第053話 三本爪の道
風穴を離れる前に、赤い杭の匂いを覚えた。
削りたての木と、人間の手袋に染みた油の匂いがする。
杭を抜くことはできる。
だが、なくなれば、次に来た人間は誰かが抜いたと考える。
俺は触れずに森を離れた。
黒巣へ戻ったのは、日が高くなってからだった。
脇腹の傷から血は出ていないが、翼を大きく開くと皮が引かれる。
夜狩り梟の血を少し残しておけばよかった。
黒巣の奥で眠り、次の夜に取引小屋へ向かう。
梁には、乾いた薬草が増えていた。
ゴルナは机へ肘をつき、欠けた耳の後ろを掻いている。
俺を見ると、空になった壺を机の下から出した。
「血ならないよ。昨日、全部飲んだだろ」
『道が欲しい』
「挨拶より先にそれかい」
ゴルナは壺を戻した。
『風穴を人間に見つけられた』
掻いていた手が止まる。
「どんな印を置かれた」
『赤い杭。切り込みがある』
ゴルナは小屋の外へ顔を向けた。
「フィナ」
「いる」
屋根の陰から返事がして、フィナが中へ入ってきた。
手には細い枝と、削りかけの木札を持っている。
「赤い杭だって」
「何本?」
『一本。後から傷を増やした』
「場所を調べた印だと思う」
フィナは木札を机へ置いた。
「何もないなら白。危ない魔物がいたら赤。前に人間が残したのを見たことがある」
「なら、また来るね」
ゴルナは俺へ向き直る。
「人間は殺したのかい」
『殺していない』
「四人いたらしいな」
俺はゴルナを見る。
「朝、森の端を歩いてた。こっちへは来なかったけど、匂いは残ってたよ」
『帰した』
「お前が?」
『探す場所を変えた』
フィナが何か聞こうとしたが、ゴルナの視線を受けて口を閉じる。
「風穴の他にも、黒骨洞へ入る道はある」
ゴルナは机の上へ獣皮の地図を広げた。
集落から南へ流れる細い川を爪で辿り、その先にある裂け目を叩く。
「雨の少ない時だけ通れる古い水路だ。中で黒骨洞の中層へつながってる」
『案内しろ』
「嫌だね」
返事はすぐだった。
「水路の近くには、うちの採取道がある。風穴を失ったからって、代わりにこっちを好きに使われたら困る」
『集落には入らない』
「集落だけの話じゃないよ」
ゴルナの爪が、地図の細い道を二本なぞる。
「薬草を採る場所も、子供が木の実を拾う場所もある。その頭の上を、お前が腹を空かせて飛ぶ」
小屋の外から、誰かが咳をした。
俺が聞いていると知って、足音が柵の方へ遠ざかる。
『印のある道では狩らない』
「何の印か知らなきゃ守れない」
『教えろ』
「教えた道を、人間へ売らないとも限らない」
『人間に売るものはない』
「今はね」
ゴルナは地図から爪を離した。
俺が人の血を吸ったことを知っているわけではない。
それでも、言葉を話し、道具を使う魔物が、ずっと同じ場所にいるとは考えていないらしい。
フィナが削りかけの木札を俺の前へ置いた。
片面に三本の爪痕があり、裏には丸い穴が空いている。
「この印がある道では狩らない。集落の者も、印の外へ出たらミナトに守ってもらえるとは思わない」
ゴルナがフィナを見る。
「勝手に足すんじゃないよ」
「でも、そこを決めないと道を教えられない」
「分かってる」
ゴルナは鼻から息を吐いた。
「もう一つ。古い水路には崩れた場所がある。今のフィナ一人じゃ通せない」
『俺に開けろと』
「見てから決めな。開けるなら道を使わせる。その後も危ない魔物を見つけたら教える。代わりに、こっちは狩った獲物の血を残す」
『全部か』
「全部欲しいなら、自分で狩りな」
ゴルナの爪が、血の滴を刻んだ札を一枚だけ机へ出す。
「持ち帰った獲物の三匹に一匹。危険な魔物を倒した時は別に決める」
三匹に一匹。
これまでは、持ち込む獲物がある夜に血を分けるだけだった。
今夜だけではなく、その先に狩る数まで話している。
俺は木札の穴へ爪を入れ、持ち上げた。
『その道では狩らない。守りもしない』
「危険を見つけたら」
『教える』
「それでいい」
ゴルナは血の札を自分の前へ置いた。
「明日の夕方、フィナを出す」
「今夜でも行ける」
「昨日、梟の羽をむしって朝まで起きてたのは誰だい」
フィナの耳が横へ伏せた。
「明日でいい」
俺は木札を机へ戻す。
そのまま飛び立とうとすると、ゴルナが呼び止めた。
「ミナト」
梁から振り返る。
「赤い杭の場所には近づくんじゃないよ。人間は印を置いた後の方が、よく見てる」
『知っている』
「なら、忘れないことだ」
ゴルナは空の壺を布で拭き始めた。
明日入る血のために。
次の夕方、取引小屋にはフィナだけでなくレグもいた。
レグは背中に縄を巻き、短い鉄棒を腰へ差している。
「フィナ一人を行かせる話だった」
ゴルナが小屋の前で言う。
「俺が行かないとは言ってない」
「昨日まで脚を引きずってたのは誰だい」
「もう走れる」
「走れるやつは、わざわざ言わないよ」
レグは返さず、森へ向かった。
フィナが俺を見る。
「あれでも、今日は遅く歩くと思う」
その言葉どおり、レグは先へ行きすぎなかった。
集落の柵を回り込み、南の斜面へ下りる。
途中の木には、三本の爪痕を刻んだ木札が結ばれていた。
一つ目の先には、腰ほどの高さしかない茂みが続いている。
「木の実を拾う道」
フィナが札を指した。
二つ目は浅い谷へ向いていた。
「薬草。春はもっと奥まで行く」
『印の先には入らない』
「入ってもいい。狩らないで」
『同じでは』
「違うよ。危ない時に逃げ込めなくなる」
レグが前から振り返る。
「迷ったふりをして近づくな、ってことだ」
『しない』
「覚えておく」
警戒はまだ残っている。
それでいい。
俺も、二人を黒巣へ入れるつもりはない。
森を抜けると、地面が大きく抉れていた。
昔は川だったらしい。
丸い石が谷底に並び、倒れた木の根が土から半分出ている。
湿った跡はあるが、水は細い筋になって流れているだけだった。
上流へ進むと、崖の下に黒い穴が見えた。
入口の前を、崩れた石と太い根が塞いでいる。
隙間へ鳴く。
音は石の奥で広がり、さらに下へ落ちていった。
空洞は続いている。
『通れる』
「中はね」
フィナが入口の石を足で押した。
動かない。
「去年の大雨でこうなった。それまでは、黒骨洞へ薬草を採りに行く時に使ってた」
「今は中層へ行くやつがいない」
レグが縄を下ろす。
「針尾オロチが出てから、道ごと捨てた」
『もう死んだ』
二人が同時に俺を見た。
「見たのか」
『倒した』
「一匹で?」
『三匹で』
レグの耳が動く。
誰と、と聞かれる前に、崩れた入口へ近づいた。
石の間には、一本だけ細い隙間がある。
今の体では通れない。
奥から流れてくる空気は冷たく、黒骨洞の湿った匂いが混じっていた。
レグが大きな石の下へ鉄棒を差し込む。
フィナは近くの石を集め、棒の下へ噛ませた。
二人で押しても、石はわずかに浮くだけだった。
「根が挟まってる」
フィナが隙間を覗く。
「先に切らないと動かない」
太い根は、石の下を横切っている。
牙を入れられる場所は狭い。
俺はガレオから取った金属線を爪から外した。
根の向こうへ線を通そうとしても、先が石へ当たって戻ってくる。
人間の手なら、指で押し込めた。
今は牙と爪しかない。
線の端を口へ入れ、小さな輪を作る。
綺麗には曲がらない。
フィナが手を出しかけ、止めた。
「貸す?」
『待て』
もう一度、線を牙の間で折る。
輪の先へ細い枝を通し、石の隙間へ押し込んだ。
枝が根の下を抜ける。
反対から出た先をフィナが掴んだ。
「通った」
線を根へ回し、両端を縄へ結ぶ。
レグが縄を肩へかけた。
「引くぞ」
俺は根元へ牙を立てる。
二人が引き、根が石の下で張った。
繊維が伸びたところを噛み切る。
一度では切れない。
顎へ力を入れるたび、枯れた皮が口の中へ剥がれた。
最後の繊維が切れ、縄が急に軽くなる。
レグが後ろへ倒れた。
フィナは笑いかけたが、兄に睨まれて口を閉じた。
「次は石」
鉄棒を差し直す。
俺は石の上へ回り、金属線を奥の出っ張りへかけた。
浮いた瞬間に引く。
三人分の力が同じ方向へかかる。
大きな石が根を越え、谷底へ転がった。
後ろに詰まっていた小石も崩れ、土埃が穴から噴き出す。
フィナが咳をしながら顔を背けた。
レグは穴へ入ろうとする。
『待て』
俺は前へ出て、暗闇へ鳴いた。
開いた道は、すぐ先で下へ曲がっている。
動く魔物の音はない。
ただ、崩れた石の上から奥へ、細長い骨が何本も続いていた。
薬草採りが捨てたものではない。
奥には、何かがここを使っていた痕跡が残っている。
『俺が先に行く』
「案内される側だろ」
『今は違う』
穴へ入り、天井から垂れた根を避ける。
フィナの灯りが、少し遅れて後ろから入ってきた。
壁際に寄せられ、いくつかは噛み砕かれている。
表面についた歯形には見覚えがあった。
骨舐め鼠。
黒骨洞で、初めて自分から倒した魔物だ。
あの時は一匹の血を吸うだけで、何度も牙を立て直した。
今は、暗闇の奥に五匹いる。
成体が二匹と、それより小さいものが三匹。
俺の声に気づき、骨を噛む音が止まった。
「何かいる?」
フィナが灯りを低くする。
『骨舐め鼠。五匹』
レグが槍を抜いた。
「戻るか」
『必要ない』
「前にも戦ったことがあるの?」
『ある』
俺は天井へ爪をかけた。
奥へ進む。
最初の一匹が、積まれた骨の陰から飛び出した。
牙を剥き、こちらへ向かってくる。
音撃を狭い水路へ放つ。
衝撃が壁の間を抜け、先頭の鼠へ当たった。
体が横へ流れ、頭から石へぶつかる。
首を曲げたまま、床から動かなかった。
後ろの四匹は鳴き声を上げ、奥へ逃げ始めた。
一匹がフィナたちの方へ走る。
レグの槍が下がった。
鼠は穂先を避けて壁へ寄る。
俺は天井から落ち、背中へ両爪を入れた。
体重をかけたまま、頭を床へ押しつける。
鼠の脚が石を掻いた。
首へ噛みつく前に、爪へ力を込める。
首の骨が一度鳴り、動きが止まった。
口元へ血が滲んだが、吸わなかった。
残りは逃げている。
ここで血の匂いを広げれば、別の魔物まで寄るかもしれない。
「飲まないの?」
フィナが聞いた。
『今は道が先だ』
死骸を壁際へ押し、奥へ鳴く。
逃げた鼠は、水路の先にある横穴へ入っていた。
こちらへ戻る音はない。
水路はさらに下へ続いている。
途中で天井が高くなり、翼を半分だけ広げられるようになった。
黒骨洞の匂いが濃くなる。
濡れた石。
灰糸蜘蛛の古い糸。
石皮トカゲが通った跡。
知っているものが増えるたび、黒巣までの位置が頭の中でつながっていく。
やがて、前方から広い空洞の反響が返ってきた。
俺は飛び、曲がった水路を抜ける。
見覚えのある岩壁があった。
黒巣から中層へ下りる途中にある、白い筋の入った壁だ。
黒巣そのものまでは、鳴いても届かない。
だが、ここからなら戻れる。
『つながった』
後ろから来たフィナが壁へ灯りを向ける。
「黒骨洞?」
『中層だ』
レグは水路の奥を見た。
「集落から近すぎる」
「でも、風穴より見つかりにくい」
「人間にじゃない。中の魔物にだ」
レグはフィナの灯りを取り、床の爪跡へ近づけた。
石皮トカゲのものだけではない。
針尾オロチが通った太い跡も、まだ残っている。
「この道を開けたら、向こうからも来る」
『俺も使う』
「ずっと見張るのか」
『しない』
「なら、開けたままにはできない」
レグは入口を開く時に使った縄を下ろした。
「外からは石で隠す。使う時だけ動かす」
俺一匹では、あの石を毎回動かせない。
『俺が使えない』
「合図を残せば、こっちが開ける」
『夜だけか』
「夜でも、誰かが起きてるとは限らない」
フィナが壁を見回した。
白い筋の下には、拳ほどの石が出ている。
その上へ木札を置いた。
「ここに三本爪の札があれば、集落側から入口を開ける。出たら札を戻す」
『急ぐ時は』
「別の道を使って」
フィナは簡単に言った。
風穴は人間に見つかり、上の道は俺が崩した。
急ぐ時に使える別の道は、もうほとんど残っていない。
それでも、集落の道を俺だけの逃げ道にはできないということだ。
『分かった』
返すと、レグが少し意外そうに俺を見た。
「もっと揉めると思った」
『使えるならいい』
「使えない時もあるぞ」
『その時は別を探す』
俺は水路を戻り始めた。
骨舐め鼠の死骸がある場所で止まり、片脚を咥える。
入口まで引きずっていく。
「置いていくんじゃなかったの?」
『道から出す』
外へ運び、入口から離れた下流の茂みへ捨てる。
フィナが内側から回収した三本爪の札を入口の石へ結び、周囲の枝で隠した。
レグは動かした石の下へ鉄棒を差し込んだままにする。
次に開ける時、同じところから力をかけられる。
俺の金属線も、根に巻いたまま残した。
道具を置いていくことには、まだ少し抵抗がある。
フィナが線を指で弾いた。
「なくなったら、私たちも困るから」
『取るな』
「取らない」
「錆びる前には替えろ」
レグが土を払って立ち上がる。
入口は枝と石に隠れ、少し離れると黒い隙間も見えなくなった。
三本爪の札だけが、枝の内側で揺れていた。




