第030話 黒巣の主
網に爪をかけたまま、何度か息をする。
すぐ下に母蜘蛛の死骸がある。
動いていない。
それでも、しばらく近づけなかった。
短く鳴く。
返ってきた音の中で、長い脚は折れ重なったままだった。
腹も、頭も動かない。
周囲の糸へ爪先を触れても、母蜘蛛の重い振動は返ってこなかった。
ようやく網から爪を外し、黒い腹の上へ降りる。
左脚は石や糸へ触れている感覚が薄い。
右の羽も畳むだけで痛んだ。
母蜘蛛の殻に開いた傷へ顔を寄せる。
苦い匂いに混じって、まだ温かい命の匂いが残っていた。
もう一度、牙を入れる。
さっきのような抵抗はない。
吸い込んだ体液が喉を通り、空っぽになりかけていた体へ広がっていく。
毒の痺れは消えないが、羽を支える力は少し戻った。
飲みすぎる前に牙を抜く。
母蜘蛛の体は、今の俺が一度で食い切れる大きさではない。
周りには、糸に巻かれた獲物も残っている。
今日、全部を食う必要はなかった。
そのことが、しばらく信じられなかった。
目を覚ましてからずっと、次に食えるものがあるかも分からなかった。
死骸を見つければ、腐っていても口をつけた。
奪われそうになれば、傷があっても噛みついた。
今は、食い切れないほどの死骸が目の前にある。
そのどれも、今すぐ奪われることはない。
右の羽を動かすと、すぐに傷が引きつった。
喜ぶより先に、休める場所を探す。
母蜘蛛が死んでも、黒巣が安全になったとは限らない。
崩れた網の上には、潰れていない卵が残っている。
空洞の奥からは、まだ小さな振動が返ってきた。
子蜘蛛ではない。
糸に巻かれた獲物のどれかが、弱く動いている。
俺は母蜘蛛の腹から壁へ移り、巣の上側を回った。
粘つく糸を全部剥がすことはできない。
自分が通る場所だけを決め、邪魔な糸へ牙を入れる。
一本を切ると、その先につながっていた網が少し沈んだ。
もう一本は残した。
細い魔物なら絡まり、大きな魔物が触れれば振動で分かる。
母蜘蛛が作った巣は、俺にとっても使える。
壁の高い場所に、浅い窪みがあった。
入口は狭く、奥は俺が丸まれる程度に広がっている。
下の網へも、外巣へ戻る道へも音が届く。
入口は、母蜘蛛の脚一本が入るほどの幅もない。
中に残っていた糸を噛み切り、爪で外へ押し出す。
乾いた骨の欠片が一つ出てきた。
誰かが使っていた跡は、それだけだった。
俺は窪みへ体を入れた。
石へ腹をつけると、張っていた力が抜けていく。
目を閉じるつもりはなかった。
少しだけ休む。
そう思ったところで、意識が途切れた。
◇
目を覚ますと、空洞は変わらず暗かった。
左脚の痺れは薄くなっている。
爪を閉じれば、石を掴んだ感覚も分かった。
右の羽の傷は乾いていたが、大きく広げるとまだ痛む。
眠っている間に、何かが入ってきた形跡はない。
窪みから頭だけを出し、糸へ触れる。
巣の奥で、小さな振動が一度返った。
生き残った子蜘蛛かと思ったが、同じ場所からもう一度、弱い心音が聞こえる。
昨日、途中まで血を吸った洞窟鼠だった。
母蜘蛛が死んでも、糸の中からは逃げられない。
俺は網の上を進み、洞窟鼠を包む糸へ降りた。
鼻先だけが外へ出ている。
心音は昨日より弱いが、まだ生きていた。
首の傷へ牙を入れ、必要な分だけ血を吸う。
温かい血が入ると、左脚に残っていた痺れがさらに遠のいた。
洞窟鼠の心臓が遅くなる前に、牙を抜く。
糸は解かなかった。
死なせずに残せば、次も新しい血を吸える。
そう考えた自分に、驚きはなかった。
洞窟鼠の呼吸を確かめ、近くに吊られていた乾いた死骸を一つ下へ落とす。
食うものは、ほかにもある。
死骸の肉を少し噛み取り、窪みへ運んだ。
一度では足りず、同じ道を何度か往復する。
飛ぶたびに右の羽は痛んだが、昨日より体は動いた。
食料を奥へ寄せたあと、ステータスを開く。
――――――――――
名前:なし
種族:古血蝙蝠
種族ランク:E
進化段階:第2段階
Lv:15
HP:26/36
MP:8/8
筋力:14
耐久:17
敏捷:24
感知:27
魔力:6
器用:15
精神:14
状態:
軽度因子過負荷
黒巣毒・軽度
種族特性:
夜目Lv2
微弱音波Lv2
壁面適応Lv2
吸血Lv3
古血適応Lv1
嗅覚・最下位Lv2
飛行Lv2
竜眼・最下位
固有スキル:
因子吸収Lv1
スキル:
竜因子適応Lv1
因子吸収補助Lv1
飢餓耐性・最下位Lv1
粘着耐性・最下位Lv1
糸感知・最下位Lv3
毒耐性・最下位Lv1
称号:
異界より転じた魂
最弱幼体
古き帝の血を啜ったもの
保有因子:
洞窟鼠因子
血吸い蛭因子
古代竜帝因子
骨舐め鼠因子
薄羽虫因子
血吸いコウモリ因子
灰糸蜘蛛因子
石皮トカゲ因子
大灰糸蜘蛛因子
黒巣母蜘蛛因子
――――――――――
数字が増えている。
それでも、健康な母蜘蛛より強くなったわけではない。
正面からもう一度戦えば、次も勝てるとは思えない。
何日もかけて巣を削ったから、最後の牙が届いた。
表示を閉じ、巣の下へ向かった。
崩れた網の一部は、母蜘蛛の巨体と一緒に下へ落ちている。
その向こうに、今まで見えなかった穴が開いていた。
冷たい空気が下から上がってくる。
濡れた土と、知らない魔物の匂いも混じっていた。
短く鳴くと、音は狭い穴を抜け、その先にある広い空洞から返ってきた。
遠くから返った音の中に、ゆっくり動く大きな影があった。
今の俺が近づく相手ではない。
けれど、道は覚えた。
穴を離れ、黒巣へ戻る。
途中で、小さな洞窟鼠が網の端から顔を出した。
俺に気づいた途端、体を翻して岩陰へ逃げていく。
追わなかった。
黒い網の上には、まだ食えるものが残っている。
俺は高い窪みへ戻り、逆さになって爪をかけた。
下には母蜘蛛の死骸と、残された獲物と、奥へ続く穴がある。
もう、ここから追い出そうとするものはいなかった。




