第045話 血と肉の分け前
風穴の手前に、前はなかった石が積まれていた。
平たい石が二つ。
その上に、先の尖った小石が一本だけ横を向いている。
自然に崩れた形ではない。
近づく前に低く鳴く。
石の陰にも、風穴の外にも、動くものはなかった。
それでも、積まれた石からは覚えのある匂いがする。
コボルトの毛。
土と薬草。
針尾オロチと戦った時に嗅いだ、フィナの匂いだった。
尖った石が向いている方へ進む。
外から入る風が強くなり、木の葉が擦れる音が聞こえてきた。
風穴を出る直前で止まる。
森の暗がりに、二つの体温があった。
「来た」
フィナの声がする。
「まだ出るな」
レグが小さく言った。
二人は離れた木の根元にいる。
レグは槍を持っていたが、穂先をこちらへ向けてはいない。
傷ついていた脚には厚く布が巻かれている。
歩けるようにはなったらしい。
俺は風穴の縁へ爪をかけたまま、外へ出なかった。
「あの石、分かった?」
フィナが積まれた石の方を指した。
答えようとして、喉からは短い鳴き声しか出ない。
魔力を押し出す。
『分かった』
二人が同時に耳を動かした。
言葉を送れたと思ったが、フィナは首を傾げる。
「分かった、で合ってる?」
俺は一度だけ鳴いた。
「たぶん合ってる」
「たぶんで話を進めるな」
レグはそう言いながら、槍を地面へ置いた。
置くだけで、手は離していない。
「取引がある」
フィナが足元の土へ指を入れ、簡単な線を描く。
森。
風穴。
その間にある、曲がった角のような印。
「ここに赤角猪がいる」
初めて聞く名前だった。
フィナが土へ描いた角の形だけでは、大きさまでは分からない。
「あれが谷へ下りる道を使ってる。見張りが二人、もう追い返された」
「怪我だけで済んだ」
レグが付け加える。
「次もそうとは限らない」
フィナは土へ描いた角を指で潰した。
「私たちは道が欲しい。肉も、角も欲しい」
俺は二人を見る。
レグの脚はまだ完全には動いていない。
フィナの腰には投げ縄と短い刃がある。
二人だけで狩るつもりなら、俺を待つ必要はない。
『俺は』
そこまで送ったところで、頭の奥が重くなった。
二つ以上の意味を続けると、うまく形にならない。
フィナが少し考え、腰の水筒を指した。
「血が欲しい?」
『血』
「血は全部そっちでいい」
レグが横を向いた。
「生命力まで吸い切るな。肉が痩せる」
「じゃあ、肉が悪くならないところまで」
「こいつが分かるのか」
フィナは俺を見る。
「分かる?」
血を全部吸い切る必要はない。
俺に必要なのは、強い魔物の新しい血と、次の進化へ足りないものだ。
一度鳴く。
「分かるって」
「今の一回で、よくそこまで信用できるな」
「信用してない。決めることを少なくしてるだけ」
レグは黙った。
フィナが土へ三本の線を引く。
「私が道を狭める。兄さんが正面を止める。あなたは上から血を吸う」
「止めきれなかったら逃げろ」
レグの声は俺へ向いていた。
「俺たちを助けるために残るな。お前が逃げれば、あいつはそっちを追う」
囮になれという意味でもある。
俺も、二人が動けなくなれば置いていく。
その方が分かりやすかった。
『取引』
今度は、はっきり届いた。
フィナが土の線を手で消す。
「夜が深くなったら行く」
「その翼で飛べるのか」
レグが左の翼を見ている。
端の裂け目は塞がったが、強く動かせばまだ痛む。
俺は風穴から外へ出た。
低い枝まで飛び、爪をかける。
翼は開いた。
着地した時、左側だけ少し下がった。
レグは何も言わなかった。
フィナは見ていたが、できるとも無理とも決めなかった。
「先に、見るだけ」
そう言って森の奥へ歩き出す。
俺は二人の後ろではなく、木の上を並んで進んだ。
赤角猪は、谷へ下りる獣道の途中にいた。
倒れた木の根を、赤い角で掘り返している。
体はガレオより低いが、横に太い。
首から背中へ黒い毛が立ち、前へ曲がった角には乾いた土がついていた。
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名称:赤角猪
種族:猪型魔物
種族ランク:D
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フィナが片手を上げた。
俺とレグが止まる。
三人とも風下にいる。
赤角猪はまだこちらを見ていない。
獣道の先は、二本の太い木の間を通って谷へ続いていた。
フィナは片方の根元へ縄を回し、反対側を低い茂みの中へ隠す。
輪は地面へ置かれている。
踏めば前脚へかかるが、あの重さを止められるほど太くはない。
「倒す罠じゃない」
フィナが声を落とす。
「一歩ずらせればいい」
俺は持ってきた金属線を、縄より少し先へ張った。
ガレオのように指では結べない。
木の根へ何度も巻き、最後は牙で捻る。
低い位置なら、赤角猪の前脚へ当たる。
「それ、あの人間の?」
フィナが聞いた。
俺は答えなかった。
送れる言葉が少ない。
何を送っても、ガレオを殺したところから話さなければならなくなる。
レグは線を見ただけで、獣道の横にある太い木へ移った。
槍を構え、傷ついた脚を後ろへ引く。
「正面には立たない」
「分かってる」
「前もそう言った」
「兄さんは、今日は囮じゃなくて横から刺す役」
「分かってる」
同じ返事が続き、フィナがそれ以上言うのをやめた。
俺は枝を伝い、赤角猪の後ろへ回る。
森では音が散る。
低く鳴いても、洞窟ほど形は返ってこない。
それでも、木の位置と赤角猪の大きさは分かる。
熱感知には、腹と首の血が赤く見えた。
太い。
あれだけあれば、途中で離しても肉に残せる。
赤角猪が根を持ち上げた。
土の中から白い幼虫がこぼれる。
それを食おうと頭を下げる。
俺は枝から飛んだ。
左の翼が痛む。
落ちる角度が少しずれたが、背中へ爪が届いた。
黒い毛の下へ爪を沈める。
赤角猪が体を震わせた。
振り落とされる前に、耳の付け根へ牙を立てる。
皮が厚い。
一度では通らず、首を振られて体が横へ流れる。
爪を立て直し、同じ場所を噛んだ。
温かい血が口へ入る。
赤角猪が吠えた。
背中ごと近くの木へぶつかってくる。
俺は牙を抜き、上へ逃げた。
木の幹と角がぶつかり、皮が削れる。
赤角猪は俺を見失わなかった。
枝の下を走り、頭を上げる。
角が届く前に次の木へ飛ぶ。
獣道へ向けて誘うつもりだったが、赤角猪は途中で止まった。
鼻を鳴らし、風下にいるレグの方へ顔を向ける。
血より先に、隠れている相手の匂いを拾った。
「来るぞ」
レグが木の陰で槍を握り直す。
赤角猪が地面を蹴った。
速い。
太い体が茂みを押し潰し、真っ直ぐレグへ向かう。
俺は横から音撃をぶつけた。
赤角猪の頭が揺れ、前脚の向きが少しずれる。
その一歩が、地面の輪へ入った。
フィナが縄を引く。
輪が締まり、片方の前脚を取った。
赤角猪は止まらない。
縄が張り、フィナの体が地面を滑る。
「兄さん!」
レグは逃げず、木の横から槍を突き出した。
穂先が赤角猪の肩へ入る。
深くは刺さらない。
赤角猪が首を振り、角で槍の柄を跳ね上げた。
レグの手から槍が外れる。
次の瞬間、縄が切れた。
赤角猪が自由になる。
レグとの間には、もう木一本しかない。
俺は上から落ちた。
背中ではなく、片方の眼へ爪を振るう。
爪先がまぶたを裂いた。
赤角猪が顔を上げ、角が腹の下を通る。
風だけで体が持ち上がった。
右の翼を開き、角の外へ逃れる。
左の翼が遅れ、着地できずに地面を転がった。
赤角猪がこちらへ向きを変える。
片眼から血を流しながら、また地面を蹴った。
その前脚が金属線へ触れる。
線は切れなかった。
根元へ巻いた部分が張り、前脚を横へ払う。
赤角猪の胸が地面へ落ちた。
土が跳ねる。
レグが落とした槍を拾い、倒れた首の横へ突き立てた。
赤角猪はすぐに起き上がる。
槍ごと体を振り、レグを押し退けた。
それでも、首には新しい傷が開いている。
俺はそこへ噛みついた。
血が一気に流れ込んでくる。
さっき耳から吸った時より多い。
赤角猪の力が、牙の間から入ってきた。
体が持ち上がる。
振り落とされそうになり、爪を首の毛へ食い込ませる。
離れない。
吸う。
赤角猪は立ち上がったが、前脚が一度崩れた。
それでも進もうとする。
レグへではない。
森の奥へ逃げようとしていた。
フィナが切れた縄を投げ、後ろ脚へ絡める。
「兄さん、槍!」
レグは首へ刺さった槍を両手で掴んだ。
抜かずに、そのまま体重をかける。
赤角猪の足が止まった。
心音が耳元で鳴っている。
強く、速い。
吸うたび、間が少しずつ長くなる。
やがて前脚が折れ、巨体が横へ倒れた。
牙は抜かなかった。
土へ落ちても、血はまだ流れてくる。
喉の渇きが消えていく。
腹が満ちても、もっと入った。
「待って」
フィナの声が聞こえた。
肉に残す血。
取引。
俺は吸う力を弱めた。
すぐには止まらない。
意識して舌を離し、最後に牙を抜く。
赤角猪の心音は消えていたが、体にはまだ温かい血が残っている。
レグが槍から手を離し、地面へ座った。
「全部は抜いてないな」
『約束』
フィナが俺を見た。
レグも顔を上げる。
今の意味は、一度で届いた。
「うん。約束」
フィナはそう言ってから、赤角猪の傷を確かめ始めた。
俺は口元についた血を舐める。
強い血だった。
ガレオの血とは違う。
熱と、重い力が腹の中へ残っている。
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赤角猪を討伐しました。
経験値を取得しました。
Lvが23から25に上昇しました。
最大HP:95から103に上昇しました。
最大MP:35から38に上昇しました。
筋力:38から43に上昇しました。
耐久:45から50に上昇しました。
敏捷:68から73に上昇しました。
感知:75から80に上昇しました。
魔力:33から35に上昇しました。
器用:40から43に上昇しました。
精神:38から40に上昇しました。
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種族特性【吸血Lv3】の熟練度が一定値に達しました。
種族特性【吸血Lv3】が【吸血Lv4】へ上昇しました。
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固有スキル【因子吸収Lv1】が発動しました。
因子【赤角猪因子】を取得しました。
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因子【赤角猪因子】
筋力、突進、硬皮、強い心肺などが含まれる。
現在の肉体では、まだ適応できない。
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【血牙魔蝙蝠】への進化条件をすべて満たしました。
安全な場所で進化できます。
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通知が消えても、赤角猪の血の熱は残っていた。
フィナは角の根元へ刃を入れ、レグは切れた縄を結び直している。
俺の前には、二人が触れずに残した首の傷があった。
まだ血はある。
だが、今はもう吸わなかった。




