第003話 最初の飢餓
近くで、また石を引っかく音がした。
俺はくぼみの中で体を縮めたまま、返ってくる音に意識を向けた。
水滴の落ちる場所、石の割れ目、遠くで擦れる脚。
さっき漏れた鳴き声が洞窟の壁に当たり、周囲の形をぼんやりと頭の中へ返している。
鳴けば、暗闇の中でも周りが分かる。
でも、鳴けば見つかる。
もう一度試す気にはなれなかった。
這う音は、少しずつ近づいている。
コウモリなら飛べるはずだ。羽があるなら、飛べばいい。
俺は羽を広げようとした。
薄い皮膜が、湿った石に貼りつく。
力を入れた瞬間、右の羽が変な方向へ震えた。
「ぎ」
短い声が漏れる。
痛い、というより、力の入れ方が分からない。
腕を振るつもりで動かすと、羽が折れそうになる。
指を曲げるつもりで力を入れると、皮膜が引きつる。
飛ぶどころじゃない。
俺は羽を広げることすらまともにできなかった。
腹が鳴った。
小さな体の奥で、ぎゅう、と絞られる。
怖さより、そっちの方が強くなっていく。
食いたい。
いや、違う。
食わなきゃ死ぬ。
頭で考えるより先に、体がそう訴えていた。
ステータスにあった【飢餓】という文字が頭をよぎる。
あれは状態異常だった。
ただ腹が空いている、なんてものじゃない。
このまま何もしなければ、俺はまた死ぬ。
もう一度。
今度は、誰にも気づかれずに。
かさ、かさ。
這う音が遠ざかっていく。
俺は少しだけ首を上げた。
目は役に立たない。
でも、匂いがあった。
湿った石、泥、淀んだ水。
それとは別に、鉄のような匂い。
血。
そう分かった瞬間、喉の奥が勝手に鳴った。
気持ち悪い。
そう思った。
思ったのに、口の中に唾が溜まる。
小さな牙が、むずむずと疼いた。
血の匂いは、這う音とは別の方向からしていた。
近い。
石の陰、少し下がった場所。
俺は体を引きずった。
一歩、という感覚じゃない。
羽と足と爪をばらばらに動かして、腹を石に擦りつけながら進む。
爪が滑る。
羽が濡れる。
何度も横に倒れそうになる。
そのたびに、耳の奥で小さな音が跳ね返った。
近づいている。
血の匂いも濃くなる。
石の影に、それはあった。
鼠。
いや、俺の知っている鼠より少し大きい。
体は痩せていて、前歯が妙に目立つ。背中の毛は湿って固まり、腹のあたりには何かに食い破られた裂け傷が残っていた。
動かない。
死んでいる。
死んでいるはずなのに、俺はすぐに近づけなかった。
怖い。
気持ち悪い。
無理だ。
こんなものを食うのか。
高校の教室で、進路希望のプリントを眺めていた自分が、まだどこかに残っていた。
弁当の冷めた唐揚げ、購買の焼きそばパン、ペットボトルの甘い茶。
そんなものが頭をよぎる。
次の瞬間、腹が内側から噛みついてきた。
痛い。
もう、我慢できなかった。
俺は死骸に顔を近づけた。
裂けた傷口から、黒くなりかけた血が滲んでいる。
匂いが濃い。
胃がひっくり返りそうになる。
けれど、口は開いていた。
細い牙が、傷口の端に触れる。
吸え。
体がそう言った。
俺は目を閉じた。
目を閉じても、暗さは変わらない。
それでも見たくなくて、顔を押しつけた。
血が舌に触れた。
ぬるい。
まずい。
鉄臭い。
腐りかけた泥みたいな味がする。
喉が拒んだ。
なのに、次の瞬間、体が吸った。
俺の意思じゃなかった。
喉が動く。
腹が震える。
血が入ってくる。
気持ち悪い。
気持ち悪いのに、体の奥が少しだけ温かくなる。
空っぽだった内側に、何かが落ちていく。
もう一口。
もう一口。
やめろ、と思った。
でも、離れられなかった。
血は多くなかった。
死骸は乾きかけていて、傷口から吸えるものも少ない。
それでも、俺には十分すぎるほどだった。
喉を通るたび、手足の震えがほんの少しだけ弱くなる。
石に押しつけていた羽が、わずかに持ち上がった。
その時、頭の奥に通知が走った。
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洞窟鼠の血液を摂取しました。
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洞窟鼠。
この鼠の名前か。
そう思った直後、続けて通知が来た。
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固有スキル【因子吸収Lv1】が発動しました。
因子【洞窟鼠因子】を取得しました。
HPが微回復しました。
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体の奥で、何かがほどけた。
力が湧いたわけじゃない。
強くなった感じもしない。
ただ、さっきまで体を内側から削っていた飢えが、ほんの少しだけ鈍くなった。
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因子【洞窟鼠因子】
小型獣の嗅覚、齧歯、暗所適応、逃走本能などが含まれる。
現在の肉体では、一部のみ適応できる。
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種族特性【嗅覚・最下位Lv1】を獲得しました。
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種族特性【嗅覚・最下位Lv1】
近くにある匂いを、わずかに嗅ぎ分けられる。
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強くなるための力ではない。
それでも、近づく魔物に先に気づければ、逃げられるかもしれない。
今の俺には、それで十分だった。
洞窟鼠の死骸から顔を離す。
口の周りが濡れていた。
舌で拭う。
その動きがあまりにも自然で、吐き気がこみ上げた。
吐きたかった。
でも、吐けなかった。
吐いたら、せっかく飲み込んだものまで失う。
そう考えてしまった自分が、嫌だった。
遠くで、また何かが這う音がした。
俺は死骸の影に身を寄せる。
さっきより少しだけ、匂いが分かる。
濡れた石。
古い血。
虫の殻。
そして、近づいてくる別の魔物の気配。
俺は息を殺した。
食べた。
血を吸った。
因子を得た。
それでも、俺はまだ食われる側だった。
吐き気より先に、体が喜んでいた。




