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最弱コウモリ幼体に転生したので、血を吸って進化する  作者: HATENA 
第4章 血牙と地上の夜

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第047話 ミナト

 黒巣を出る前に、自分の翼へ牙を当てた。


 傷つけるほど強くは噛まない。


 牙の先へ、体の中にある血を集める。


 すぐには何も起きなかった。


 もう一度、意識する。


 自分の血。


 出す。


 牙の根元から赤い滴が一つ滲んだ。


 滴は落ちず、牙の先で震えている。


 右へ動かそうとすると、少しだけ形が伸びた。


 それだけで頭の奥が重くなる。


 血は糸にも刃にもならず、牙を離れて床へ落ちた。


 できたのは、血を一滴出しただけだった。


 それでも、前は自分の血を動かそうと考えることすらできなかった。


 床の滴を舐め取り、黒巣を出る。


 広い通路なら、進化した体でも飛べた。


 一度の羽ばたきで進む距離が長い。


 爪をかけた時、石へ入る深さも違う。


 代わりに、曲がるたび翼の端が壁へ近づいた。


 以前なら抜けられた横穴のいくつかは、頭も入らない。


 逃げ道を覚え直す必要がある。


 風穴は通れた。


 腹を擦るほどではないが、翼は広げられない。


 爪で進み、外へ出る。


 夜の風が新しい翼膜へ当たった。


 左も右も、同じように動く。


 血の匂いはしない。


 進化前の傷は、もうどこにも残っていなかった。


 石の印は、また積まれている。


 今度は尖った石が縦に置かれていた。


 近くにいるという意味かもしれない。


 森へ向けて鳴く。


 二つの体が、少し離れた岩陰にいた。


 レグとフィナ。


 俺が枝へ降りた瞬間、レグの槍が上がった。


「下がれ」


 フィナの前へ出る。


 俺は動かなかった。


 進化前なら、レグの胸よりずっと小さかった。


 今は翼を畳んでも、幼いコボルトくらいの幅がある。


 牙も口の外へ少し見えている。


「待って」


 フィナが鼻を動かした。


「血の匂いが同じ」

「赤角猪を食った別のやつかもしれない」

「あの金属線の匂いもする」


 俺は爪に巻いていた線を枝から下ろした。


 昨日使ったものだ。


『同じだ』


 レグの耳が立つ。


 フィナが俺を見上げた。


「昨日の?」


『進化した』


 今度は、二つの意味が途切れずに届いた。


 頭の重さも前より小さい。


 レグは槍を下ろさなかった。


「進化したから、昨日の取引は終わりか」


『終わっていない』


 返すと、レグが少しだけ槍先を下げた。


 完全には離さない。


「言葉、増えたね」


 フィナが言った。


「前は名前も送れなかった」


 竜骨の分かれ道へ向かう途中、聞かれたことを思い出す。


 あの時は、黒瀬湊という名前を頭に浮かべても、意味にできなかった。


 今なら送れる。


 けれど、黒瀬という姓まで渡す気にはならなかった。


 教室に残った体と一緒に、あの名前も遠くなっている。


 それでも、全部捨てたわけではない。


『ミナト』


 フィナが瞬きをした。


「それが名前?」


 俺は一度鳴く。


「ミナト」


 フィナが確かめるように繰り返した。


 異世界の森で、自分以外の口からその名前が出る。


 懐かしいとは思わなかった。


 ただ、聞き慣れた音より少し硬く聞こえた。


「俺はレグだ」


 レグが言う。


「昨日から知ってるかもしれないが、こっちがフィナ」

「自分で言える」

「先に言っただけだ」

「私はフィナ」


 二人の名前は、もう知っている。


 それでも、今初めて渡された気がした。


『知っている』


 送ると、フィナが少し笑った。


「やっぱり聞いてた」

「どこからだ」


『洞窟』


「広すぎる」


 レグは周囲を見たが、答えを探すのを諦めた。


 フィナが積んだ石へ近づく。


「この向きは、ここで待つって意味」


 尖った石を横へ倒す。


「横なら、向いた方へ来て」


 石を二つ並べる。


「二つなら、近くに危ない魔物がいる」


『分かった』


「こっちが呼ぶ印だけじゃなくて、ミナトも使っていい」


 レグがフィナを見る。


「集落へ近すぎる場所には置くな」

「分かってる」


 俺は森の奥へ顔を向けた。


 血と土の匂いに、コボルトが何度も通った道が混じっている。


 黒骨洞以外の道は、まだほとんど知らない。


『夜の道を知りたい』


 フィナの顔から笑いが消えた。


 レグと短く目を合わせる。


「集落の中へは入れられない」


『入らない』


「外の取引場所までなら」


 レグが槍を肩へ戻した。


「明日の夜、ここから案内する。来るかどうかは、そっちで決めろ」


 二人は森の奥へ戻っていった。


 フィナが一度だけ振り返る。


「また明日、ミナト」


 返事を送ろうとして、やめた。


 名前を呼ばれた後の言葉が、すぐには決まらなかった。


 次の夜、石の印は横を向いていた。


 レグとフィナは、森の中で待っている。


 俺が枝へ降りると、二人はすぐに歩き始めた。


「集落には近づきすぎるな」


 レグが前を向いたまま言う。


『分かっている』


「見える場所までは連れていく」


 フィナが後ろから付け足した。


「隠しても、匂いで分かると思うから」


 森の道は、風穴から離れるほど細くなった。


 人間の靴跡はない。


 代わりに、爪の跡と小さな荷車の轍が残っている。


 木へ刻まれた印。


 雨水を逃がすために掘られた浅い溝。


 折れた枝へ巻かれた布。


 獣道に見えても、誰かが使い続けている道だった。


 しばらく進むと、煙の匂いがした。


 肉を焼く匂い。


 濡れた毛。


 薬草と灰。


 木々の向こうに、低い柵が見える。


 丸太と石を組み合わせた壁が、谷の狭いところを塞いでいた。


 壁の内側では火が揺れている。


 子供の声が聞こえ、すぐに大人の声で静かになった。


 俺は枝の上で止まった。


 レグも振り返る。


「ここまでだ」


 集落へ続く道の横に、屋根だけが残った石造りの小屋がある。


 壁は半分崩れ、中には古い机と切り株が置かれていた。


 取引をするために、使っているらしい。


 小屋の前には、知らないコボルトが一人いた。


 フィナより頭一つ低いが、体は太い。


 左耳の先がなく、腰には短い鉈を差している。


 煙と干し肉の匂いが強かった。


「それか」


 女のコボルトが俺を見上げる。


「前より大きくなってるじゃないか」

「進化した」


 フィナが答えた。


「昨日の夜までは、もっと小さかった」

「一晩で?」

「たぶん」

「見てないのかい」

「見せると思う?」


 女は鼻を鳴らした。


「ゴルナだ。夜番と食料庫を預かってる」


 自己紹介より先に、俺の牙を見る。


「こっちの言葉は」


『分かる』


 ゴルナの耳が少し動いた。


「喋れるなら早い。うちの者を食うかい」


 レグが横から口を挟もうとしたが、ゴルナが手で止めた。


 俺は柵の内側から聞こえる心音へ意識を向ける。


 多い。


 小さなものもいる。


 襲えば、血は手に入る。


 その後は、集落全部が敵になる。


『襲われなければ食わない』


 ゴルナはしばらく黙った。


「安心できる言い方じゃないね」


『嘘は言っていない』


「それは分かる」


 ゴルナは切り株へ腰を下ろした。


「だから、ここで話してる」


 レグとフィナも小屋へ入る。


 俺は屋根の残った梁へ爪をかけた。


 ゴルナが机へ小さな木札を三枚置く。


 一枚には角。


 一枚には牙。


 最後の一枚には、翼の印が彫られている。


「赤角猪の肉は、集落で分けた。角は刃物と交換する」


 角の札をレグへ渡す。


「牙の札は、こっちが狩った獲物」


 次に、翼の札を俺の方へ押した。


「ミナトが先に見つけた危険な魔物だ」


 フィナが俺の名前を伝えていたらしい。


『札は使えない』


 俺には持ち歩く袋も手もない。


「知ってるよ。数えるのはこっちだ」


 ゴルナは翼の札を自分の前へ戻した。


「うちが獲物を狩った時、ここへ運ぶ。ミナトが先に血を吸い、その後で肉を持ち帰る」


『生命力は残す』


「そうしてくれ。干し肉にならないほど痩せたら、次はない」

「その代わり」


 フィナが森の地図を机へ広げる。


 獣皮へ炭で道が描かれていた。


 風穴。


 谷。


 水場。


 集落。


 さらに北へ続く線は、途中で途切れている。


「夜に見つけた魔物と、通れる道を教えてほしい」


『俺にも道を教える』


「全部は教えない」


 レグが言った。


「集落へ直接つながる道と、子供が使う採取場は隠す」


『それでいい』


 俺も黒巣へ続く道を全部教えるつもりはない。


 ゴルナが獣皮の北側を爪で叩いた。


「まずは、あの辺りを見てほしい」


 木々の印が密集した場所。


「三日前から、夜になると角兎の檻が荒らされる。昨日は見張りの頭すれすれを何かが通った」

「羽音は聞こえなかった」


 フィナが言う。


「影だけ。翼は、ミナトより大きかった」


『倒せと?』


「見つけて、どこから来るか教えてくれればいい」


 ゴルナは翼の札を裏返す。


「倒せるなら、その後で値段を決める。先に命を賭けろとは言わない」


 俺は地図の北側を見る。


 地上の道。


 血。


 まだ見たことのない、俺より大きな翼。


『見るだけ』


「それでいい」


 ゴルナが立ち上がる。


 話は終わりらしい。


 柵の方から、小さな顔が一つだけ覗いた。


 すぐ後ろから伸びた手に引かれ、見えなくなる。


 扉の閉じる音がした。


 俺は梁から飛ぶ。


 集落の火へは向かわず、地図で示された北の森へ進んだ。


 背後で、ゴルナが低く言う。


「本当に行ったね」

「取引したから」


 フィナの返事が、木々の間を少しだけ追ってきた。

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