第040話 人間の道具
酸の空洞へ入る前に、左の翼がまた石へ触れた。
傷から血が滲む。
広げれば裂け、畳みすぎても傷口が擦れる。
吸血しなければ、出血は止まりそうになかった。
空洞の水際には、アシッドスライムが何匹もいる。
あれを吸っても、血は取れない。
別の心音を探す。
ガレオの足音は水路の途中にあり、まだ少し距離がある。
壁際の乾いた石の下から、小さな鼓動が返ってきた。
俺は低く飛び、石の隙間へ爪を入れる。
中にいた洞窟鼠が飛び出した。
水場へ逃げる前に、背中へ落ちる。
左の翼は使えない。
右の翼と脚で体を押さえ、首へ牙を立てた。
温かい血が喉へ入る。
洞窟鼠の脚が石を蹴った。
音が空洞へ響く。
ガレオにも聞こえたはずだ。
急いで吸う。
血が入るほど、傷口の熱が弱くなった。
裂けた羽膜は戻らない。
それでも、流れ続けていた血は細くなる。
俺は洞窟鼠を咥えたまま、水際へ移った。
背中と翼についた追跡粉を、死骸の毛へ擦りつける。
乾いた草の匂いが移るまで、何度も体を押し当てた。
自分の血も、傷口から少し垂らす。
死骸には、俺と同じ匂いがついた。
空洞の端には、細い水の流れがある。
アシッドスライムがいない場所を選び、死骸を落とした。
軽い体が水に押され、奥の低い穴へ流れていく。
俺は反対側の壁を上った。
血の匂いと追跡粉は、水路の奥へ進む。
ガレオの灯りが空洞へ入った。
俺は天井近くの窪みに体を押し込む。
男はすぐに水際へ寄らなかった。
床を照らし、スライムの位置を一匹ずつ確かめる。
「酸か」
小石を拾い、水際へ投げた。
アシッドスライムが石へ寄り、表面を溶かし始める。
ガレオは空いている場所だけを選んで進んだ。
灯りが、水に流れる洞窟鼠を捉える。
追跡粉と、俺の血がついた死骸。
ガレオは弓を上げたまま、しばらく見ていた。
やがて水路へ向かう。
気づいていない。
そう思った時、男が足を止めた。
「軽すぎる」
流れる死骸を追わず、周囲へ灯りを向ける。
俺は動かなかった。
心臓の音まで抑えようとして、胸が苦しくなる。
ガレオの灯りが天井を横切った。
窪みの少し下で止まる。
見つかったかと思ったが、男の目は壁へ張られた細い金属線を見ていた。
いつ置いたのか分からない。
水路へ入る相手の動きを知るため、ガレオが通り際に張ったらしい。
片方は壁の突起へ結ばれ、もう片方は小さな金属片へつながっている。
触れれば、音が鳴る。
俺は線の位置を覚えた。
ガレオはもう一つ同じ仕掛けを作り、空洞の入口へ置いた。
俺が戻れば、どちらかが鳴る。
流れる死骸と、隠れている俺の両方を待つつもりだ。
このままでは、動けない。
左の翼はまだ飛べるほど閉じていない。
音撃を使えば居場所が分かる。
俺は天井の窪みから、すぐ近くの糸へ爪を伸ばした。
金属線は細いが、灰糸蜘蛛の糸より硬い。
爪だけでは切れそうにない。
壁へ固定された結び目を、少しずつ緩める。
ガレオは水路を見たまま動かない。
一度、指が線へ触れた。
小さな金属片が揺れる。
音が出る前に、爪で押さえた。
ガレオが振り返る。
俺は息を止めた。
男は入口の仕掛けを見てから、また水路へ目を戻す。
結び目が外れた。
線と金属片を爪で掴む。
そのまま、窪みの奥へ引き込んだ。
一つは奪った。
もう一つは入口に残っている。
俺は金属線を咥え、窪みの奥にある細い亀裂へ入った。
魔蝙蝠になった体では狭い。
翼を傷つけないよう横へ向き、腹を石に擦りながら進む。
背後で、ガレオの声がした。
「上か」
金属片がなくなったことに気づいた。
灯りが天井へ向く前に、亀裂の奥へ体を押し込んだ。
出口は、古い水路の上へつながっている。
飛べなくても、壁を伝えば進める。
口の中で、奪った金属線が硬く鳴った。
黒巣の糸とは違い、細いのに爪で引いても伸びない。
強く曲げると形が残り、端を輪へ通せば簡単には戻らなかった。
ガレオは、この線と金属片だけで、離れた場所の動きを知ろうとした。
俺は古い水路の上にある乾いた亀裂で、何度か線を結び直した。
人間だった頃に、こんな罠を作ったことはない。
結び方も知らない。
それでも、フィナが石へ描いた線と、黒巣に張られていた糸を思い出す。
相手がどこへ足を置くか。
触れた後、何を動かすか。
考えることは同じだった。
金属片をぶら下げ、線の端を爪で引く。
小さな音が鳴った。
強く引けば、もっと大きく鳴る。
音を出す以外にも使える。
線の先に石を結び、石の突起へ回して吊り上げる。
輪の中へ細い骨を入れると、石はそこで止まった。
骨を抜くと、石の重さで線が勢いよく走る。
爪の横を通り、石を叩いた。
当たれば、俺の薄い翼なら裂ける。
人間の足を切れるほどではなくても、引っかけることはできる。
ガレオの足音が近づいていた。
亀裂を通れない男は、下の水路を回ってくる。
このまま逃げれば、また血と粉を追われる。
傷が塞がるまで黒巣へ戻れず、外へ出る道も使えない。
追跡を外しても、あいつは罠を置いて待つ。
逃げる場所を変えるだけでは終わらない。
俺は亀裂を出て、黒巣とは反対にある古い回廊へ向かった。
母蜘蛛の巣ほど広くはない。
天井から細い石柱が何本も下がり、人間が通れる道は中央にしかない。
左右の隙間は、俺なら抜けられる。
弓を引ける距離は短い。
音撃も、森よりは逃げずに届く。
ここなら、追われる場所ではなく、待つ場所にできる。
入口近くへ金属線を張る。
低すぎれば見つかる。
高すぎれば脚に当たらない。
何度か位置を変え、線の一端を小さな骨へつないだ。
骨の上には、崩れかけた石を三つ置く。
線へ足が触れれば、石が落ちる。
人間を潰すほど重くはない。
それでも音と砂埃は出る。
その間に近づける。
俺は奥の石柱へ掴まり、ガレオを待った。
左の翼は、吸った血のおかげで出血が止まっている。
飛べるほど治ってはいない。
片方の翼だけで落ちる場所を変え、爪で石柱を渡るしかない。
灯りが回廊へ近づく。
ガレオは入口の前で止まった。
すぐには入ってこない。
覆いの隙間を広げ、奥まで光を送る。
俺の姿は石柱の影に隠れている。
男は床を見る。
壁を見る。
最後に、天井から下がる石柱を見た。
「狭いな」
弓を背へ戻し、短い槍を抜いた。
罠へは気づいていない。
一歩入る。
もう一歩。
足が金属線の手前で止まった。
ガレオは槍の穂先を下げ、床の砂を払う。
細い線が光った。
「返してもらったか」
線を切らない。
ガレオはその場で後ろへ下がった。
入口の外へ戻り、灯りを消す。
足音が遠ざかり始める。
罠を見つけたから、別の道を探すのか。
それとも、諦めて外へ戻るのか。
俺は石柱の影から動かなかった。
追ってこなくなるなら、それでいい。
黒巣も、風穴も守れる。
だが、ガレオは俺の匂いも、巣があることも知った。
森には、あいつが置いた罠がある。
今日帰っても、次はもっと多くの道具を持ってくるかもしれない。
足音が、さらに遠くなる。
逃がせば終わるとは思えなかった。
俺は石柱から下りた。
張った線を外し、口へ咥える。
片方の翼を畳んだまま、ガレオの灯りが消えた道へ進んだ。
狩場を選び直したのは、俺だけじゃない。
あいつも、俺を広い場所へ連れ出そうとしている。
ガレオの足音は、上へ続く広い道へ向かっていた。
急いではいない。
時々止まり、何かを石へ置く音がする。
追う側になっても、近づけばまた矢が来る。
俺は姿が見えない距離を保った。
左の翼は畳んだまま、壁と天井を爪で渡る。
歩くより遅い。
それでも、ガレオの灯りは遠ざからなかった。
俺がついてくることを確かめながら進んでいる。
最初の仕掛けは、曲がり角のすぐ先にあった。
床へ細い線が張られ、その端が壁際の金属片につながっている。
触れれば音が鳴る。
俺が奪ったものと同じだ。
ただし、線の上には砂が薄くかけられていた。
暗いまま走れば見つけられない。
俺は天井を伝い、線の上を越える。
何も鳴らない。
その先へ進もうとした時、背後で小さな金属音がした。
越えた線とは別に、天井近くへもう一本張られている。
俺の後ろ脚が触れていた。
ガレオの足音が止まる。
矢が来る。
壁を蹴った瞬間、さっきまでいた場所へ鏃が当たった。
石が欠け、頬へ飛んでくる。
ガレオは灯りを消していた。
姿は見えない。
それでも、弦を引く音は聞こえる。
俺は低く鳴き、曲がり角の向こうを探った。
男は片膝をつき、弓をこちらへ向けている。
その前には、もう一本の線があった。
追えば引っかかる。
止まれば射られる。
俺は口に咥えていた金属線を離した。
線の端についた金属片が床へ落ちる。
音に反応して、ガレオの弓がわずかに動いた。
その間に天井から落ちる。
片方の翼だけを開き、曲がり角の内側へ体を寄せた。
矢が頭上を通る。
ガレオの顔が見えた。
近い。
胸の奥から魔力を押し出す。
音撃が狭い通路へぶつかった。
ガレオの頭が横へ揺れ、弓を持つ腕が下がる。
俺はその腕へ飛びついた。
革の手甲へ牙を立てる。
硬い。
噛んでも、血まで届かない。
爪で手の甲を裂く。
ガレオが弓を捨てた。
空いた手で俺の体を掴もうとする。
その前に腕から離れた。
男の腰から短い槍が抜かれる。
狭い道でも使える長さだ。
穂先が横へ払われる。
下へ避けたが、柄が腹へ当たった。
息が抜け、床を転がる。
ガレオは追って踏み込まない。
俺との間に槍先を置き、落とした弓から離れない位置を取った。
「罠を使って、囮まで投げた」
手の甲から血が落ちる。
「もう獣とは呼べないな」
俺は起き上がる。
腹が痛い。
左の翼からも、また血が滲んでいる。
それでも、目の前にはガレオの血があった。
匂いへ喉が動く。
男はそれを見ていた。
槍を持つ手が少し下がり、傷ついた手を背へ隠す。
俺が血を狙うと気づいた。
ガレオは足元の小袋を蹴った。
中から灰色の粉が広がる。
目と鼻へ入り、視界が滲んだ。
毒ではない。
細かい灰だ。
鳴くと喉へ入り、咳のような声が出た。
その間に槍が来る。
肩の毛を裂き、穂先が浅く肉へ入った。
俺は後ろへ跳ぶ。
ガレオは槍を引き、落とした弓を拾った。
追わずに下がる。
戦えば、ここでどちらかが死ぬ。
男もそう考えたのかもしれない。
手の甲へ布を巻きながら、暗い道の向こうへ離れていく。
俺は灰の中で動かなかった。
今なら、追うのをやめられる。
ガレオも、すぐには戻れない。
左の翼を休ませ、黒巣へ別の道を作る時間がある。
だが、床には置かれた線が何本も残っている。
男の腰にも、まだ小袋があった。
次は別の粉を使う。
別の罠を置く。
俺を見失っても、風穴で待てばいいと知っている。
灰が落ち着く前に、俺は壁へ爪をかけた。
床へ落とした金属線を回収し、血の匂いを追った。




