第027話 母蜘蛛の巣
大灰糸蜘蛛の腹を食えるだけ食い、俺は巣の奥で眠った。
目を覚ました時には、右の羽の傷は乾いていた。
傷はまだ塞がりきっておらず、羽を大きく広げると痛む。
それでも、飛べる。
入口に残した太い糸は、眠る前と同じ場所にあった。
時々、遠くから重い振動が伝わってくる。
そのたびに、大灰糸蜘蛛の死骸へつながっていた糸がわずかに張った。
重い振動は、同じ方角から返ってくる。
外巣を壊しても、母蜘蛛がいればまた卵を産む。
待つほど網は張り直され、子蜘蛛もまた増える。
このまま巣にいれば、また別の蜘蛛が来るかもしれない。
俺は残った死骸を壁際へ押し込み、右のひびへ入った。
太い糸には触れず、その横を進む。
曲がり角へ来るたび、一度だけ爪先を糸へ乗せた。
細かな振動は近くを動く灰糸蜘蛛のもので、間を空けて返る重い振動は母蜘蛛のものだ。
今なら、どちらが近くにいるかも分かる。
糸から爪を離し、石の上を進んだ。
外巣へ近づくと、灰糸蜘蛛の匂いより先に潰れた卵の匂いがした。
崩した網は、そのままではなかった。
切れた糸が端へ寄せられ、残っていた卵の塊も消えている。
下の尖った石には、死んだ子蜘蛛だけが残っていた。
逃げた一匹か、別の蜘蛛が奥へ運んだらしい。
俺は亀裂の入口で短く鳴いた。
網の奥から下へ伸びる太い糸と、その周りを動く一匹分の脚が返ってくる。
母蜘蛛の振動は、さらに下だ。
正面の網を通れば、残った蜘蛛に見つかる。
俺は外巣の壁を回り、前に噛み切った支え糸の跡まで進んだ。
崩れた網と壁の間に、体一つ分の隙間が残っている。
羽を畳んで抜けると、太い糸が伸びる亀裂の上へ出た。
暗い穴の中を、灰糸蜘蛛が一匹登ってくる。
まだ、こちらには気づいていない。
俺は近くの糸を爪先で弾き、少し離れた場所へ振動を送った。
灰糸蜘蛛がそちらへ向きを変え、頭を石の陰へ入れた時、亀裂へ飛び込む。
右の羽が痛んで予定より沈んだが、通り過ぎる腹へ後ろから爪を入れた。
狭い亀裂では振り返れず、八本の脚が壁を叩く。
俺は頭と腹の継ぎ目へ牙を立て、動きが止まるまで離さなかった。
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灰糸蜘蛛を討伐しました。
経験値を取得しました。
――――――――――
俺は死骸を亀裂の端へ押し込み、太い糸を追って下へ降りた。
道はすぐに広がった。
壁から壁へ灰色の糸が張られ、下にあるはずの床も見えない。
外巣より広い空洞が、網の下まで続いている。
網は一枚ではなく、高さを変えて何層にも重なっていた。
糸と糸の隙間は狭く、羽を広げたまま通れる場所は少ない。
足を取られれば、下へ落ちる前に網へ絡め取られる。
糸には、白く巻かれた獲物がいくつも吊られていた。
乾いた死骸の匂いに、まだ新しい血と苦い体液の匂いが混じっている。
糸の下には、獲物から落ちた血が黒く溜まっていた。
骨舐め鼠、洞窟鼠、薄羽虫。
形が分からなくなるほど糸を巻かれた大きな魔物もいる。
少し離れた網には、首の肉が欠けた石皮トカゲの死骸があった。
俺が倒し、母蜘蛛に奪われたやつだ。
動かないものの方が多いが、網の端から小さな心音が聞こえた。
俺は壁を伝い、心音がする魔物の上まで進む。
洞窟鼠は糸に包まれ、鼻先だけを出したまま、かすかに呼吸している。
首の近くへ牙を入れると、温かい血が流れ込んできた。
洞窟鼠の体が糸の中で震える。
傷の痛みが少し遠のき、右の羽を広げやすくなった。
必要な分だけ吸い、牙を抜いた。
洞窟鼠の心音は、まだ続いている。
ここに長くは留まれない。
口元に残った血を舐め取り、太い糸へ爪先で触れた。
重い振動は真下ではなく、空洞の奥から返ってきた。
子蜘蛛の振動は、以前より少ない。
太い糸を辿り、吊られた獲物の間を進む。
動くたびに網へ振動が伝わるため、母蜘蛛の脚が動いた時だけ爪を移した。
重い震えに、自分の小さな振動を重ねる。
母蜘蛛の脚が止まれば、俺も動きを止めた。
細い糸が毛へ触れそうな場所では、爪だけで壁へしがみつく。
右の羽はまだ痛むが、血を吸う前より動かしやすい。
空洞の奥で、網が大きく沈んだ。
何重にも重なった糸の上に、黒い巨体がいる。
長い脚は壁と天井へ伸び、巣全体を押さえていた。
黒巣母蜘蛛だ。
前に回廊で見た時と違い、ここには逃げ込める細道がない。
何層にも重なった網のすべてが、母蜘蛛の足場になっている。
脚が一本動くだけで、吊られた獲物が一斉に揺れた。
腹の後ろには、運び込まれた卵の塊が並んでいる。
その上には、ひときわ大きな魔物の死骸が吊られていた。
俺の体の何倍もあり、その重さで網の中央が沈んでいる。
大きな死骸を支える糸は三本ある。
二本は天井の割れ目へ伸び、残りの一本は母蜘蛛の背後にある岩壁へつながっていた。
俺は壁を回り、一本目の根元へ近づいた。
母蜘蛛が脚を動かす。
網が揺れた瞬間に、糸へ牙を入れた。
一度では切らず、表面だけを裂く。
二本目にも同じ傷を入れた。
だが、糸を裂いた振動までは隠せなかった。
黒巣母蜘蛛の頭が、ゆっくりとこちらへ向く。
並んだ眼が、獲物の間にいる俺を捉えた。
長い前脚が一本、網から離れる。
逃げ道へ体を向けるのではなく、俺は傷を入れた糸へ飛んだ。
牙を深く入れ、一本目を切り落とす。
吊られた死骸が傾いた。
母蜘蛛が前脚を伸ばし、落ちかけた死骸へ糸を飛ばす。
その間に二本目へ爪をかけ、体を捻った。
裂けた糸が切れる。
残った一本では、大きな死骸の重さを支えきれない。
太い糸が伸び、巻かれた死骸が黒巣母蜘蛛の背中へ落ちた。
網が大きく沈み、長い脚が一斉に広がる。
俺は揺れる糸の間を抜け、母蜘蛛の頭へ飛んだ。




