第017話 巣を守る
灰糸蜘蛛の死骸を引きずりながら、俺は来た道を戻った。
壁と天井に張られた糸が震え、何匹もの足音が後ろから近づいてくる。
このまま死骸を運んでいれば追いつかれる。
俺は柔らかい腹へ牙を入れ、体を振って噛み切った。
殻に覆われた頭と脚はその場に残し、腹だけを咥えて飛ぶ。
肩の痺れで右の羽が遅れ、体が壁へ寄った。
すぐに左の羽を強く打ち、石へぶつかる前に向きを戻す。
背後で糸が大きく揺れた。
灰色の脚が一本、通路の曲がり角から出てくる。
俺は速度を上げた。
広い通路へ出ると、壁の高い位置に残した白い爪痕を探す。
その上に、巣へ続く細いひびがある。
腹の肉を咥えたまま壁へ爪をかけ、羽を畳んで中へ入った。
狭いひびなら、蜘蛛も脚を広げたまま追ってはこられない。
背中を石に擦りながら上り、巣の空洞へ戻る。
右のひびに置いた小骨が、俺の足に当たって床へ落ちた。
俺は咥えてきた腹を、残していた肉の横へ置いた。
肩の傷を確かめる。
牙を刺された場所は腫れ、右の羽を動かすと痺れが背中へ広がった。
今すぐ、もう一匹と戦える状態ではない。
右の道から逃げてきたばかりだが、左の道と最初に入ってきた割れ目は残っている。
何かが来ても、まだ逃げられる。
俺は落ちた骨を咥え、右のひびの前へ置き直した。
その時、右足に細いものが触れた。
灰色の糸が一本、爪の付け根に巻きついている。
さっき噛み切ったはずの糸とは別のものだ。
糸は右のひびの奥へ続いており、俺がここまで引いてきたらしい。
牙で噛み切ったが、遅かったかもしれない。
俺は蜘蛛の腹を空洞の奥へ押し込み、三つの入口が見える天井へ上がった。
右足の爪を天井へかけると、肩の傷が痛む。
左の爪にも体重を分け、羽を畳んだ。
しばらく、何も聞こえなかった。
遠くの水音と、左の道から流れてくるコウモリの匂いだけがある。
追ってこなかったのかもしれない。
そう思った時、右のひびに置いた骨が鳴り、軽い音を立てて床を転がった。
俺は天井へ体を寄せた。
ひびの奥で、何本もの脚が石を掻いている。
最初に灰色の前脚が出た。
続いて頭と丸い腹が、狭い石の間から押し出される。
さっき倒したものより少し小さいが、脚にも腹にも傷はない。
灰糸蜘蛛は空洞へ入ると、すぐに体をこちらへ向けた。
俺の血か、持ち帰った腹の匂いを追ってきたらしい。
その後ろでも、細いひびを擦る音がしている。
一匹だけではない。
だが、同時には入れない。
今なら、目の前の一匹だけを相手にできる。
左のひびへ逃げれば、巣は取られる。
保存した肉も、眠れる天井も、次に戻った時には糸で塞がれているかもしれない。
また別の隙間を探せば生きられる。
それでも、ようやく手に入れた場所を、何もせず明け渡すつもりはなかった。
灰糸蜘蛛が腹を持ち上げる。
俺は天井を蹴った。
灰色の糸が、さっきまでいた場所へ貼りつく。
空洞の中では翼を大きく広げられないが、向きを変えるには十分だった。
蜘蛛の背中を越え、最初に入ってきた割れ目の上へ爪をかける。
灰糸蜘蛛は床で体を回して俺を追ったが、糸のない石の上では回廊にいた時ほど速くない。
八本の脚が滑り、乾いた床を細かく掻いている。
俺は短く鳴いた。
返ってきた音で、目の前の蜘蛛と、右のひびの奥にいる別の一匹の位置が分かった。
目の前の蜘蛛が脚を縮めた。
飛びかかってくる前に、俺は先に床へ飛び出した。
灰糸蜘蛛の横を抜けると、前脚が左の羽を掠めた。
俺は床へ降りず、そのまま左のひびへ飛び込む。
羽を畳み、下へ傾いた石へ爪を立てる。
すぐ後ろから蜘蛛の脚が入ってきた。
前脚と頭は通るが、丸い腹が入口の石へ引っかかっている。
八本の脚を広げる場所もない。
俺はひびの中で体を反転させた。
灰糸蜘蛛の牙が目の前で開く。
届く前に、右の前脚へ噛みついた。
硬い殻を避けて細い関節へ牙を押し込むと、苦い体液が口に入った。
灰糸蜘蛛が前へ出ようとするたび、腹が石へぶつかる。
別の脚が俺の胸を引っ掻いたが、狭くて力が入っていない。
吸う。
脚から入ってくる量は少ないが、噛みついた前脚の動きは少しずつ弱くなる。
灰糸蜘蛛は前へ進むのを諦め、ひびから体を引き抜こうとした。
俺も牙を立てたまま、外へ引かれる。
爪が石を滑った。
空洞へ出た瞬間、蜘蛛が体を振る。
俺は床へ叩きつけられ、牙が脚から外れた。
すぐに灰色の腹がこちらへ向く。
糸が飛んだ。
右足が糸で床へ貼りつき、引かれた体が止まる。
前なら足ごと固められていたはずだが、今は爪に糸が絡んだだけで済んでいる。
俺は右足を捻って糸を爪先へずらし、粘つく感触を残したまま足を石から離した。
灰糸蜘蛛が弱った前脚を庇いながら近づいてくる。
右のひびの奥で、石を掻く音が近づいた。
次の一匹が、もう入口まで来ている。
時間をかければ挟まれる。
俺は床を蹴り、蜘蛛の頭を越えた。
動きの鈍い右側へ回り、腹と頭の間へ牙を入れる。
灰糸蜘蛛の脚が背中と羽を叩いた。
肩の傷に爪が当たり、痺れていた場所に鋭い痛みが走る。
離さない。
前の一匹と同じ場所だ。
殻の隙間から体液を吸うたび、蜘蛛の脚から力が抜けていく。
灰糸蜘蛛が右のひびへ逃げようとした。
戻れば、もう一匹と合流する。
俺は羽を広げ、蜘蛛の体を横から押した。
二匹で床を転がり、右のひびから離れる。
蜘蛛の腹が石へぶつかり、その衝撃で牙がさらに深く入る。
口の中へ苦い液体が溢れ、脚が一度だけ大きく跳ねて床へ落ちる。
俺は動かなくなってからも、しばらく牙を離さなかった。
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灰糸蜘蛛を討伐しました。
経験値を取得しました。
HPが微回復しました。
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固有スキル【因子吸収Lv1】が発動しました。
因子【灰糸蜘蛛因子】を追加取得しました。
灰糸蜘蛛因子の適応範囲が拡大しました。
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因子【灰糸蜘蛛因子】に含まれる壁面移動が種族特性【天井把握Lv1】へ統合されました。
種族特性【天井把握Lv1】が【壁面適応Lv2】へ変化しました。
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種族特性【壁面適応Lv2】
壁や天井でも姿勢を崩さず、安定して移動できる。
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右のひびから、石を掻く音が近づいてくる。
俺は床から壁へ爪をかける。
一歩目で、今までとの違いが分かった。
前なら爪をかけ直すたびに体が揺れ、羽で支えなければ横へ進めなかった。
今は爪を片方ずつ動かしても、体が壁から離れない。
俺は壁を上り、そのまま天井へ移った。
逆さになっても速度が落ちない。
右のひびから、別の灰色の脚が伸びてくる。
俺は天井から死骸の後ろへ回って脚の一本を咥え、空洞へ引き出すのではなく右のひびへ押し戻す。
丸い腹が入口へ引っかかり、細い道を塞いだ。
向こう側の蜘蛛が死骸を押し、灰色の脚が何本も隙間から伸びたが、狭くて空洞までは届かない。
俺は壁に張りついたまま、死骸の脚をさらに石の間へ押し込んだ。
しばらく向こうから引っ掻く音が続いたが、やがて遠ざかった。
完全にいなくなったかは分からない。
俺は天井を歩き、空洞の奥へ戻った。
そこには、保存した肉と持ち帰った蜘蛛の腹が置いたまま残っていた。
床には落ちた骨と灰色の糸が散らばり、まだ眠れる状態ではなかった。
俺は新しい小骨を一本咥え、塞いだ右のひびの前へ置いた。




