第039話 追跡者
風穴の外には、あの肉がもうなかった。
地面の輪も、枝から落ちた粉袋も片づけられている。
人間が戻ってきた。
その匂いは残っていたが、どちらへ去ったのかまでは追えない。
俺は裂け目の縁から、しばらく森を見た。
熱感知の範囲に人間はいない。
鳴いても、木と葉から細かな音が返るだけだった。
外へ出ずに戻ることもできる。
黒巣には食べ物が残っている。
それでも、罠を置いた相手がいなくなるまで待っていたら、この先も外へ出るたび同じ場所で止まる。
俺は近くの枝へ飛んだ。
風は昨日より弱い。
木の間を低く進み、白い粉をつけられた場所から離れる。
しばらく飛ぶと、落ち葉の下から小さな心音が聞こえた。
耳の長い魔物が、木の根元で草を噛んでいる。
額には、指ほどの短い角があった。
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名称:角兎
種族ランク:F
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俺より弱い。
空腹ではないが、外で狩れるかは確かめたい。
枝から音を送り、周りを見る。
ほかに動くものはいない。
角兎の真上まで移り、翼を畳んだ。
落ちる。
途中で羽を開き、音を消すように速度を落とす。
角兎の耳が動いた。
地面を蹴る直前に、背中へ爪を立てる。
軽い体が落ち葉の上を転がった。
角が頬の横を通る。
首へ牙を入れようとした時、風を切る音がした。
左の翼に、強い衝撃が走った。
体が横へ引かれる。
角兎から爪が外れ、そのまま近くの幹へ叩きつけられた。
翼の外側を、一本の矢が貫いている。
鏃は木へ刺さり、羽膜ごと俺の体を留めていた。
痛みより先に、逃げようとして翼が裂けた。
矢から外れ、地面へ落ちる。
角兎はもう茂みの中へ消えていた。
人間の足音が近づく。
弓を持った男が、木の陰から出てきた。
茶色い革鎧。
腰には短い槍と、いくつもの小袋。
顔の下半分を布で覆い、目だけが俺を見ていた。
人間。
そう分かった一瞬だけ、動きが止まった。
教室にいた誰かとは違う。
あの石の広間に並んでいた兵士とも違う。
男の目は、俺の翼と牙を見ている。
どこを傷つければ逃げられず、どこを残せば高く売れるのかを確かめる目だった。
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名称:ガレオ・ダン
種族:人間
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「その大きさで、魔力持ちか」
言葉が分かる。
聞き返す声はない。
ガレオは俺と、木に残った矢を順に見た。
「翼を裂いても飛べる。傷も浅い」
もう一本の矢を弓へつがえる。
俺は地面を蹴った。
左の翼から血が散る。
うまく風を掴めず、体が右へ傾いた。
次の矢が肩の下を通る。
低い枝へ爪をかけ、勢いのまま裏側へ回る。
ガレオの姿は木に隠れた。
それでも足音は止まらない。
俺が枝から離れた瞬間を狙い、三本目が飛んでくる。
翼を畳んで落ちる。
矢が枝を削った。
ガレオとの間に木がなくなる。
腰の小袋から、何かが投げられた。
広がった紐の先に、小さな金属の重りがついている。
翼を閉じて下へ抜けると、紐が頭上の枝へ絡みついた。
捕まえる道具まで持っている。
俺は胸の奥の魔力を、正面へ押し出した。
音撃。
鳴き声が森へ広がる。
洞窟の壁がない。
音はガレオへ届く前に、木々の間へ逃げていった。
それでも男の頭がわずかに揺れ、引いていた弦が緩む。
「鳴き声で殴ったか」
倒れない。
耳を押さえもしなかった。
距離がある。
それだけで、音撃の威力は洞窟にいた時より弱くなっていた。
ガレオは俺の熱感知が届かない場所から、風下へ匂いを流さずに待っていた。
最初から、俺が近づく距離を決められていた。
ガレオはすぐに足を開き、もう一度弓を構える。
魔力を使ったのに、一瞬止めただけだった。
正面からは勝てない。
俺は風穴の方角へ飛んだ。
左の翼を広げるたび、裂けた膜が引かれる。
高くは飛べない。
幹の間を縫い、枝へ爪をかけて体を前へ投げる。
後ろから矢が二本来た。
一つは木へ刺さり、もう一つは翼の下を抜けた。
ガレオは走りながら射ている。
俺より遅いはずなのに、曲がる先へ矢が来る。
背中から、昨日と同じ乾いた草の匂いがした。
最初の矢だ。
鏃か矢羽に、追跡粉が塗られていた。
傷から流れる血にも、その匂いが混じっている。
狙いは、翼を傷つけることだけじゃない。
逃げた先まで追うための矢だった。
風穴が見えた。
根の下にある細い裂け目へ、翼を畳んで飛び込む。
左の羽が石に擦れ、傷がさらに開いた。
それでも体は中へ入る。
背後で矢が岩へ当たった。
ガレオの足音は、裂け目の前で止まった。
人間の肩では入れない。
俺は石に血を残しながら、暗い穴を奥へ進んだ。
「そこが巣か」
外から声が聞こえた。
答えず、さらに奥へ飛んだ。
乾いた草の匂いが、洞窟の中までついてきた。
黒巣へは戻らなかった。
風穴から続く通路を下り、途中の分かれ道で右へ曲がる。
左へ行けば、竜骨の分かれ道だ。
その先にはレグたちの集落がある。
右は、アシッドスライムがいる空洞へ続いている。
左の翼から、血が落ちた。
一滴。
少し進むと、また一滴。
傷を舐めても、裂けた羽膜は閉じない。
血には乾いた草の匂いが混じったままだった。
あの人間は風穴へ入れない。
それでも、黒骨洞には人間が通れる入口がほかにある。
以前見た三人組も、風穴とは別の広い道から来ていた。
ガレオが同じ入口を知っていれば、諦めるとは限らない。
俺は通路の途中にある水溜まりへ降りた。
左の翼を浸す。
冷たい水が傷へ入り、体が強張った。
粉の匂いは薄くなる。
だが、翼を上げると、また血が水面へ落ちた。
赤い筋が流れ、石の隙間へ消える。
このままでは、黒巣まで道を残す。
俺は水から上がり、壁の高い場所へ爪をかけた。
飛ばずに進む。
天井近くなら、血が落ちても人間の目には見えにくい。
そう思っていた。
しばらく進んだ後、遠くで金属が石に触れた。
人間の足音がする。
風穴の後ろではない。
洞窟の広い道から、こちらへ入ってきている。
早い。
俺は鳴いた。
通路をいくつも隔てた先に、細長いものを持つ人影がある。
ガレオだ。
片手に小さな灯りを持ち、時々しゃがんで床を見ている。
暗闇でも、迷っていない。
灯りには覆いがあり、前だけを細く照らしていた。
通った曲がりには、白い石で小さな印を残している。
戻る道まで確保しながら進んでいた。
俺は羽を畳み、天井へ体を寄せた。
見つかったわけではない。
まだ距離もある。
そのはずなのに、ガレオは俺が曲がった道へ入ってきた。
床に落ちた血を見つけたのか。
匂いを追っているのか。
熱感知では、男の手元にある道具までは分からない。
ガレオは床だけを見ていなかった。
時々灯りを上げ、壁と天井にも目を向ける。
飛ぶ俺が、地面だけを通らないと知っている。
俺は少し戻り、別の横穴へ入った。
今度は血が床へ落ちないよう、羽の傷を口で押さえる。
飛べない。
三本の脚と片方の翼で、壁を這う。
横穴を抜けた先には、道が二つある。
一方は黒巣へ近づく。
石に残した爪痕も多く、何度も通った俺の匂いが染みついていた。
もう一方は、古い水路を通って酸の空洞へ戻る。
俺は水路を選んだ。
黒巣には、保存した肉と生きた洞窟鼠がいる。
母蜘蛛から奪った糸も、逃げ道もある。
そこまで人間に見せたくない。
水路へ入る前に、傷から血を一滴だけ黒巣側へ落とした。
すぐに戻り、酸の空洞へ向かう。
匂いを分ければ、迷うかもしれない。
しばらくして、ガレオの灯りが分かれ道へ来た。
俺は離れた壁の窪みから、音だけを聞く。
足音が止まる。
布の擦れる音がして、何かが床へ撒かれた。
「血は左」
独り言が聞こえた。
ガレオはすぐに左へ進まない。
右の水路へ灯りを向け、壁の上までゆっくり照らす。
「粉は右か」
水へ入っても、追跡粉は全部落ちていなかった。
床ではなく、俺が這った壁に残っている。
ガレオは小袋から別の粉を指先へ出し、空中へ吹いた。
淡い粉が風に流れ、右の水路へ吸い込まれる。
風向きまで確かめている。
俺が匂いと血だけを見ている間に、あいつは道そのものを読んでいた。
ガレオは左へ二歩進んだ。
黒巣へ続く方角だ。
俺の爪が石へ食い込む。
そのまま行けば、止めるしかない。
だが、男は途中でしゃがんだ。
灯りを床へ近づける。
古い爪痕と、そこに重なる何度もの擦れを見ていた。
「こっちは、いつもの道」
声が低くなる。
ガレオは立ち上がり、黒巣の方ではなく右の水路へ向いた。
「隠したいのは左か」
ばれている。
俺が血を落としたことで、何もなかった道へ印をつけてしまった。
ガレオは黒巣へ進まなかった。
先に俺を追うつもりらしい。
小さな灯りが、水路へ入ってくる。
俺は窪みを離れ、酸の匂いがする暗闇へ進んだ。
追われるだけでは、あいつは黒巣まで見つける。




