第036話 敵、来る
水場の向こうに、三つの熱があった。
まだ姿は見えない。
音も、レグたちには届いていない。
それでも、同じ速さで近づいてくる体温が分かる。
針尾オロチの血が、水に混じって通路へ流れていた。
あれを追ってきた。
俺は短く鳴いた。
返ってきた音が、曲がった通路の奥まで形を作る。
四本の脚。
低い頭。
それが三匹。
先頭の一匹が、通路の角から鼻先を出した。
――――――――――
名称:黒爪猟犬
種族ランク:E
――――――――――
「何かいる?」
フィナが俺の見ている方へ顔を向ける。
レグは立とうとしたが、傷ついた脚に力が入らず、また壁へ肩をついた。
「聞こえない」
「あの蝙蝠には聞こえてる」
三匹の熱が止まった。
血の匂いを確かめている。
すぐに来る。
伝えないと、二人は動けない。
俺は鳴こうとして止めた。
鳴き声を聞かせても、意味は伝わらない。
人間だった頃なら、言葉にできる声があった。
今はない。
それでも、胸の奥には、さっきできたばかりの器官がある。
音へ魔力を乗せられる。
なら、言葉も乗せられないか。
敵。
来る。
頭の中で二つの意味を繰り返し、フィナへ向ける。
胸の奥から魔力が抜けた。
音にはならず、喉の奥で潰れた。
フィナが耳の後ろを押さえる。
「……敵、来る?」
届いた。
俺が驚いている間に、先頭の黒爪猟犬が通路から出た。
濡れた黒い鼻が動き、死んだ針尾オロチからレグへ向く。
その後ろにも、二匹分の爪音がある。
「兄さん、立てる?」
「立つ」
「歩けるか聞いた」
「それは無理だ」
フィナは顔をしかめたが、言い返している暇はなかった。
レグの腕を肩へ回し、壁際へ引く。
黒爪猟犬が水へ入った。
俺は飛ぶ。
広げた翼が、前より強く空気を押した。
体が思った以上に前へ出る。
壁へ当たりかけ、爪で石を掠めて向きを変えた。
まだ、この体の速さに慣れていない。
先頭の猟犬が俺を見上げた。
口が開く。
牙が並ぶ前へ、胸の奥の魔力を押し出した。
音撃。
鳴いた声が、見えない塊になって猟犬の頭へぶつかった。
黒爪猟犬の前脚が滑る。
体が横へ傾き、水の中へ肩から落ちた。
倒れたのは一瞬だけだった。
すぐに頭を振り、立ち上がろうとする。
俺の耳の奥にも痛みが残っていた。
胸から抜けた魔力が、思っていたより多い。
もう一度、同じようには撃てない。
「今の、あんた?」
フィナの声を無視し、傾いた猟犬へ降りる。
爪で片方の眼を裂いた。
黒爪猟犬が吠え、頭を振る。
牙を立てる前に振り落とされた。
水面へ落ち、翼の先が濡れる。
二匹目が通路から飛び出した。
俺ではなく、動けないレグへ走る。
レグが片膝をついたまま槍を構えた。
「こっちだ」
穂先を石へ打ちつける。
黒爪猟犬の頭が音へ向いた。
飛びかかってくる。
レグは槍を突き出さず、柄を傾けた。
開いた口が穂先を越え、肩の横へ来る。
その直前に槍を持ち上げた。
穂先が下顎の柔らかい場所へ入る。
黒爪猟犬の勢いで、槍はさらに深く押し込まれた。
レグも後ろへ倒れる。
フィナが兄の襟を掴み、牙の下から引いた。
「立てないなら、せめて先に言って」
「言ったら、お前が前へ出る」
「今も出てる!」
三匹目は水場へ入らなかった。
俺と兄妹の動きを見ながら、通路の端を回ろうとしている。
群れで挟むつもりだ。
傷つけた先頭の猟犬も、もう立ち上がっていた。
二匹を残せば、レグは動けない。
俺は水を蹴り、先頭の猟犬へもう一度飛びついた。
今度は牙から逃げない。
開いた口の横を抜け、裂いた眼の傷へ爪を入れる。
黒爪猟犬が頭を振る前に、翼を畳んで首の下へ回った。
毛の薄い場所へ牙を立てる。
温かい血が流れ込んだ。
猟犬の体が暴れる。
前脚の黒い爪が石を削り、水を跳ね上げた。
血を吸うほど、その動きが遅くなる。
三匹目が俺へ向きを変えた。
「来る!」
フィナが叫ぶ。
俺は牙を抜いた。
飛び退く前に、三匹目の前脚が背中を掠める。
毛が裂け、熱い痛みが走った。
それでも爪は肉まで深く入っていない。
体を捻り、猟犬の鼻先を翼で叩く。
その横から、石が飛んできた。
フィナが投げた石は猟犬の額へ当たり、わずかに顔を逸らした。
俺はその隙に天井近くへ上がる。
先頭の猟犬は、もう立てなかった。
下顎を槍に貫かれた二匹目も、水の中で前脚を動かすだけになっている。
三匹目が一度吠えた。
通路の奥から返事はない。
俺とフィナを交互に見た後、来た道へ下がっていく。
追わなかった。
新しい翼なら追いつけるかもしれない。
でも、背中には爪が触れた痛みがあり、胸の魔力も減っている。
見えなくなるまで、三匹目の熱を追った。
通路の奥へ遠ざかり、やがて石の向こうへ消える。
――――――――――
黒爪猟犬を討伐しました。
経験値を取得しました。
固有スキル【因子吸収Lv1】が発動しました。
因子【黒爪猟犬因子】を取得しました。
――――――――――
――――――――――
因子【黒爪猟犬因子】
嗅覚、持久力、群れ連携、追跡などが含まれる。
現在の肉体では、嗅覚と追跡に関わる一部のみ適応できる。
――――――――――
――――――――――
因子【黒爪猟犬因子】の一部が種族特性【嗅覚・最下位Lv2】へ統合されました。
種族特性【嗅覚・最下位Lv2】が【嗅覚・最下位Lv3】へ上昇しました。
――――――――――
――――――――――
種族特性【嗅覚・最下位Lv3】
複数の匂いが混じった場所でも、新しい血や通過した魔物の匂いをある程度区別できる。
時間が経った痕跡や、水で流された匂いは追いにくい。
――――――――――
通知の後に、もう一つ文字が開いた。
――――――――――
知性ある相手へ、魔力を通じて意味を伝えました。
スキル【念話・最下位Lv1】を獲得しました。
――――――――――
――――――――――
スキル【念話・最下位Lv1】
近くにいる一体へ、短い意味を直接伝える。
一度に送れる意味はごく少なく、相手の返答を読み取ることはできない。
使用時にMPを消費する。
――――――――――
「今の言葉」
フィナが俺を見ていた。
「あんたが言ったの?」
レグは答えを待たず、槍を引き抜こうとしている。
俺はフィナへ意識を向けた。
敵。
もう、いない。
二つを一緒に送ろうとすると、胸の奥で意味が崩れた。
届いたのは、一つだけだった。
『いない』
フィナの耳が、小さく動いた。
俺の口は、何も動いていなかった。
遠ざかった一匹の熱は、もう戻ってこない。
二匹目の黒爪猟犬は、まだ死んでいなかった。
下顎に槍を刺したまま、浅い水を前脚で掻いている。
レグが柄を握り直す。
「フィナ、離れろ」
「一人で抜ける?」
「抜くんじゃない」
槍を両手で押し込み、穂先を喉の奥へ通した。
黒爪猟犬の脚が何度か石を叩き、動かなくなる。
俺は先に倒した一匹へ降りた。
首の傷には、まだ温かい血が残っている。
牙を立てると、フィナの視線が口元へ向いた。
それでも、フィナは目を逸らさなかった。
レグも槍を抜きながら、こちらを見ている。
「兄さん」
「分かってる」
「何が?」
「今、刺激するな」
血を吸い終えるまで、二人は近づいてこなかった。
正しい。
逆の立場なら、俺も近づかない。
腹が満ちると、胸の奥へ少しずつ魔力が戻ってきた。
音撃でも、念話でも、思った以上に魔力を使う。
牙を抜き、口元についた血を舌で拭う。
「……言葉、分かる?」
フィナが聞いた。
俺は頷く。
「最初から?」
もう一度、頷いた。
「私たちが何を話してたかも?」
「今さらだろ」
レグが壁へ背を預けた。
「聞かれて困ることは、だいたいもう見られた」
「兄さんが立てないこととか?」
「それは忘れろ」
フィナは少しだけ口を曲げ、また俺を見た。
「返せるのは、一つずつ?」
たぶん。
そう送ろうとする。
胸の奥で魔力が動いたが、言葉の形にはならなかった。
意味が曖昧すぎる。
俺は少し考え、別の一つを送った。
『少し』
フィナの耳がぴくりと動く。
「少し、か」
「あれだけ戦えて、話す方は少しか」
レグが言う。
俺はそちらを見た。
『お前も』
「何がだ」
立てないのに立つと言ったことだ。
そこまでは送れない。
フィナが兄を見て、短く笑った。
「たぶん、兄さんも大して話せてないって」
「勝手に足すな」
二人の声に、さっきまでより少しだけ力が戻っていた。
それでも、レグの右脚は地面につけない。
傷口の周りは黒ずみ、巻いた布にも血が滲んでいる。
ここに長くいれば、また血の匂いへ魔物が寄ってくる。
俺は逃げた黒爪猟犬の通路を見た。
熱はもう感じない。
だが、あれが群れへ戻れば、次も三匹とは限らない。
フィナはその視線を追った。
「私たちも、ここを出たい」
腰の袋から白い石を取り出し、濡れていない床へしゃがむ。
石の先で、曲がった線を引いた。
「ここが水場」
丸を一つ描き、そこから三本の道を伸ばす。
「こっちは蛇が来た道。こっちはさっきの猟犬。私たちが来たのは、こっち」
細い線の先に、いくつか短い印を足した。
「竜骨の分かれ道まで戻れれば、集落の見張りが来る」
「来なかったら?」
「待つ」
「何日」
「兄さんを背負って歩くよりは短い」
レグは何も言わなかった。
フィナは、描いた道の途中から上へもう一本線を伸ばした。
「ここは風穴。上へ行けば、外に出られる」
外。
俺はその線へ爪を置いた。
冷たい石の向こうから、わずかに違う空気の匂いがする。
湿った洞窟にはない、乾いた土と葉の匂い。
俺が来た方ではない。
「そこへ行きたい?」
『道』
「外への道が欲しい?」
頷く。
フィナは白い石を指の間で転がした。
「じゃあ、取引しよう」
「フィナ」
「このままじゃ、兄さんは戻れない」
「あれを集落へ連れていく気か」
「分かれ道まで。集落の場所は見せない」
俺を見たまま、床の線を二度叩く。
「私たちが分かれ道へ戻るまで、近づく魔物を先に見つけてほしい。戦えとは言わない。さっきみたいに教えて」
戦えとは言わない。
でも、襲われれば俺も戦うことになる。
それくらいは、フィナも分かっているはずだ。
俺は風穴へ続く線を見る。
洞窟の外へ出る道は欲しい。
兄妹を連れて歩けば時間はかかるが、自分だけで知らない道へ入るより、罠や行き止まりを避けられる。
何より、逃げた猟犬が同じ方へいる。
取引としては悪くない。
俺は爪で風穴の線を押さえ、それから竜骨の分かれ道までをなぞった。
最後に頷く。
「決まり?」
『取引』
今度は、一度で届いた。
フィナが白い石を袋へ戻す。
「名前は?」
聞かれると思っていなかった。
黒瀬湊。
頭には浮かぶ。
それを送ろうとしても、魔力は動かなかった。
名前は意味ではない。
今の念話では、音も文字も渡せない。
俺が黙っていると、レグが槍の石突きを床へ置いた。
「魔物に名前を聞くのか」
「話せる魔物なら、あるかもしれないでしょ」
「なら、言いたくないんだろ」
半分は合っている。
黒瀬湊と名乗ったところで、二人には何の意味もない。
フィナはしばらく待った後、諦めたように立ち上がった。
「呼べないと困る」
「蝙蝠でいい」
「さっき進化したし、もう普通の蝙蝠じゃない」
それは俺も分かっている。
「じゃあ、まだ名前なし」
フィナがそう決め、レグの腕を自分の肩へ回した。
「行ける?」
「さっきよりは」
「歩ける?」
「歩ける」
今度は、本当に片脚で立った。
俺は二人より先に通路へ入る。
鳴くと石の曲がりが返り、鼻には三匹分の匂いが残っていた。
逃げた猟犬の匂いだけが、奥へ続いている。
追う必要はない。
二人がついてこられる速さで、少しずつ進んだ。
最初の曲がりを越えたところで、フィナが後ろから言う。
「待って」
俺は天井へ掴まり、振り返った。
レグが壁へ手をつき、息を整えている。
「先に行きすぎ」
進化する前なら、同じ距離を進むだけで俺の方が休んでいた。
今は、二人を待っている。
その違いを確かめるように、翼を畳み直した。
通路の奥から、細い風が来た。




