第004話 食われる側
近づいてくる。
石の上を擦る音が、少しずつ大きくなっていた。
洞窟鼠の死骸の影に、俺は体を押し込める。羽を畳み、爪を石にかけ、腹をできるだけ低くした。
それでも、隠れているというより、死骸の横に張りついているだけだった。
少しでも影に混ざろうとして、俺は洞窟鼠の腹の裂けたあたりへ体を寄せた。
血の匂いが近い。
腐りかけた肉の匂いもする。
喉が勝手に鳴りそうになって、俺は体をさらに低くした。
今は、食ってる場合じゃない。
体は動かしていないのに、心臓だけが激しく鳴っていた。
どこだ。
何が来てる。
俺は鳴かなかった。
鳴けば、周りの形が少しだけ分かる。
でも、鳴けば見つかる。
暗闇の中で、音だけが近づく。
ず、ず、と湿った石を擦る音。
爪がひっかかるような細い音。
洞窟鼠の血の匂いに混じって、別の匂いがした。
石の粉と冷えた泥に、獣の匂いと、濡れた石を削ったような匂いが混じっていた。
俺は動かなかった。
いや、動けなかった。
やがて、石の影の向こうに何かが現れた。
低い体に、横へ張った足。
頭だけが、ゆっくり左右に揺れている。
トカゲ。
ただのトカゲじゃない。
人間だった頃なら、片腕ほどの大きさに見えたかもしれない。気味の悪い大型のトカゲで済んだかもしれない。
けれど、今の俺にはそれだけで化け物だった。
背中が石みたいにごつごつしている。皮なのか鱗なのか分からないものが、岩の欠片を貼りつけたみたいに盛り上がり、暗がりの中でほとんど洞窟の壁と同じ色をしていた。
あれが壁に張りついていたら、俺には見分けられない。
そう思った瞬間、腹の奥が冷えた。
そいつは洞窟鼠の死骸に近づいた。
舌のようなものが、ちろ、と動く。
俺は、その瞬間まで気づかなかった。
洞窟鼠の死骸は、隠れ場所じゃない。
餌だ。
俺は餌のすぐ横にいた。
トカゲの頭が、ぴたりと止まった。
黒い目が、こちらを向く。
見つかった。
そう思った時には、もう体が動いていた。
考えたわけじゃない。
逃げる。
俺は石のくぼみから飛び出した。飛ぶ、というより転がった。羽が石にぶつかり、爪が滑り、腹を擦りながら必死に前へ出る。
背後で、洞窟鼠の死骸が引きずられる音がした。
次に、石を叩く重い音。
トカゲが追ってくる。
速い。
這うような姿勢なのに、壁でも床でも関係なく進んでくる。四本の足が石に吸いつくように動き、俺が必死に転がる距離を、あいつは一歩で詰めてくる。
俺は鳴いた。
「ぎっ」
短い音が跳ね返る。
前方には細い隙間があり、右側には石の出っ張り、左には広い空間があった。
広い方へ出たら、追いつかれる。
右の隙間は、人間だった頃なら割れ目とも呼ばないような細さだった。けれど今の俺には、そこへ潜り込む以外に生き残る道がなかった。
俺は右へ体をねじ込んだ。
羽がひっかかる。
痛い。
でも止まれない。
トカゲの口が、すぐ後ろで閉じる音がした。
かち、と硬い音。
あれに挟まれたら終わりだ。
俺の体なんて、たぶん一度で噛み砕かれる。
小さな隙間に、無理やり体を押し込む。背中が石に擦れ、羽の端が裂けそうになった。
トカゲの鼻先が、隙間の入口に突っ込まれる。
近い。
冷たくて生臭い息がかかる。
俺はさらに奥へ這った。爪を立て、体を引き、腹を石に削られながら進む。
後ろで、トカゲが壁を掻いた。
石の粉が落ちる。
隙間が少し震えた。
ここにいても、すぐに入口を広げられる。
俺はまた、できるだけ短く、小さく鳴いた。
「ぎ」
音が奥へ抜けた。
隙間の先に空間がある。
狭いけど、抜けられる。
俺は体をねじった。頭を先に入れ、片方の羽を畳み込む。もう片方が引っかかった。
背後で、また牙が鳴った。
かち。
羽の先をかすめた。
冷たいものが走る。
遅れて、羽の端が裂けた痛みが来た。
俺はそのまま隙間の向こうへ落ちた。
水音がした。
ぴちゃん、ではない。
ばしゃ、と薄い水を叩く音。
湿った通路だった。
さっきまでいた場所より、ずっと狭い。床のあちこちに浅い水が溜まり、壁からは細い糸みたいに水が流れている。天井は低く、ところどころに小さなひびが走っていた。
人間だった頃なら、ただの汚い裂け目だ。
でも今は、水があり、足を取られ、魔物が潜み、逃げ道になりそうなひびもある場所に見えた。
俺の体が浅い水に沈む。
冷たい。
羽が重くなる。
最悪だ。
俺は起き上がろうとした。
その時、背後の隙間にトカゲの爪がかかった。
通れない。
体が大きすぎる。
けれど、諦めたわけじゃなかった。鼻先を突っ込み、爪で入口を削っている。
時間がない。
俺は鳴いた。
「ぎ、ぎ」
音が乱れた。
壁から落ちる水、足元で跳ねる水、自分の羽から滴る水が邪魔をする。
全部が反響して、頭の中がぐちゃぐちゃになる。
どこが壁で、どこが穴なのか分からない。
微弱音波。
説明には、周囲の形をおぼろげに把握するとあった。
おぼろげどころじゃない。
返ってくる音が水に乱されて、どこから響いているのか分からなくなる。
俺は水の浅い方へ這った。
音が駄目なら、匂いを探すしかない。
嗅覚という文字が頭をよぎる。
実感は薄い。
でも、因子を得る前より少しだけ、匂いの違いが分かる。
淀んだ水、腐った血、虫の殻、湿った肉のような匂い。
その中に、妙にぬるいものが混じっていた。
足元で何かが動いた。
ぬるりとしたものが、俺の足に触れる。
反射的に振り払おうとした。
遅かった。
細長いものが、足の付け根に吸いついた。
「ぎっ」
痛い。
小さい痛みだった。
でも、嫌な痛みだ。
俺の血が吸われている。
慌てて体を丸める。
そこにいたのは、蛭だった。
黒っぽく、濡れて、ぶよぶよした体。あのトカゲに比べればずっと小さい。人間なら指で摘んで捨てられる大きさかもしれない。
このまま吸われ続けたら、逃げる力までなくなる。
振り払う余裕もない。
少し動きが鈍っただけで、別の魔物に食いつかれる。
ここでは、弱ったものから餌にされる。
俺は歯を食いしばった。
食いしばった、と言っていいのか分からない。細い牙が、勝手にむき出しになる。
俺は蛭に噛みついた。
ぬるい体が潰れる。
口の中に、腐った血みたいな味が広がった。
最悪だった。
洞窟鼠の血より、ずっとひどい。
泥と腐った肉と鉄が、全部混ざっている。
吐きそうになる。
それでも、蛭は離れない。
俺はもう一度噛んだ。
吸うつもりはなかった。
ただ、引き剥がしたかった。
けれど、口の中に入った体液を、喉が勝手に飲み込んだ。
頭の奥に、通知が走る。
――――――――――
血吸い蛭の体液を摂取しました。
――――――――――
嫌な予感がした。
でも、止められない。
――――――――――
固有スキル【因子吸収Lv1】が発動しました。
因子【血吸い蛭因子】を取得しました。
状態【軽度出血】が発生しました。
――――――――――
出血。
やっぱりか。
足の付け根が熱い。蛭を噛み潰したのに、傷口からじわじわ血が滲んでいる。
頭の奥で、続けて通知が鳴った。
――――――――――
経験値を取得しました。
Lvが1から2に上昇しました。
最大HP:5から6に上昇しました。
耐久:1から2に上昇しました。
感知:6から7に上昇しました。
――――――――――
通知が消えるより先に、鼻の奥が変わっていた。
腐った血の匂い、新しい血の匂い、自分の血の匂い。
それらが、前よりはっきり分かる。
――――――――――
因子【血吸い蛭因子】
吸血効率、腐敗耐性、出血感知などが含まれる。
現在の肉体では、一部のみ適応できる。
――――――――――
――――――――――
因子【血吸い蛭因子】の一部が種族特性【嗅覚・最下位Lv1】へ統合されました。
種族特性【嗅覚・最下位Lv1】が【嗅覚・最下位Lv2】へ上昇しました。
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――――――――――
種族特性【嗅覚・最下位Lv2】
近くの匂いを以前より明確に感じ取り、血の新旧や出血した相手の位置を大まかに判別できる。
――――――――――
今の俺に馴染んだのは、出血感知だけらしい。
気持ち悪い。
でも、使える。
そう思ってしまった。
血を吸えば、少し回復する。
でも、血を流せば、別の魔物が寄ってくる。
口の中に残る血の匂いと、傷口から滲む匂いが、鼻の奥で重なった。
喉が鳴る。
嫌なのに、腹の奥が反応した。
背後で、石が砕ける音がした。
トカゲが、まだ入口を削っている。
俺は蛭の残骸を吐き出し、足を引きずって前へ進んだ。
水音で耳は頼りにならない。
代わりに匂いを追ったが、腐った水の匂いが濃い方は蛭が多くて駄目だ。
新しい空気と、乾いた石の匂いを探す。
小さな段差、壁に走る細いひび、天井へ続く出っ張り。
天井把握なんて言葉を思い出す余裕もなく、俺は爪をかけた。
ただ、上に逃げたい。
床にも、水の中にもいたくない。
俺は壁にしがみついた。
滑る。
落ちる。
羽が濡れて重く、足の傷が痛い。
それでも、壁のくぼみに爪をかけ、少しずつ体を持ち上げた。
下で水が揺れ、血吸い蛭が集まっている。
さっき俺が流した血を吸いに来ている。
あのトカゲだけじゃない。
水場の魔物も、岩陰に潜む魔物も。
俺が弱れば、寄ってくる。
俺はようやく、壁のくぼみに体を押し込んだ。
狭いし、暗いし、濡れている。
でも、床よりはましだった。
人間だった頃なら、こんな場所を隠れ家とは呼ばない。石の割れ目に、濡れた体を無理やり詰め込んでいるだけだ。
けれど今の俺には、そこだけが部屋で、逃げ道で、巣だった。
下では水音が続いている。
背後では、トカゲがまだ隙間を掻いていた。
俺は震えながら、口の中に残った腐った味を飲み込んだ。
勝ってない。
何も倒してない。
洞窟鼠の死骸を盗み食いして、トカゲから逃げて、蛭に血を吸われただけだ。
それでも、生きている。
今は、それしかない。
俺より弱い魔物を探さなきゃ、今度は空腹で死ぬ。




