第028話 黒巣母蜘蛛との戦い
並んだ眼が、一斉にこちらを向く。
俺の爪が眼へ届く前に、長い前脚が横から迫った。
避けきれない。
体を捻った直後、脚の先が脇腹を掠めた。
飛ぶ向きがずれ、俺は横の網へ叩きつけられる。
灰色の糸が羽と背中へ貼りついた。
爪を動かすたび、別の糸まで毛へ絡んでくる。
母蜘蛛の脚が持ち上がった。
このままでは、網ごと潰される。
俺は体を丸め、貼りついた糸へ噛みついた。
粘つく糸は牙から離れないが、前ほど体を固められない。
爪で一本ずつ剥がし、網の隙間へ転がり込む。
直後、太い脚がさっきまでいた場所を貫いた。
網が裂け、吊られていた小さな骨が下へ落ちる。
俺は壁へ飛び移り、爪をかけた。
黒巣母蜘蛛の背中へ落とした死骸は、石まで届かず、網へ半分沈んでいた。
母蜘蛛が体を起こすたびに死骸も揺れるが、後ろ脚の一本が下敷きになっている。
網はあれだけ揺れたのに、周囲から子蜘蛛の脚音は返ってこない。
脚の付け根にある黒い殻には、細い亀裂が入っていた。
それでも、母蜘蛛は止まらない。
残った七本の脚だけで、死骸を背負った巨体を持ち上げていく。
落としただけでは、足りなかった。
残った脚が網を踏み直すと、空洞中の糸が一斉に張った。
壁の近くにあった隙間が狭まり、下へ垂れていた網が持ち上がる。
巣そのものが、俺の逃げ道を塞いでいく。
母蜘蛛の腹が持ち上がり、その先から吐き出された太い糸が壁を打つ。
俺は爪を離して落ちた。
二本目の糸が頭の上を通り、三本目が右の羽の端へ触れる。
羽が後ろへ引かれた。
乾いていた傷が開き、熱い痛みが走る。
俺は体ごと糸へ牙を立てた。
一度では切れない。
母蜘蛛が糸を引くたび、右の羽が広げられる。
もう一度噛み、爪で同じ場所を裂いた。
糸が切れ、俺の体が下へ落ちる。
羽を打つと、痛みで右だけが遅れた。
それでも床へは落ちず、低い網の上を掠めて飛ぶ。
後ろから、何本もの脚が石と糸を叩いていた。
短く鳴く。
母蜘蛛の体と、前へ伸ばされた二本の脚が音の中に浮かんだ。
頭の位置も分かる。
俺は低い網を蹴り、黒い頭へ向きを変えた。
前脚の間を抜け、並んだ眼へ爪を振るう。
硬い感触のあと、一つだけが潰れた。
黒い液が爪先につく。
母蜘蛛の体が大きく揺れた。
今度は避けるより先に、横から来た脚へ弾き飛ばされた。
背中が吊られた獲物へぶつかる。
息が抜け、爪が離れた。
眼を一つ潰しても、動きは鈍っていない。
網へ触れている限り、あいつには俺の位置が分かる。
頭上で糸が鳴った。
見上げると、二本の前脚が左右から閉じてくる。
その間に、牙があった。
俺は吊られた獲物を蹴り、下へ飛び降りた。
牙の片方が左の後ろ脚を掠める。
傷は浅い。
そう思った直後、焼けるような痺れが脚の先から広がった。
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状態異常【黒巣毒・軽度】が発生しました。
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左の爪が閉じない。
壁へ着こうとしても、片方の脚が石を滑る。
母蜘蛛は急がず、網を踏みながら近づいてくる。
母蜘蛛の脚が網を踏むたび、逃げ道になっていた隙間が糸で塞がれていく。
正面から飛べば叩かれる。
網へ降りれば場所を知られる。
右の羽は痛み、左の脚には力が入らない。
痺れは止まらず、少しずつ脚の付け根へ上がっている。
このまま広がれば、飛べても壁には止まれない。
母蜘蛛の巣で戦う限り、隠れる場所はなかった。
近くで、速い心音がした。
さっき血を吸った洞窟鼠ではない。
俺がぶつかった大きな糸の塊から聞こえている。
中の魔物はまだ生きていた。
母蜘蛛の前脚が伸びる。
俺は糸の塊へ爪を入れ、外側の糸を裂いた。
中から茶色い前脚が飛び出し、続けて見覚えのある尖った鼻と細い尾が現れた。
骨舐め鼠だ。
残った糸を裂くと、そいつは頭から下の網へ落ちた。
骨舐め鼠は糸を引きずったまま暴れ、壁際へ走ろうとする。
網の上を、俺より大きな振動が横切った。
母蜘蛛の頭がそちらへ向く。
長い脚が逃げる骨舐め鼠の前へ落ち、網ごと進路を塞いだ。
骨舐め鼠が向きを変え、吊られた死骸へ体をぶつける。
網が何層も揺れた。
別の前脚が骨舐め鼠の背中へ突き刺さり、温かい血の匂いが広がる。
母蜘蛛の頭が、押さえつけた獲物へ下がった。
俺はその振動へ、自分の羽音を重ねた。
低く飛び、母蜘蛛の腹の下へ入る。
頭上では、長い脚が骨舐め鼠を追って動いていた。
背中に落とした死骸はまだ残り、後ろ脚の一本を押さえている。
狙うのは、殻に亀裂が入った付け根だ。
俺は網を蹴り、動かない脚へ飛びついた。
爪を亀裂へ差し込む。
硬い殻は開かない。
体を捻り、もう一度同じ場所を掻いた。
母蜘蛛の脚が震える。
上で骨舐め鼠の鳴き声が途切れた。
大きな振動が止まり、俺の動きだけが網へ残る。
黒巣母蜘蛛が、こちらへ体を向けた。
前脚が戻ってくる。
俺は亀裂へ牙を入れた。
噛み砕けない。
それでも、離さずに爪を押し込む。
母蜘蛛が下敷きになった脚を強く引いた。
巻かれた死骸がずれ、押さえられた関節が嫌な音を立てる。
亀裂が、牙の間で広がった。
迫った前脚が背中を掠める。
俺は体を伏せ、開いた殻の隙間へ爪を突き立てた。
脚が大きく跳ね、黒い体液が傷口から滲んだ。
母蜘蛛が脚を振り上げる。
傷へしがみついた俺の体も、網から持ち上げられた。
左の脚は痺れ、右の羽も大きく広げられない。
下には、何層もの粘つく糸がある。
俺は、その傷から離れなかった。




