第055話 匂いを消せない
次の夜、取引小屋の前に血がこぼれていた。
机の上ではない。
森へ向かって、点々と続いている。
角兎を引きずった跡もあった。
俺は梁へ止まらず、血の跡を見下ろしたまま小屋の上を回る。
ゴルナが柵の内側から出てきた。
片手に鉈を持っている。
「遅かったね」
『何が来た』
「見たやつはいない。血を抜く前の角兎を一匹、持っていかれた」
小屋の壁には、新しい泥がついている。
地面を嗅ぐと、濡れた毛と獣の唾液が混じっていた。
犬に近い。
ただ、人間が飼っていた犬より血の匂いが濃い。
フィナが柵の下へ灯りを置いた。
「黒い爪跡があった」
土の上に、四本の筋が残っている。
前脚だけが深い。
「黒爪猟犬だと思う」
レグが鉢に残った血を水で流していた。
「一匹じゃ来ない」
『何匹だ』
「少なくて三匹。多ければ十匹以上」
血の跡は、古い水路とは反対の西へ伸びている。
猟犬が自分の巣へ持ち帰ったとは限らない。
見つけた餌を運びながら、俺たちが追うか確かめている可能性もある。
『今まで来なかった』
「肉は柵の中で捌いてたからね」
ゴルナが空の器を小屋へ運ぶ。
「ここで血を渡すようになって、匂いが残った」
『俺の血ではない』
「飲んだ後のお前からも匂うよ」
自分の胸元を嗅いでも、革袋と毛の匂いしか分からない。
血を飲んだ直後なら、口と牙には残る。
それを辿られたのかもしれない。
「今夜は血を置かない」
ゴルナが言う。
『俺の分は』
「持っていかれた」
森の血の跡を見る。
あれを追えば、角兎だけでなく猟犬の血も手に入る。
『取り返す』
「頼んでないよ」
『俺の血だ』
「まだ渡してない」
『三匹目だった』
ゴルナは黙り、フィナが角兎を数える時に使う札を確かめた。
血の滴が刻まれた面には、前の一本とは別に、小さな傷が二本増えている。
三匹目。
取引どおりなら、今夜受け取るはずだった。
「なら、好きにしな」
ゴルナは鉈を腰へ戻した。
「でも、水路へ近づいたら知らせて。あそこを覚えられる方が困る」
『見つけたら印を置く』
西へ飛ぶ。
新しい革袋は、急に曲がっても胸からずれなかった。
中には金属線と、三本爪の札が一枚入っている。
血の跡は森の中で何度も曲がっていた。
一直線には巣へ戻っていない。
低い枝の下を通り、棘の茂みへ入り、また開けた場所へ出る。
追う相手の速さを落とす運び方だった。
俺は地面の跡だけを見ず、先へ鳴く。
動くものは一匹。
角兎を咥えたまま、ゆっくり進んでいる。
周囲の茂みにも音を向ける。
枝と葉が重なり、細かい形までは拾いにくい。
熱感知にも、角兎と猟犬以外の熱は映らなかった。
それでも、すぐには降りない。
風上の木を選び、上から後を追う。
猟犬は時々止まり、顔を上げた。
目ではなく、鼻をこちらへ向けている。
羽ばたく音を抑えても、匂いまでは消せない。
気づかれている。
猟犬が角兎を地面へ置いた。
そのまま逃げず、前脚で死骸を押さえて待っている。
誘っているように見えた。
俺は木を一つ回り、猟犬の背後へ移る。
狙うのは血ではない。
最初に動きを止める。
枝を離れ、一気に降りた。
猟犬が振り向く。
黒い前脚が上がる前に、後頭部へ両爪を入れた。
体重をかけ、鼻先を地面へ叩きつける。
猟犬は体を捻った。
背中から落とされる前に、片方の眼へ爪を滑らせる。
鳴き声が森へ響いた。
俺は首へ回り、爪を食い込ませる。
一度では折れない。
音撃を耳のすぐ横へ放つ。
猟犬の脚が止まり、頭が地面へ落ちた。
その首を石へ押しつけ、もう一度捻る。
骨が鳴った。
角兎を取り返す。
その前に、茂みの中で熱が動いた。
一つではない。
左に二匹。
右に一匹。
後ろにもいる。
伏せていた体が立ち上がり、葉の隙間から黒い爪が現れた。
最初の猟犬は、角兎を運んでいたのではない。
血の匂いがする場所まで、俺を連れてきた。
四匹が同時には来なかった。
左右の二匹が近づき、後ろの一匹は動かない。
残る一匹は、角兎の死骸へ回っている。
俺がどちらへ逃げても、先へ出られる位置だった。
上へ飛ぶ。
翼を開いた瞬間、左の猟犬が跳んだ。
黒い爪が胸元を掠める。
革紐が裂け、袋が腹の下へ回った。
飛び上がるはずだった体が、右へ傾く。
木の幹へ翼の端が当たった。
落ちる前に爪をかける。
下から、別の猟犬が幹へ飛びついた。
牙は届かない。
だが、前脚の爪が樹皮へ入り、思っていたより高くまで体を持ち上げる。
俺は幹を回り、反対側から枝へ上がった。
革袋が揺れる。
胸元の輪を噛み、引いた。
結び目が外れ、袋が落ちる。
猟犬の一匹が飛びついた。
革ごと噛み、頭を振る。
中の金属線が地面へ飛び出した。
取りに戻れば囲まれる。
道具より体が先だ。
自分で言った言葉を、こんなに早く使うとは思わなかった。
枝を蹴り、今度こそ翼を広げる。
茂みの上へ出た。
猟犬たちは、俺の真下へ集まらない。
二匹は木々の間を追い、一匹は角兎へ戻った。
残る一匹が見えない。
風穴の方角には飛べない。
取引小屋へ戻れば、群れをそのまま連れていく。
北へ向きを変える。
枝の上を飛びながら、後ろへ鳴いた。
地上の二匹は離れずについてくる。
一匹が速く走り、もう一匹が遅れている。
先頭が疲れると、位置が入れ替わった。
追う役を交代している。
俺が枝へ降りれば、二匹とも止まる。
飛べば、また走る。
すぐに捕まる相手ではない。
だが、振り切れないまま夜を使わされる。
血と体力が減るまで待つつもりだ。
俺は低く飛び、太い木の間へ入った。
地面に近づく。
追っていた一匹が速度を上げた。
飛びかかる寸前で上へ曲がる。
猟犬の爪が空を切った。
もう一匹は来ない。
少し離れた場所で止まり、こちらを見ている。
一匹だけを誘い出すつもりだったが、向こうも分かっている。
それでも、飛びついた猟犬は俺の真下まで来ていた。
その前には、地面から太い根が出ている。
爪が届く寸前に上へ曲がると、飛びついた体が根へ肩からぶつかった。
猟犬が横へ倒れる。
俺は翼を畳み、その背中へ落ちた。
肩へ爪を入れ、根の間へ頭を押し込む。
黒い前脚が腹を掻き、皮が裂けた。
猟犬が体を起こす前に、鼻先へ爪をかける。
根を支点にして頭を横へ引いた。
首が曲がり、脚から力が抜ける。
離れていた一匹が走り出した。
俺は猟犬の体から離れ、翼を開く。
黒い爪が後脚へ届いた。
肉を浅く裂かれる。
飛び上がりながら、残した一匹へ鳴く。
根の間に倒れた猟犬は動いていない。
二匹目。
追ってきた猟犬は、死骸の匂いを嗅いだ。
そのまま追うかと思ったが、短く鳴いて西へ戻っていく。
仲間を呼びに行く。
俺は追わなかった。
腹と後脚から血が出ている。
血液操作で傷口の周りへ血を集め、流れを弱める。
完全には止まらない。
近くの岩場へ降り、傷を舐めた。
地面に落ちた自分の血から、匂いが続いている。
飛べば途中で切れるが、傷が開いている限り、降りた場所には残る。
黒爪猟犬は取引小屋の場所を知っている。
俺を追えなくなれば、あそこへ戻るだけだ。
夜狩り梟の岩場まで飛び、残っていた古い羽の下へ体を押し込む。
腹の傷へ熱を回す。
蓄えた血が減り、浅い部分だけが閉じた。
後脚の傷は残っている。
下の森で猟犬の声が二度聞こえた。
遠くから、もう一匹が返す。
三匹。
夜が明ける前に飛び立つ。
大きく回り、川の上を通って匂いを散らした。
取引小屋へ戻った時、ゴルナとレグはまだ起きていた。
フィナは机に突っ伏して眠っている。
俺の腹を見て、レグが槍を取った。
「来るのか」
『五匹いた。二匹は殺した。三匹残っている』
今度の念話は、途中で途切れなかった。
「追ってきた?」
『今は離れた。ここはもう知られている』
フィナが顔を上げる。
眠そうだった目が、すぐに森へ向いた。
「水路は?」
『一匹が途中で消えた。どこへ行ったか分からない』
レグは槍を持ったまま、柵へ戻っていく。
ゴルナが血のついていない器を机へ置いた。
「三匹目を取り返すどころじゃなくなったね」
『まだ終わっていない』
「そうだろうね」
ゴルナは器を伏せた。
今夜、そこへ入れる血はなかった。




