第112話 地図にない水抜き
泥の跡は、井戸の北側から斜面へ伸びていた。
水が一度流れ、乾いた後だけが草へ残っている。
リオナが跡を追う。
俺は少し離れ、地面の下にいるものを探した。
石を擦る音は止まっている。
水だけが、丘の中を流れていた。
「ここで消えます」
リオナが立ち止まる。
斜面の途中に、棘の多い低木が生えている。
根元の泥だけが、ほかより黒かった。
枝を持ち上げる。
奥に、四角く切られた石が見えた。
「壁?」
「蓋です」
リオナが土を払う。
平たい石の端に、指をかけるための窪みがあった。
衛兵の一人がしゃがむ。
「こんなもの、図にあったか」
「ない」
トアスが持ってきた図を広げる。
井戸。
小屋。
北側には、何も描かれていない。
「古い水抜きかもしれん」
もう一人の衛兵が言った。
「知ってた?」
「三号の井戸にはある」
「何を抜く」
「雨の後に水が増えすぎた時、横へ逃がす」
「二号にも?」
「今まで見たことはない」
石蓋の下へ耳を近づけないまま、左手を地面につく。
空洞がある。
狭い。
井戸の北側から斜面へ向かって、石を組んだ道が延びている。
その奥に、重いものが触れていた。
「下にいる」
全員が石蓋から離れた。
「すぐそこか」
ベルクが丸盾を構える。
「道の奥」
「どのくらい」
「井戸より近い」
音を返す。
石蓋。
細い水路。
途中で、音が柔らかいものへ吸われた。
輪郭が広がる。
石と石の間を埋めるように、何かが横たわっている。
「大きい」
「井戸から出られる大きさか」
「分からない」
「この水抜きからは」
石蓋の幅を見る。
俺の肩より少し広い。
「そのままは無理」
「脚や頭だけなら?」
「分からない」
トアスが図を畳んだ。
「開けるなよ」
「調べるために来た」
ベルクが言う。
「井戸の蓋は、開ける順番を決めた」
「これは図にもなかった穴だ」
「だから、先に周囲を見る」
リオナが低木の向こうへ回る。
斜面を下り、石蓋の下側を探した。
「続きがあります」
枝の間から声がする。
水抜きは石蓋で終わっていなかった。
斜面を下る細い溝が、土と枯れ葉に埋もれている。
少し先には、腰ほどの深さがある窪地があった。
雨水を一時的にためる場所らしい。
「水が出ても、小屋へ戻らないようにできてる」
リオナが溝へ落ちた枝をどける。
「今は埋まってます」
「どこまで」
「ほとんど全部」
衛兵が枯れ葉を蹴る。
下には黒い泥が詰まっていた。
「何年も使ってないな」
「なら、なぜ水が流れた」
ベルクが石蓋を見る。
雨で増えた水が、塞がった水抜きへ入った。
外へ流れきれず、どこかから地表へ染み出した。
その中に、透明なものが混じっていた。
「水抜きを開ければ、中を見られる」
衛兵が言う。
「中のものも出る」
トアスが返す。
「先に外の溝を開ける」
ベルクが決めた。
「水が流れても、下へ逃げるようにする」
「中のものが出たら」
「下へ逃げる道にもなる」
「俺たちの逃げ道は」
「左右だ」
全員で、溝へ詰まった枝と泥を除いた。
俺は右腕を使わず、左手で枝を運ぶ。
リオナは細い棒を土へ刺し、溝の端を探した。
トアスも手袋をつけたまま泥を掻いている。
「水見も掘るんだ」
「見えるところまで出さなきゃ、水は見えん」
「逃げるだけかと思ってた」
「逃げる道も掘ってる」
窪地まで溝がつながった。
泥の下から、小さな石樋が出てくる。
古いが、割れてはいない。
「これを作った人間なら、図を残せ」
トアスが泥を払った。
「残した図を、後の人間が失くしたのかもしれん」
衛兵が言う。
「どっちでも今はない」
石蓋へ戻る。
甘い匂いは、さっきより強くなっていた。
中にいるものが、また動いている。
石を擦る音ではない。
濡れた体を、狭い水路へ押しつけていた。
「起きた」
ベルクが全員を見る。
「トアスは窪地より下」
「水を見られない」
「出た後に見ろ」
「出ると決まってない」
「出なければ呼ぶ」
トアスは瓶を抱え、斜面を下りた。
衛兵一人がついていく。
残る四人で、石蓋から距離を取る。
縄を窪みへかけ、斜面の横へ通した。
正面に立たず、引ける形にする。
「少しだけ動かす」
ベルクが言う。
「水が出たら止める」
「脚が出たら」
リオナが短弓を持つ。
「撃つな」
「近づいたら?」
「目か口の前へ射て」
「体には」
「相手が何か分かるまで撃つな」
ベルクと衛兵が縄を引いた。
石蓋は動かない。
土へ埋まり、縁が固まっている。
「もう少し」
縄が張る。
石の下で、何かが動きを止めた。
「待って」
ベルクが手を上げる。
水路の奥から、低い振動が来る。
一度。
石蓋の裏へ、柔らかいものが当たった。
土がこぼれる。
「離れろ」
四人が斜面の左右へ分かれた。
石蓋は持ち上がらない。
代わりに、隙間から濁った水が滲み出した。
透明な糸を引きながら、開けた溝へ落ちる。
窪地にいるトアスが、柄の長い匙で水を受けた。
「触るな」
自分で言いながら、匙の上で濁りを確かめる。
「何か分かる?」
リオナが聞く。
「皮膚の粘液だ」
「魔物?」
「大きい水棲種」
「名前は」
「姿を見なきゃ決められん」
石蓋の下で、もう一度体が動いた。
今度は、蓋の端がわずかに浮き、灰白い皮膚が隙間へ押しつけられた。
それが膨らむ。
息をしている。
水が押し出され、開けた溝へ流れた。
「生きてる」
「見れば分かる」
トアスが窪地から下がる。
「何かは」
「まだ頭も見えてない」
皮膚が一度引っ込んだ。
石蓋の下で、鈍い音がする。
今度は強くぶつかった。
蓋の端が持ち上がり、握り拳ほどの隙間が開く。
平たい鼻先が出てきた。
目は小さい。
口は、頭の端から端まで横へ裂けている。
竜眼が名前を拾った。
【毒肌サンショウウオ】
「毒肌サンショウウオ」
トアスの足が止まった。
「合ってる?」
「灰白い皮膚なら」
「毒は」
「皮のぬめりだ」
トアスが瓶を胸へ抱える。
「触ってもすぐ死にはせんが、口に入れるな」
「三人が飲んだ」
「たぶん何日分もな」
大サンショウウオが鼻先を振る。
石の角へ皮膚が擦れ、透明なものが糸を引いた。
井戸で採ったものと同じだった。
「蓋を戻せるか」
ベルクが聞く。
「頭が挟まってる」
「押し込むな」
トアスがすぐに言った。
「中で傷が増えれば、また水へ混じる」
「出すのか」
「ここで殺すよりはましだ」
「出した後は」
「俺に聞くな」
「水見だろ」
「魔物使いじゃない」
大サンショウウオの前脚が隙間から出た。
短いが、太い。
指の間に膜があり、石へかけた爪は黒かった。
蓋を押す。
固まっていた土へ亀裂が走った。
「縄を放せ」
ベルクが言う。
蓋へかけた縄を緩める。
石は落ちなかった。
頭と前脚に支えられ、斜めになっている。
「正面を空ける」
ベルクが斜面の左へ動いた。
「出るなら、溝を下らせる」
「こっちへ来たら」
衛兵が槍を構える。
「盾より前へ出るな」
「刺すな?」
「近づけないために使え」
リオナは溝の反対側へ回る。
短弓へ矢をつがえたが、まだ引かない。
俺は石蓋の右に残った。
下にいるものの全体を探す。
頭。
太い胴。
長い尾。
水路の奥で、尾の先だけが曲がっている。
「後ろが動いてない」
「挟まってる?」
「たぶん」
前へ出ようとしても、胴が途中で止まる。
後ろへ戻ろうとしても、尾が石へ当たった。
同じ場所を何度も擦っていたのは、そのためだった。
「崩れた水路へ入って、抜けなくなったか」
ベルクが石蓋の向こうを見る。
「雨で水が増えた時に来た?」
「五日前なら、水が変わった頃と合います」
リオナが答える。
トアスが斜面の下から声を上げる。
「体を裂くなよ」
「分かってる」
「槍を向けてるやつにも言え」
「聞こえてる」
衛兵は槍先を少し下げた。
大サンショウウオが、口を開く。
歯は細かい。
鳴き声は出なかった。
代わりに喉が膨らみ、石蓋へ頭をぶつける。
蓋がさらに浮いた。
このまま出そうとすれば、自分で皮膚を削る。
「蓋を上げる」
俺が言う。
「近づくな」
「縄なら離れて引ける」
ベルクが縄を見る。
斜面の横へ通したまま残っている。
「上げた途端に来るぞ」
「出さなければ水が汚れる」
「調査は終わってる」
「こいつは残る」
ベルクは答えなかった。
大サンショウウオがもう一度暴れた。
井戸の方から、石の落ちる音が返ってくる。
水路が崩れれば、井戸の壁まで持っていかれるかもしれない。
「上げる」
ベルクが決めた。
「全員、溝から離れろ」
トアスと衛兵一人が、さらに斜面を下る。
残る衛兵がベルクの後ろにつく。
リオナは高い側。
俺は縄の端を左手で握った。
「右腕は」
「使わない」
「三つ数える」
ベルクが盾を前へ出す。
「一」
大サンショウウオの前脚が土を掻く。
「二」
縄を張る。
「三」
左手と背中で引いた。
石蓋が持ち上がる。
衛兵が別の縄を引き、斜面の横へ倒した。
大サンショウウオの頭と両前脚が外へ出る。
胴は、俺の肩幅より太かった。
全身が透明な粘液に覆われている。
「下へ行け」
ベルクが盾で左側を塞ぐ。
右には俺がいる。
正面の溝だけが空いている。
大サンショウウオは動かなかった。
小さな目が、順に俺たちへ向く。
地面へ腹をつけたまま、喉が膨らんだ。
「見えてる?」
リオナが聞く。
「目は悪い」
トアスが斜面の下から答える。
「振動で寄る」
その声へ、大サンショウウオの頭が向いた。
「声も振動だろ!」
衛兵がトアスを下がらせる。
大サンショウウオが前へ出た。
後脚まで水路から抜ける。
長い尾の先は、皮膚が大きく裂けていた。
血と粘液が、水路の石へ残っている。
「傷ついてる」
「だから暴れる」
ベルクが盾を溝の左へ寄せる。
大サンショウウオは下へ進まず、声のした方へ向きを変えた。
「前へ音を出して」
リオナが矢を地面へ放つ。
溝の下で、矢尻が石へ当たった。
大サンショウウオがそちらを向く。
一歩。
腹を引きずりながら、溝へ入った。
「もう一度」
次の矢が、さらに下へ刺さる。
大サンショウウオは追った。
そのまま窪地へ下りる。
うまくいくと思った。
窪地の泥へ前脚が沈んだ瞬間、体が大きく跳ねた。
傷ついた尾が、溝の石へ当たっていた。
大サンショウウオが振り返る。
尾が横へ薙がれた。
「伏せろ!」
ベルクの盾へ、太い尾がぶつかった。
体ごと押され、ベルクの靴が泥を削る。
透明な飛沫が、盾の上から散った。
俺は顔を腕で覆った。
布のない手の甲へ、冷たいものが落ちる。
すぐに焼けるような痒みが広がった。




