第037話 外の風
竜骨の分かれ道まで、思っていたより時間がかかった。
レグは数歩進むたび、壁へ手をついた。
止まるたびにフィナが脚の布を確かめ、緩んだところを巻き直す。
俺は二人の前を飛び、曲がり角の先を鳴いて確かめた。
近くに魔物はいない。
逃げた黒爪猟犬の匂いは途中まで続き、細い横穴へ消えていた。
追ってはいない。
ただ、あの匂いがこちらへ戻らないことだけは何度も確かめた。
「止まって」
後ろからフィナに呼ばれ、天井へ掴まる。
レグが腰を下ろしていた。
「休みすぎだ」
「倒れるよりいい」
「倒れてない」
「座ってる」
フィナは水袋を渡し、自分も床へしゃがんだ。
俺は二人より少し先にある横穴へ音を送る。
奥は浅い。
生き物の熱もない。
『安全』
フィナが顔を上げた。
「あっちは安全?」
頷く。
「便利だね、それ」
便利ではある。
一つ送るたび、胸の奥が少し軽くなる。
まだ何度でも使える力ではない。
フィナはレグが水を飲む間に、壁際の黒い茸を二つ摘んだ。
「食べるのか」
「傷薬。帰れたら煮る」
「帰ってからか」
「ここで火を使いたい?」
レグは水袋を返した。
立ち上がろうとして、一度失敗する。
フィナは何も言わず、肩を貸した。
俺も何も送らなかった。
その後は、さっきより少し遅く進んだ。
道が二つに分かれるたび、フィナが壁に残された傷を探す。
三本の短い線。
欠けた丸。
石の色とほとんど変わらない印が、集落へ続く道を示しているらしい。
俺なら音と匂いで覚える。
二人は石に意味を残していた。
長い上り坂を越えた先で、白いものが音の中へ浮かんだ。
太い骨に見えたが、匂いは石だった。
白い鉱脈が壁から何本も突き出し、巨大な肋骨のように道を囲んでいる。
「ここ」
フィナが白い石の間へレグを座らせた。
「竜骨の分かれ道」
本物の竜骨ではない。
それでも、黒い骨を見た後では、ただの石だと決めつける気にはなれなかった。
俺が眼を向けても、名前は出ない。
魔物でも、魔力を宿した素材でもないらしい。
分かれ道の左から、古い煙とコボルトの匂いがした。
遠くに熱が二つある。
動きは遅く、こちらへ近づいていた。
『来る』
レグが槍へ手を伸ばす。
「何がだ」
俺は左の道を見る。
フィナも匂いに気づき、鼻先を上げた。
「見張りだと思う」
「思う、で槍を下ろせるか」
「兄さんは上げても立てないでしょ」
レグは槍を握ったまま黙った。
しばらくして、左の奥から石を二度叩く音がした。
フィナも足元の石を二度蹴る。
同じ間を空け、もう一度。
近づいていた二つの熱が止まり、片方だけが先へ出た。
仲間同士の合図らしい。
「ここから先は、もういい」
フィナが俺へ言った。
「風穴は右。最初の広い穴を上へ。冷たい風を追えば迷わない」
俺は右の道へ顔を向ける。
確かに、乾いた匂いが流れてきていた。
「ただし、人間も使う」
レグが言う。
「洞窟の中より、道具が多い」
注意なのか、脅しなのか分からない。
どちらでもよかった。
俺は一度頷く。
「借りは返す」
レグが続けた。
「次に会った時、敵でなければ」
「そこは今決めてよ」
「集落に近づかなければ敵じゃない」
「あんたも、急に噛まないで」
フィナが俺を見る。
『お前も』
「私は噛まない」
「罠にはかけるな」
「兄さんは黙ってて」
左の道から、コボルトの姿が見えた。
短い槍を持った一匹と、背に籠を負った一匹。
二人は俺を見るなり足を止める。
槍が上がる前に、俺は右の道へ飛んだ。
追ってくる音はなかった。
風穴へ続く道は、途中から急に狭くなった。
天井が低くなり、壁の隙間から木の根が垂れている。
湿った石の匂いに、土と葉と獣の匂いが混じり始めた。
上へ行くほど、風が強くなる。
羽の下へ入り込み、体を持ち上げようとした。
洞窟の中にはない風だった。
最後の裂け目を抜ける。
頭上に、天井がなかった。
黒い木々の向こうまで、暗い空が続いている。
小さな光がいくつも浮かび、その間を雲が流れていた。
広い。
そう思う前に、体が裂け目へ戻ろうとした。
上から何かが来ても、掴まる石がない。
鳴いても、音が戻ってこない。
どこまで飛べば壁に届くのか、分からない。
洞窟より明るいのに、形を掴めない場所ばかりだった。
俺は裂け目の縁へ爪をかけたまま、しばらく動けなかった。
外から吹く風だけが、翼の下を通り抜けていった。
外へ出たのは、次の夜だった。
最初の夜は、裂け目から空を見ただけで黒巣へ戻った。
知らない匂いが多すぎた。
風向きが変わるたび、土、葉、獣、花、腐った木の匂いが入れ替わる。
洞窟なら、石に残った匂いを辿れた。
外では、さっきまで近かった匂いが風に攫われ、遠くの血が急に鼻へ届く。
黒巣で休み、新しい翼を何度か広げてから、もう一度風穴へ向かった。
裂け目の外には、昨日と同じ森がある。
空の広さも変わっていない。
俺は縁から近くの木へ飛んだ。
翼の下へ風が入る。
体が浮きすぎ、枝の上を越えかけた。
羽を畳んで速度を落とし、幹へ爪を立てる。
石より柔らかい。
爪が樹皮へ深く入り、乾いた欠片が落ちた。
木の中には水が流れている。
細い虫が何匹も動き、枝の先では小さな心音がしていた。
洞窟より、食べられるものは多い。
同じだけ、隠れている魔物も多かった。
頭上で葉が大きく揺れた。
翼を広げた影が、木々の隙間を横切る。
熱を感じる前に、俺は幹の裏へ回った。
影は一度だけ近くを旋回し、森の奥へ消える。
鳴くこともできなかった。
音を出せば、あれに居場所を知らせる。
空を飛べるようになっても、上から狙う魔物がいる。
天井がないというだけで、気にする方向が一つ増えていた。
俺は幹を上り、葉の陰から周りを見る。
少し先に、血の匂いがある。
新しい。
獣の脚らしい肉が、低い枝から吊られていた。
近くに心音はない。
下の茂みにも、熱は見えなかった。
それでも、肉へ近づく前に鳴いた。
枝と地面の間に、細い線が返ってくる。
金属だ。
人間だった頃の髪より細い線が、輪になって肉の下へ置かれていた。
触れれば締まる。
そう見えた。
魔物の巣なら、糸や匂いが続く。
これは肉だけを見て近づく相手へ、離れた場所から牙を立てる仕組みだった。
俺は地面へ降りず、上の枝を伝う。
吊られた肉の結び目へ爪をかけた。
線の輪には触れていない。
肉だけを外せる。
少しずつ紐を削る。
半分ほど切れた時、枝の反対側で小さな音がした。
布の袋が開く。
白い粉が落ちてきた。
羽を閉じるより早く、背中と左の翼へかかる。
息を止め、枝から飛び退いた。
粉には毒の匂いがない。
皮膚も痛まない。
ただ、乾いた草に似た強い匂いが毛へ残った。
濡れた葉へ背中を擦りつける。
白い色は薄れたが、葉の水分を弾くように細かな粒が毛の奥へ残った。
簡単な雨では落ちないよう、油が混ぜられている。
水へ入れば落ちるかもしれない。
だが、近くに水音はない。
俺は肉を捨て、別の枝へ移った。
罠には触れていない。
それでも、何かをつけられた。
地面の輪は、最初から見つけられる前提だったのかもしれない。
周囲へもう一度音を送る。
木の根元に、小さな金属片が二つある。
茂みの奥には、細い紐が地面を横切っていた。
一つじゃない。
肉へ近づく道だけでなく、避けた先にも罠が置かれている。
俺は枝の上で動きを止めた。
人間が残したものだ。
レグの言葉を思い出す。
洞窟の中より、道具が多い。
人の匂いは薄い。
昨日か、それより前に置かれたらしい。
近くにはいない。
そう考え、風穴へ戻る方角を確かめた。
その時、背中についた粉の匂いが風下へ流れた。
森の奥で、鳥が一斉に飛び立つ。
俺は肉を諦め、木々の間を低く飛んだ。
来た時と同じ道は使わない。
枝から枝へ移り、途中で幹へ体を擦りつける。
白い粉は少し落ちたが、匂いまでは消えなかった。
風穴へ戻る前に、浅い泥へ一度降りた。
翼を汚し、別の木の葉へ粉を擦りつける。
それから大きく回り、洞窟の裂け目へ戻った。
中へ入っても、乾いた草の匂いがついてくる。
罠は避けた。
なのに、自分がどこへ逃げたのかを残してきた気がした。




