より柔らかすぎて何度も指から逃げた。


 上着は肩へ入ったが、胸元が開いている。


 外套を重ねれば隠せた。


「終わった」


 布が外される。


 フィナは俺を見て、首を傾げた。


「人間には見える」

「見えるだけだ」

「耳も牙も隠れてる」


 ティオがフィナの後ろから顔を出す。


 俺を見上げ、何も言わない。


 前はすぐ質問した。


 今は、フィナの服を掴んだまま動かなかった。


「ミナトだよ」


 フィナが言う。


「……本当に?」

「逆さまで寝る」


 答えると、ティオが少しだけ前へ出た。


「今も?」


 人型の足と、黒巣の天井を思い浮かべる。


「今は無理だ」


 ティオはそこだけ残念そうな顔をした。

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