第005話 太古の血
どれくらい、意識が落ちていたのか分からない。
目を開けても、最初は何も変わっていないように思えた。
狭いくぼみ、濡れた羽、石に押しつけた腹。
下では水が揺れ、背後ではまだトカゲが石を掻いている。
生きている。
そう分かった途端、空腹を感じた。
傷の痛みより先に、飢えが体を動かそうとする。
血吸い蛭を噛み潰した味は薄れている。
腐った血と、泥と、苦い何か。
その後味だけが、舌の奥に残っていた。
なのに、喉が動く。
嫌だと思うより先に、体が食べられるものを探し始めていた。
死骸。
血。
弱った魔物。
探せ。
そうしないと、今度は空腹で死ぬ。
俺はくぼみの中で、ゆっくり首を動かした。
目はあまり役に立たない。
でも、匂いはさっきより分かった。
淀んだ水、濡れた石、腐った血。
その奥に、乾いた骨と古い血の匂いがあった。
それから、弱った獣の匂い。
かり、と小さな音がした。
俺は息を止める。
音は水場の方じゃなく、壁のくぼみの先、細いひびの向こうだ。
かり。
かり。
何かが、硬いものを削っている。
鼠か。
洞窟鼠。
そう思った瞬間、喉が鳴りそうになった。
食えるかもしれない。
勝てるかは分からない。
でも、あのトカゲよりは小さい。
血吸い蛭よりは、食えるかもしれない。
俺は壁に爪をかけた。
くぼみの奥には、さらに細いひびが続いている。
人間の頃なら、手も入らない。
今の俺なら、ぎりぎり通れる。
羽を畳み、腹を石に擦りつける。
足の傷が痛んでも、進む。
かり、という音が止まった。
相手も気づいたのかもしれない。
俺は鳴かなかった。
音を出せば、俺の場所も知られる。
匂いだけを追った。
乾いた骨と、古い血と、小さな獣の匂い。
ひびの先で、何かが動いた。
黒い影と、細い尾。
鼠に似ているが、洞窟鼠より痩せていた。
骨を舐めるように、白っぽいものへ顔を押しつけている。
俺より大きいが、弱っている。
背中の毛が抜け、腹がへこみ、片方の後ろ足を引きずっていた。
いけると思っただけで、体が前に出た。
鼠が跳ねる。
俺も飛びかかった。
飛ぶ、とは言えない。
石の上を滑って、転がって、爪を立てて、ただ前へ出ただけだ。
鼠の尾が鼻先をかすめる。
近い。
牙を立てれば届く。
そう思った瞬間、鼠は横の裂け目へ逃げ込んだ。
狭くて暗く、嫌な匂いがする。
けれど、追わない理由にはならなかった。
俺はそのまま裂け目に体をねじ込んだ。
入った瞬間、音が消えた。
水音、虫の脚、トカゲが石を掻く音。
全部が、急に遠くなる。
いや、遠いんじゃない。
ここだけ、洞窟の中から切り取られているみたいだった。
空気が重い。
湿っているのに、乾いている。
冷たいのに、喉の奥だけが熱くなる。
鼠の匂いが薄くなった。
代わりに、古い血の匂いが濃くなる。
俺は止まった。
止まりたかった。
でも、腹がそれを許さなかった。
奥へ行け。
血がある。
そう言われている気がした。
裂け目の先は、少しだけ広くなっていた。
小さな空間で、洞窟の行き止まりに見えた。
最初は、黒い岩だと思った。
壁に埋まった、妙に滑らかな岩。
でも違う。
骨だ。
石みたいに黒くなった骨が、壁の中から突き出している。
太すぎる。
大きすぎる。
見えている部分だけでも、人間だった頃の俺と比べものにならないくらいでかい。
骨の隙間には、乾いた血の跡がこびりついていた。
赤じゃなく、黒い。
深く、鈍く、光のない色。
近くの石には、剥がれた鱗みたいなものが刺さっている。
一枚だけでも、今の俺の体より大きい。
その表面に、細い傷がいくつも走っていた。
鎖の跡。
そう思った。
なぜそう思ったのかは分からない。
ただ、壁にも床にも、何かを縛っていたような溝が残っている。
ここは駄目だ。
体の奥がそう言った。
ここにいてはいけない。
触ってはいけない。
吸ってはいけない。
なのに、口の中に唾が溜まった。
乾いた血の匂いがする。
黒い骨の裂け目に、まだ何かが残っている。
血なのか、骨髄なのか、それとも別のものなのか分からない。
分からないのに、空腹すぎて離れられない。
さっき追っていた鼠は、もういなかった。
逃げたのか。
隠れたのか。
それとも、最初から俺をここへ誘ったのか。
そんなことを考える余裕はなかった。
俺は黒い骨へ顔を近づけた。
錆びた鉄みたいな匂いがする。
熱い。
死んでいるはずなのに、生き物の体温みたいなものがある。
細い牙が、乾いた血の端に触れた。
硬い。
吸えるわけがない。
そう思った。
次の瞬間、黒い血の跡が、舌の上で溶けた。
熱い。
喉が焼ける。
俺は声を出そうとした。
出なかった。
口から入ったものが、血なのか、火なのか、毒なのか分からない。
腹の奥へ落ちた瞬間、体が跳ねた。
骨が鳴る。
いや、俺の骨じゃない。
壁だ。
洞窟が鳴っている。
ごう、と低い音がした。
風じゃない。
獣の息でもない。
洞窟そのものが、一度だけ呼吸したみたいだった。
視界が赤くなる。
いや、見えているんじゃない。
舌の上で溶けた黒い血の奥から、別の景色が押し上がってくる。
暗闇の奥に、月が浮かんでいた。
赤黒い月。
その前に、巨大な影がいた。
翼。
王冠みたいに枝分かれした、黒い角。
閉じた眼。
生きていた頃の、何かの記憶。
そう思った瞬間、鳥肌が立った。
俺を見るはずがないのに、こっちを見た気がした。
違う。
見るな。
俺を見るな。
その瞬間、頭の奥で何かが壊れた。
通知が走る。
けれど、いつもの文字じゃない。
文字が歪み、ノイズが走った。
頭の奥に、読めないものが流れ込んでくる。
――――――――――
……警告。
解析不能因子を検出。
因子照合中。
照合失敗。
照合失敗。
照合失敗。
【古代竜帝因子】を取得しました。
警告:現在の肉体では、因子の大部分に適応できません。
因子適応率:0.02%
解放可能領域:竜眼
封印領域:詳細不明/詳細不明/詳細不明
――――――――――
――――――――――
称号【古き帝の血を啜ったもの】を獲得しました。
スキル【竜因子適応Lv1】を獲得しました。
スキル【因子吸収補助Lv1】を獲得しました。
種族特性【竜眼・帝位】を検出しました。
警告:現在の肉体では適応できません。
種族特性【竜眼・帝位】は【竜眼・最下位】へ降格しました。
種族特性【竜眼・最下位】を獲得しました。
状態異常【因子過負荷】が発生しました。
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――――――――――
称号【古き帝の血を啜ったもの】
古き帝位の竜の血を啜った者に与えられる称号。
古代竜帝因子への適応と、血に宿る因子の取得に微補正を得る。
スキル【竜因子適応Lv1】
竜種由来の魔力や因子を、現在の肉体にわずかに馴染ませる。
今は拒絶反応を少し抑える程度に留まる。
スキル【因子吸収補助Lv1】
血液や骨髄、魔力残滓に宿る因子を取り込みやすくする。
現在の肉体では、効果は大きく制限される。
種族特性【竜眼・最下位】
対象の名前だけが見える。
ステータスや因子の詳細は読み取れない。
状態異常【因子過負荷】
現在の肉体では処理できない因子により、発熱、激痛、意識混濁が発生する。
――――――――――
読めたはずなのに、理解が追いつかない。
古代。
竜帝。
因子。
その三つの言葉だけが、意識に焼きついた。
体が熱い。
さっきまで寒かったのに、今は内側から燃えている。
羽が震え、爪が石を掻く。
口の中から、黒い血の味が消えない。
吐きたいのに、吐けない。
飲み込んだものが、もう俺の中に染み込んでいる。
目が痛くて、開いているのか閉じているのかも分からない。
暗闇の中に、細い線が見える。
骨の中。
俺の血の中。
見えるはずのないものが、裂け目みたいに見えた。
見たくない。
頭が焼ける。
体が小さすぎる。
この中に入れていいものじゃない。
分かった時には、もう遅かった。
黒い骨の奥で、何かがゆっくり軋む。
それは音でも声でもなく、ただ存在だけで俺の体を押し潰すような気配だった。
俺は逃げようとした。
爪も羽も動かない。
息ができない。
いや、息はしている。
でも、体の中に入ってくる空気まで熱い。
遠くで、水音が戻ってきた。
トカゲが石を掻く音も、虫の脚も、水場の蛭が揺れる音も。
全部が一気に戻ってきて、頭の中でぐちゃぐちゃに重なった。
俺は鳴いた。
「ぎ、ぁ」
それが自分の声なのか、別のものの声なのか分からなかった。
視界の奥で、閉じていた竜の眼が、ほんの少しだけ開いた。
体の中で、俺じゃない何かが目を開けた。




