第048話 空の縄張り
北の森には、角兎の匂いがいくつも残っていた。
木の根元。
低い茂み。
柔らかい土に掘られた浅い穴。
生きた心音は少ない。
匂いだけが途中で途切れ、足跡もそこで消えている。
地面を走る魔物に襲われたなら、血か毛が残る。
ここには何もなかった。
上へ運ばれている。
枝を渡りながら、何度も鳴く。
木の幹と葉の重なりが返ってくる。
小さな鳥。
幹に張りついた虫。
俺より大きな翼は見つからない。
羽音も、枝が揺れる音もしなかった。
地図の北端まで進んだところで、血の匂いがした。
新しい。
俺は低い枝へ降り、匂いの先を探す。
大きな木の根元に、角兎の後ろ脚が落ちていた。
切れたのではない。
太い爪で引き裂かれたように、肉が四本に分かれている。
血はまだ乾いていない。
牙を立てる前に、周囲へ鳴いた。
何もいない。
もう一度鳴く。
頭上の枝から、柔らかい反響が返った。
葉の塊だと思った。
形が曖昧で、幹と重なっている。
次の瞬間、その塊が枝から離れた。
羽音はなかった。
背中へ冷たい風が触れる。
振り向くより先に、太い爪が右の翼を掴んだ。
体が枝から引き剥がされる。
爪が翼膜へ食い込み、夜空へ持ち上げられた。
大きな翼が視界を塞ぐ。
――――――――――
名称:夜狩り梟
種族:梟型魔物
種族ランク:C
――――――――――
俺と同じ種族ランク。
だが、体は二回り以上大きい。
丸い頭に並んだ眼が、真下にいる俺を見ている。
嘴が開いた。
首へ届く前に音撃を放つ。
音が羽毛へぶつかり、左右へ散った。
洞窟の壁へ当てた時のように返ってこない。
夜狩り梟の頭は揺れたが、爪は外れなかった。
嘴が肩へ来る。
俺は体を丸め、掴んでいる脚へ牙を立てた。
硬い鱗の隙間へ牙が入る。
血が出た。
吸う前に、夜狩り梟が脚を振る。
爪から外れた体が、木々の上へ投げ出された。
翼を開く。
右の翼に四本の傷が走っている。
飛べる。
だが、羽ばたくたび血が散った。
背後から風だけが近づく。
振り返っても、夜狩り梟の羽は動いているように見えない。
それでも距離が縮まる。
広い空では追いつかれる。
俺は木々の間へ落ちた。
枝を避け、幹の横を抜ける。
進化して体が大きくなった分、前より狭い。
右の翼が細い枝へ当たった。
痛みで体が傾く。
夜狩り梟の爪が、すぐ後ろの枝を折った。
低く鳴く。
枝の形は返ってくる。
追ってくる相手だけが、柔らかく滲んでいた。
音を吸っている。
見えないわけではない。
だが、距離が分かる頃には近すぎる。
俺は地面すれすれまで下りた。
太い根の間に、獣が通る隙間がある。
翼を畳み、体を横へする。
肩が根へ擦れた。
血牙魔蝙蝠になった体でも、ぎりぎり通れる。
背後で木が裂けた。
夜狩り梟の片翼が根へ当たり、土が落ちる。
爪だけが隙間へ入ってきた。
俺は奥へ逃げず、爪の横へ噛みついた。
さっき傷つけた脚ではない。
牙は鱗を滑り、肉まで届かなかった。
太い爪が頭の横を掠める。
毛が抜け、皮が裂けた。
もう一度来る前に、奥へ体を押し込む。
根の隙間は反対側へ抜けていた。
地面へ出て、低い茂みの下を進む。
夜狩り梟は根を回り込まず、木の上へ戻った。
羽音は聞こえない。
熱も、厚い羽毛の奥で弱い。
俺はその場で動かなかった。
右の翼から血が落ちる。
体内に蓄えた赤角猪の血へ意識を向ける。
傷口が熱くなった。
流れていた血が細くなり、裂けた皮がゆっくり寄る。
痛みは消えない。
爪痕も残っている。
止血するだけで、腹の中にあった熱が減った。
何度でも使える力ではない。
頭上で、枝が一度だけ揺れた。
夜狩り梟の熱が遠ざかる。
追う代わりに、さっき落ちていた角兎の脚を掴んだ。
自分の獲物を拾い直したらしい。
そのまま北へ飛んでいく。
羽音は最後までしなかった。
俺は茂みの下から出る。
右の翼は動くが、強く開けば傷がまた裂ける。
角兎の血の匂いと、牙を立てた脚から落ちた梟の血。
二つの匂いが、同じ方角へ続いていた。
集落へ戻って場所を伝えるだけなら、もう十分だった。
それでも、夜狩り梟の血を追って北へ進む。
落ちているのは数滴だけだったが、嗅覚が見失わない。
木の上を進む。
飛べば見つかる。
爪で幹を上り、枝から枝へ移った。
血の匂いは、森の北側にある岩場で途切れた。
白い石の柱が何本も地面から突き出し、その間に背の高い枯れ木がある。
根元には、角兎の骨が積もっていた。
新しいものだけではない。
雨に洗われて白くなった頭蓋骨。
毛が残った脚。
黒い塊になった羽。
あの大梟は、最近ここへ来たわけではない。
枯れ木の上へ鳴く。
太い枝の間に、大きな窪みが返ってきた。
巣かもしれない。
中に動くものはない。
夜狩り梟も戻っていなかった。
周囲の木には、太い爪痕がいくつも残っている。
北の森だけではない。
岩場から谷と風穴の近くまで、夜空を広く使っている。
俺が地上へ出た夜も、見られていた可能性がある。
ガレオに追われていた時は襲わなかった。
傷つき、一匹になったところで来た。
獲物が弱るまで待てる魔物だ。
俺は枯れ木へ近づかなかった。
右の翼から落ちた自分の血も、ここまで続いている。
今夜戻らなくても、次は向こうから探しに来る。
匂いを覚えられたのは、俺も同じだった。
岩場の位置を覚え、来た道を戻る。
集落の外にある小屋では、ゴルナがまだ起きていた。
机の上に、蓋をした小さな壺が置かれている。
俺が梁へ降りると、ゴルナは右の翼を見た。
「見るだけにしては、派手にやられたね」
『見つけた』
「何だった」
『大きな梟。北の岩場』
短い一文なら、途中で崩れない。
ゴルナは翼の札を一枚、机の端へ動かした。
「夜狩り梟だ。前にも来たことがある」
「十年以上前」
小屋の外からフィナが入ってくる。
片手に炭と獣皮の地図を持っていた。
「その時は?」
「角兎を食い尽くして、勝手に西へ移った」
ゴルナが答える。
「こっちから狩りには行ってない。空を飛ぶやつへ槍は届かないからね」
フィナが地図を広げる。
俺は北の岩場を爪で示した。
枯れ木と、周囲の石柱。
そこから谷へ伸びる狩りの範囲。
フィナが炭で印を足していく。
「近い」
「だから檻まで来たんだろう」
ゴルナは机の壺を俺の方へ押した。
「赤角猪から取った分だ。お前が戻らなければ捨てるところだった」
蓋を開ける。
中には、まだ腐っていない血が入っていた。
森で吸った時より冷たい。
それでも喉が動く。
壺へ口を入れ、血を飲んだ。
右の翼に熱が集まる。
再生へ回すと、傷口が少しずつ塞がった。
壺の血は減っていく。
全部飲み終えた時、四本あった爪痕のうち、浅い二本は閉じていた。
深い二本は残っている。
飛べるが、戦えばまた開く。
「血を飲めば、すぐ治るのか」
フィナが翼を見ている。
『浅い傷だけ』
「じゃあ、今夜は戻る?」
俺は地図の北側を見る。
夜狩り梟の巣。
音を散らす羽。
俺より広い狩場。
ここで退けば、次に風穴を出た時も頭上を探し続けることになる。
集落のために殺す必要はない。
だが、地上を俺の狩場にするなら、あの翼は邪魔だった。
『倒す』
ゴルナが壺を取り上げる。
「頼んだのは場所までだよ」
『俺が欲しい』
「何を」
『血と空』
フィナが地図から顔を上げた。
ゴルナは笑わなかった。
「なら、これは別の取引だ」
机へ羽の印がある札を置く。
「血はミナト。羽と肉はこっち。罠を作るなら、フィナを出す」
「私?」
「赤角猪の縄を切られただろ。次は切られないものを考えな」
フィナは不満そうに耳を伏せたが、断らなかった。
『レグは』
「脚を休ませてる。空の相手に槍を振っても届かない」
それでいい。
同じ三人で戦う必要はない。
フィナは地図を畳み、俺の金属線を見る。
「あれは枝の間を飛ぶ。翼を広げられない場所へ落とせれば、爪が届く」
『音を吸う』
「じゃあ、音で倒そうとしない」
フィナは炭を置き、代わりに細い縄を机へ並べ始めた。
俺は梁から下り、金属線の端を爪で押さえた。
結び方を決めるだけで、夜が少しずつ減っていった。




