第031話 人の火
もう一度眠り、目を覚ました時には、左脚の痺れが消えていた。
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状態異常【黒巣毒・軽度】が解除されました。
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爪を何度か閉じ、窪みの石を掴む。
感覚は戻っている。
右の羽には引きつるような痛みが残っていたが、端から端まで広げても傷は開かなかった。
飛べる。
黒巣に残った肉を食い、糸に包まれた洞窟鼠から少しだけ血を吸った。
心音が弱くなりすぎる前に牙を抜く。
母蜘蛛の死骸は、昨日と同じ場所に沈んでいた。
卵から新しい脚音も聞こえない。
潰れずに残った卵を網から落とし、下の石へ叩きつけてから、黒巣の下に開いた穴へ降りた。
狭い入口を抜けると、羽を広げても壁へ触れないほど道が広がる。
上の洞窟より空気は乾き、濡れた石の代わりに温かい土と魔物の匂いがした。
短く鳴く。
音は遠くまで進み、いくつもの横穴から少しずつ遅れて返ってきた。
黒巣へ戻る穴は、背後の高い場所にある。
壁の形を覚え、その下に落ちていた白い石へ爪で傷をつける。
黒巣へ戻る道を見失えば、せっかく手に入れた巣も食料も使えない。
何度か振り返り、穴と白い石が同じ位置に見えることを確かめてから先へ進んだ。
広い道には、俺より大きな足跡がいくつも残っていた。
三本の爪があるもの、丸い肉球の跡、腹を石へ擦ったような長い跡。
上では見なかった魔物が、この道を使っている。
天井近くを飛び、横穴の一つを通り過ぎた時、壁から石の粉が落ちた。
羽を止め、近くの出っ張りへ爪をかける。
もう一度鳴くと、さっきまで壁だと思っていた場所に、低い体と四本の脚が浮かんだ。
石に似た皮。
太い尾。
人間の片腕ほどある頭が、ゆっくりこちらへ向く。
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名称:石皮トカゲ
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最初に見た時は、近づかれるだけで動けなかった。
次に倒した時も、灰糸蜘蛛の毒と糸がなければ牙を通せなかった。
周囲にほかの魔物はいない。
俺は壁から爪を離さなかった。
石皮トカゲが壁を蹴る。
這うような姿勢のまま、体が一気に近づいてきた。
俺は爪を離し、道の中央へ飛び出す。
開いた口が、さっきまでいた出っ張りへ噛みつき、石の欠片が飛んだ。
上へ逃げると、石皮トカゲは壁から天井へ移り、四本の足で石を掴んで追ってくる。
飛んでいる俺の方が速い。
道の先では、天井から垂れ下がった太い岩が通り道を左右に分けていた。
右は広い。
俺は左の隙間へ体を傾けた。
羽の端が岩へ触れ、右の傷が痛む。
飛ぶ高さが落ちたところへ石皮トカゲの口が迫り、尾の先が左の羽を掠めた。
体が横へ流される。
壁へぶつかる前に爪をかけると、石皮トカゲは狭い隙間へ頭を入れ、前脚で体を押し込もうとしていた。
入れないほど狭くはない。
だが、肩が岩へ当たり、走っていた勢いは止まっている。
俺は壁を蹴り、開いた口の横を抜けた。
前脚の付け根へ爪を振るう。
石のような皮に浅い傷が三本ついたが、血は出ない。
石皮トカゲが頭を振り、俺を壁へ押しつけようとする。
離れたところを太い尾が薙ぎ、胸へ当たった。
息が抜け、床近くまで落ちる。
追ってきた前脚の下を抜け、腹へ牙を立てようとしたが、トカゲが体を伏せる方が早かった。
顎が石へ当たり、牙の先が滑る。
正面から傷を作るには、皮が硬すぎる。
左の壁へ爪をかけて鳴くと、音の中に開いた口と、前へ出した右脚が浮かんだ。
次に来る場所も分かる。
石皮トカゲが飛びついた。
牙が届く直前に壁を蹴り、頭の上を越える。
すれ違いながら右の眼へ爪を振るうと、柔らかい感触が爪先へ残った。
石皮トカゲの頭が壁へぶつかる。
潰れた眼を石へ擦りつけ、太い尾を無茶苦茶に振った。
近づかず、天井近くを回る。
残った眼が俺を追うたび、見えていない側へ向きを変えた。
正面で一度鳴き、すぐに左へ飛ぶ。
口が音のした場所へ伸びた。
その横から頭へ落ち、潰した眼へもう一度爪を入れる。
石皮トカゲが体を捻る前に離れ、今度は床すれすれを抜けた。
眼を守ろうと頭を下げたことで、首と前脚の間が開いている。
そこへ牙を押し込んだ。
硬い皮の端を越え、柔らかい肉へ牙が入る。
熱い血が口へ流れ込んだ。
石皮トカゲが壁へ体をぶつけようとする。
爪を傷口の周りへ立て、前脚の動きに合わせて体をずらした。
一度目は背中が石へ擦れ、二度目は尾が脇腹へ当たる。
それでも牙は抜かなかった。
吸うたびに、石を掴む前脚の力が弱くなる。
俺を壁へ押しつけようとして、石皮トカゲは道の中央へ出た。
動きが遅くなるにつれ、爪をさらに深くかける。
血を吸う。
前脚が石を掻き、体が少しずつ低くなる。
太い尾が一度だけ床を打った。
次は持ち上がらなかった。
石皮トカゲの腹が石へつき、残った眼も閉じる。
心音が止まるまで、牙を抜かなかった。
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石皮トカゲを討伐しました。
経験値を取得しました。
HPが回復しました。
Lvが15から16に上昇しました。
最大HP:36から38に上昇しました。
筋力:14から15に上昇しました。
敏捷:24から26に上昇しました。
感知:27から29に上昇しました。
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固有スキル【因子吸収Lv1】が発動しました。
因子【石皮トカゲ因子】を追加取得しました。
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首から牙を抜く。
周囲に蜘蛛の糸も、毒を入れる別の牙もない。
右の羽は痛み、胸には尾で打たれた鈍い痛みが残っている。
無傷では勝てなかった。
それでも、もう石皮トカゲから逃げる必要はない。
以前は石に紛れた姿を見つけても、逃げ込める隙間を探すことしかできなかった。
今は、自分で作った傷から血を吸い、その心音を止めた。
腹が満ちるまで血を吸い、柔らかい首の肉を少し食う。
死骸は黒巣へ運ぶには大きすぎるため、横穴の奥へ引き、外から見えにくい場所へ寄せた。
入口の石へ爪痕を残す。
道さえ覚えていれば、残った肉を取りに戻れる。
その時、道のさらに奥から、金属が何かを叩く音がした。
少し間を空け、同じ音が二度続く。
そのあとは、石を踏む複数の足音が近づいてきた。
どれも二本の脚で歩いている。
俺は死骸を残し、天井近くの窪みを伝って音の方へ向かった。
鳴けば位置を知られるかもしれない。
暗闇のまま、耳と匂いだけを頼りに進む。
先に届いたのは煙の匂いだった。
湿った木と油が燃えている。
その奥に、汗と革と鉄の匂いが混じっていた。
知っている。
人間の匂いだ。
足が止まった。
教室にいた時、他人の汗の匂いを気にしたことなんてなかった。
今は暗闇の向こうに何人いるのか、どちらへ歩いているのかまで匂いが運んでくる。
「そこでいい。もう一本打ってくれ」
「また俺かよ」
「松明を持ちながら打てるなら代わる」
「そういう言い方するから嫌なんだよ」
聞き取れる。
知らない世界の言葉なのに、意味はそのまま頭へ入ってきた。
教室で誰かの話を聞いていた時と、何も変わらない。
返事をしそうになり、口を閉じる。
出るのは言葉ではなく、鳴き声だけだ。
俺は天井の窪みへ体を押し込み、動かずに待った。
やがて曲がり角の壁が赤く照らされ、揺れる火の下から三人の人間が現れた。
一人は松明を持ち、もう一人は壁へ短い金属杭を当てている。
最後を歩く女は背負い袋を何度も肩で直し、後ろを振り返っていた。
「ボルド、奥まで行く気じゃないよね」
「印をつけてるだけだ」
「その言葉、さっきも聞いた」
「さっきより二本分進んだ」
「進んでるじゃない」
先頭の男が笑う。
三人とも腰に刃物を下げ、男は短い槍を、女は弓を持っていた。
火があれば、暗闇でも鳴かずに道を見られる。
槍も弓も、牙が届くより遠くから俺を殺せる。
教室にいた頃なら、人を見つけたことに安心したかもしれない。
今は槍の先と弓へ先に目が向く。
「ここから先は中層だぞ。受付に見つかったら、依頼料より罰金の方が高い」
「見つからなきゃ払わなくていい」
「黒骨洞で死んだら、誰が革袋を持って帰るの」
「お前」
「置いて帰る」
黒骨洞。
この洞窟には、名前があった。
三人は金属杭の横へ赤い布を結び、来た道を振り返る。
そこで女が鼻を動かした。
「血の匂いがする」
三人の視線が、俺の来た道へ向いた。
「新しい?」
「たぶん」
「見てくる」
「奥へ行かないって言ったよね」
「この近くだ。獲物なら依頼の足しになる」
先頭の男と松明の光が近づいてくる。
暗闇へ慣れた眼が痛み、目の前が白くぼやけた。
爪を動かせば小石が落ちる。
窪みの奥で止まり、人間が下を通り過ぎるのを待った。
男の頭がすぐ下に来る。
髪に混じった汗と油の匂いが濃い。
槍を持っていない手を伸ばせば、窪みの中まで届きそうだった。
爪へ力を入れても、小石を落とさないことしかできない。
「あったぞ。石皮トカゲだ。まだ温かい」
「誰が倒したの」
「知らん。首に噛み跡がある」
「持って帰るの?」
「皮だけ剥ぐ。肉まで運んだら袋が破れる」
刃物が鞘から抜かれた。
俺が殺した石皮トカゲの死骸を、人間の手が横穴から引き出す。
一人が脚を押さえ、先頭の男が首へ刃を入れた。
硬い皮と肉の間へ迷わず刃先を滑らせ、爪でも牙でも剥がせなかった皮を、音もなく肉から離していく。
あれほど硬かったものが、人間の手の中では丸めて運ぶ素材へ変わっていく。
俺の獲物だ。
そう思っても、動けなかった。
三人を相手に、槍と弓と刃物を避けながら死骸を守れるとは思えない。
男たちは皮を丸め、背負い袋へ押し込んだ。
残った肉には目も向けない。
「何が倒したにしても、近くにいるかもしれない。帰るぞ、ボルド」
「分かってる」
「言うだけなら誰でもできる」
三人の足音と火が遠ざかっていく。
金属杭のある曲がり角を過ぎても、しばらく動かなかった。
煙の匂いが薄くなってから窪みを出る。
石皮トカゲは皮を失い、赤い肉を剥き出しにしていた。
食える部分は残っている。
それでも、隠しておいた場所から簡単に引き出された。
血の跡も、匂いも、人間には見つけられる。
俺は三人が打ち込んだ金属杭の前へ戻った。
赤い布が、火の消えた暗闇で垂れている。
人間は、戻るために道へ印を残していた。
俺が石へつけた爪痕より、ずっと見つけやすい。
杭へ爪先で触れると、冷たい金属の振動が石の奥まで細く広がった。
その向こうから、さっきの三人より軽い二人分の足音が返ってくる。
歩く間隔は短く、何かを引きずる音が混じっていた。
「兄さん、止まって」




