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最弱コウモリ幼体に転生したので、血を吸って進化する  作者: HATENA 
第6章 魔境を拓く者

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第113話 井戸はまだ使えない

 手の甲が赤くなっていく。


 掻きたい。


「触るな!」


 トアスが斜面の下から叫ぶ。


「水で流せ」

「町の水?」

「ほかの水を使うな!」


 ついていた衛兵が革袋を開く。


 俺は大サンショウウオから目を離さず、斜面を下がった。


 手の甲へ少しずつ水をかける。


 透明なものが流れ落ちた。


 痒みは残る。


 指は動いた。


「腫れは」

「まだ」

「口へ触るなよ」


 口と鼻には、セルカの布がある。


 大サンショウウオがもう一度尾を振った。


 ベルクは盾を斜めにし、正面から受けなかった。


 太い尾が表面を滑る。


「こいつ、下へ行く気がないぞ」


 衛兵が槍を横に構える。


「音を追ってる」


 俺たちが動くたび、小さな目が向いていた。


 窪地へ落ちた矢には、もう反応しない。


 近くにいる人間の方が、振動が大きい。


「全員止まれ」


 ベルクが言う。


 足が止まる。


 大サンショウウオの喉だけが動いた。


 尾の傷から、黒い血が泥へ混じっている。


 匂いが届いた。


 苦い。


 吸えば因子を取れるかもしれない。


 今は近づけない。


「下へ音を出せる?」


 リオナが小声で聞く。


「できる」

「矢より大きく?」

「大きくできる」

「強すぎたら、こっちへ来ない?」

「分からない」

「試す前に決めてください」

「弱くする」


 音撃を大サンショウウオへ向けず、窪地の先へ絞る。


 土の下にある石を探した。


 低い音をぶつける。


 鈍い響きが、斜面の下から返った。


 大サンショウウオの頭が動く。


 俺たちではなく、音を当てた石へ向いた。


「もう一度」


 リオナが言う。


 少し先の石へ音を送る。


 大サンショウウオが一歩進んだ。


 尾の傷が溝へ擦れる。


 体が跳ね、また俺たちへ振り返った。


「傷が当たる」

「溝が狭い」


 ベルクが盾を構えたまま答える。


「右の縁を崩せるか」


 衛兵が足元を見る。


「掘ってる間に来る」

「俺が止める」


 ベルクが一歩だけ前へ出た。


 大サンショウウオの頭も、そちらへ向く。


「動くなと言った」

「道を広げなきゃ動かん」

「なら、俺が掘る」


 左手で狩猟刀を抜いた。


 刃ではなく、厚い背を土へ入れる。


 溝の右側を削った。


 一度。


 大サンショウウオが動く。


 ベルクが盾を叩いた。


 音へ向かって、平たい頭が突き出される。


 大きな口が盾の縁を挟んだ。


「今だ」


 土を掻き出す。


 リオナも弓を置き、短い罠杭で溝を広げた。


 衛兵の一人が槍の柄を大サンショウウオの顎へ当てる。


 刺さずに、ベルクの盾から口を離した。


 透明な粘液が槍の柄へつく。


「その手で顔に触るなよ!」


 トアスの声が飛んでくる。


「分かってる!」


 溝の縁が崩れた。


 尾の傷が当たっていた石を、横へ転がす。


「空いた」


 ベルクが盾を引く。


 大サンショウウオの口が泥を噛んだ。


 すぐに頭が上がる。


「音を出す」


 斜面の下へ、もう一度音撃を送った。


 大サンショウウオが向きを変える。


 広げた溝を進んだ。


 今度は尾が石へ当たらない。


 一歩。


 もう一歩。


 窪地の先には、細い谷が続いている。


 水は流れていないが、底の土は湿っていた。


「あそこまで行けば」

「まだ近い」


 ベルクは盾を下ろさなかった。


 音を少し先へ移す。


 大サンショウウオが追う。


 谷の入り口で、前脚が止まった。


 頭を左右へ振る。


 俺が立っている場所からは、谷の先が見えない。


 リオナが斜面の上を回った。


「先に水があります」

「井戸とつながってる?」

「地表を流れる細い沢です」

「下流は」


 衛兵が聞く。


「畑には向かってません」

「人は」

「道からも離れます」


 トアスが瓶を荷台へ置き、谷の泥を見た。


「沢へ入れば、ぬめりは薄まる」

「ほかの生き物は」

「無害にはならん」

「なら、ここで殺す?」

「死骸を残す方が悪い」


 毒肌サンショウウオは、傷ついたまま生きている。


 沢へ下りれば、どこへ行くかは分からない。


 それでも、井戸の中よりは流れがある。


「進ませる」


 ベルクが決めた。


「道へ戻ったら止める」

「どうやって」

「その時は刺す」


 逃がすために、殺す準備も残した。


 リオナが沢の手前へ矢を射る。


 俺は、その先の石へ音を当てた。


 毒肌サンショウウオが谷へ入る。


 灰白い体が、低い草の間を進んだ。


 尾の血が葉へ残る。


 途中で一度だけ振り返った。


 誰も動かない。


 小さな目は俺たちを見分けられず、また水音の方へ向いた。


 やがて、長い尾まで谷の奥へ消えた。


 すぐには追わない。


 音を返し、離れていく重い体を確かめる。


 沢へ下りたところで、振動が水音へ混じった。


「戻る?」


 リオナが聞く。


「今は離れてる」

「今は、か」


 ベルクが盾についた粘液を見る。


「井戸へ戻れんように、入口を塞ぐ必要がある」

「先に洗う」


 トアスが全員を止めた。


 盾。


 槍の柄。


 靴。


 飛沫がついた場所へ、町の水を少しずつかける。


「それで足りる?」

「帰ったら灰汁でも洗え」

「今は」

「口へ入れないことが先だ」


 俺の手の甲は赤いままだった。


 最初より痒みは弱い。


 毒耐性がなければ、もっと腫れていたかもしれない。


 水抜きへ戻る。


 石蓋の奥には、灰色の石が崩れていた。


 毒肌サンショウウオが通ってきた側を塞ぎ、外へ出る側だけが残っていた。


 雨で水が増えた時に押し込まれ、戻れなくなったらしい。


 体を動かすたびに皮膚を削り、流れない水へ粘液を落としていた。


「三人が飲んだのは」


 リオナが瓶を見る。


「こいつが中で傷つき続けた水だ」


 トアスが答えた。


「井戸は」

「まだ使えん」


 魔物がいなくなっても、濁った水は残っていた。


 毒肌サンショウウオが消えた谷から、振動は戻ってこなかった。


 ベルクは、それでも一人を見張りに残した。


「沢から上がってきたら呼べ」

「戦わなくていい?」

「一人で止めるな」


 衛兵が谷の見える斜面へ立つ。


 残る五人で、水抜きの周りを調べた。


 崩れた石は、水路の奥から押されている。


 古くなって落ちたものと、新しく削れたものが混じっていた。


「これが先か、あいつが先か」


 リオナが石を拾う。


「先に少し崩れたんだろう」


 ベルクが答える。


「雨で流れ込んだ大サンショウウオが、戻ろうとして広げた」

「全部崩したのは?」

「両方だ」


 魔物だけを追い出しても、古い水路は直らない。


 水抜きを塞げば、次の雨で水が井戸へ戻る。


 開けたままなら、別のものが入る。


「今日できるのは、応急だけだ」


 ベルクが石蓋を見る。


「水は流し、胴は通さない」


 石蓋を元の位置へ戻す。


 完全には閉めず、下へ拳一つ分の隙間を残した。


 太い枝を二本、斜めに打ち込む。


 その外へ石を積み、大きな体が正面から押せないようにした。


 細い水は、枝の間を通って溝へ流れる。


「大サンショウウオには狭い?」


 リオナが聞く。


「頭は入らない」

「小さい魔物は」

「入る」

「完全じゃない」

「応急だ」


 ベルクは短く答えた。


 トアスが、水抜きから流れた水を三つの場所で匙へ取る。


 蓋のすぐ下。


 溝の途中。


 窪地の底。


「瓶は二本しかない」


 俺が言う。


「匙で匂いと濁りを見るだけだ」

「混ぜる?」

「混ぜたら違いが消える」

「持ち帰らない?」

「井戸水と粘液がある」

「三本要った」

「次は持つ」


 トアスは自分で答えた。


 流れるほど、透明な糸は減っていた。


 窪地の底では、甘い匂いも弱い。


 水が動けば薄まる。


 井戸の中は、そうなっていない。


「蓋をもう一度開ける?」


 リオナが井戸を見る。


「今日は開けん」


 トアスが言う。


「持ち帰った水を見て、洗い方を決める」

「洗う?」

「中の水を全部汲み出すか、流れが戻るまで捨て続ける」

「いつまで」

「何度か採って、ぬめりが消えるまでだ」

「明日には」

「使えん」


 第二見張り小屋の扉を開ける。


 置いていた灯油と豆は、そのままだった。


 交換用の灯り覆いも、机にある。


 人が戻れないまま、物だけがそろっている。


 ベルクが伝令用紙へ線を引く。


「書くことが多い」

「調査依頼ですから」


 リオナが覗く。


「見えん」

「逆さです」


 紙の向きを変える。


 ベルクは何も言わず、そのまま書いた。


 水抜きの位置。


 崩れた範囲。


 毒肌サンショウウオが一匹。


 沢へ移動し、討伐していない。


 井戸は使用禁止のまま。


「水を運ぶ人も要る」


 衛兵が言う。


「一号と三号から交代で運ぶ」

「二号へ見張りを戻す?」

「飲み水と便所の水を分けられる量が来てからだ」

「灯りは」

「今夜も一号が二つ送る」


 止まった灯りは、今日も戻らない。


 小屋を閉め、第一見張り小屋へ戻った。


 谷を見ていた衛兵も合流する。


「戻ってきた?」

「沢を下った音が一度した」

「上には」

「来てない」


 夕方まで、手の甲に新しい腫れは出なかった。


 赤みと痒みは残っている。


 トアスがもう一度、町の水で洗った。


「舐めてないな」

「舐めてない」

「手だけじゃなく、盾や槍も」

「洗った」

「ならいい」


 その夜は、第一見張り小屋で眠った。


 屋根の灯りが二度開く。


 町からも二度、返事が来た。


 朝になっても、毒肌サンショウウオは戻らなかった。


 俺たちは検体を積み、町へ向かった。


 片靴亭の残りは、一泊になっている。


 東門へ着くと、トアスは俺たちを待たず薬師組合へ走った。


「逃げた?」

「持ってるものを見ろ」


 ベルクが言う。


 トアスの腕には、二本の瓶が抱えられていた。


 ギルドより先に、治療所へ寄る。


 ジルの寝台の周りには、姉とセルカがいた。


 昨日まで閉じていた目が、少しだけ開いている。


「起きた?」

「朝に」


 セルカが答える。


「話せる?」

「まだ一言だけ」

「何て」


 姉が木杯を持ち上げた。


「水」


 中に入っているのは、町の井戸水だった。


 ジルは自分で飲めない。


 姉が少しずつ口へ運んでいる。


「原因は」


 セルカが聞く。


「毒肌サンショウウオ」

「倒した?」

「逃がした」

「どうして」

「井戸のそばで殺すと、もっと水が汚れる」


 セルカは俺の手を見る。


「触った?」

「飛んできた」

「先にそっちを洗います」

「もう洗った」

「薬を塗るのは別です」


 治療所へ残されそうになる前に、ベルクが手を上げた。


「報告が先だ」

「終わったら戻してください」

「本人へ言え」

「戻ってきて」

「分かった」


 ギルドの報告卓には、ネラと領主側の書記が待っていた。


 ベルクが紙を置く。


 見つけた水抜きと採取した水、粘液、水路に挟まっていた魔物について、ベルクは順に説明した。


 殺さず沢へ出した理由と、応急で取りつけた蓋のことも伝える。


「調査範囲は完了とします」


 ネラが依頼票へ印をつけた。


「井戸の復旧は?」

「別の工事になります」

「大サンショウウオの討伐は」

「沢から人の道へ出た痕跡があれば、別途出します」

「出なかったら」

「追いません」


 領主側の書記が言う。


「魔物がいたことと、見つけた魔物をすべて殺すことは同じではありません」


 俺とリオナは、銀貨二枚と銅貨四枚ずつ受け取った。


 所持金は銀貨四枚と銅貨五枚になった。


「Dランクの印は」


 俺が聞く。


「参加記録です」


 ネラが登録証とは別の紙へ印を押す。


「Eランク依頼の完了数には入りません」

「役に立たない?」

「昇格審査では見ます」

「なら、役に立つ」


 リオナが自分の紙を受け取る。


「次も誘う?」

「水の依頼じゃなければ」

「井戸は嫌い?」

「井戸の中から大きな魔物が出る依頼は嫌です」

「今回は横から出た」

「もっと嫌です」


 外へ出ると、治療所の前にトアスがいた。


「何してる」

「戻ってくると言っただろ」


 俺の手へ、薬の入った小さな壺を押しつける。


「これを塗れ」

「いくら」

「依頼の治療費だ」

「余ったら」

「返せ」

「使ったら」

「返すな」


 片靴亭へ戻る。


 主人が鍵を見るなり、指を一本立てた。


「明日の朝までだよ」


 まだ薬も塗っていなかった。

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