第111話 蓋の外から
片靴亭で眠り、朝まで右腕を使わなかった。
残る宿泊は二泊。
狩猟刀を抜く。
昨日より軽く動いた。
古い傷の奥に痛みはあるが、痺れはない。
ギルドへ行く前に、治療所へ寄る。
入口近くの寝台に、オルンとベンがいた。
オルンは上体を起こしている。
ベンは眠っていたが、呼吸は深い。
「ジルは」
奥を指される。
衝立の向こうに、姉が座っていた。
ジルの目は閉じたまま。
心音は、見張り小屋にいた時より強い。
「起きない?」
セルカが薬瓶を並べながら答える。
「まだ」
「死なない?」
「昨日よりは、ずっとまし」
「答えが違う」
「死なないとは言い切れないの」
セルカが瓶の札を確かめる。
「でも、町へ着いた時より体温は下がってる」
「毒は」
「何かは分からない」
「水を見れば分かる?」
「分かることが増える」
薬師のトアスと似た答えだった。
「井戸へ行くの?」
「まだ返事してない」
「なら、行かない方を選べる」
「音が分かる」
「ほかの人には?」
「分からない」
「それで行く?」
「それだけじゃない」
「じゃあ何」
ジルの心音を聞く。
見張り小屋で止まっていた灯り。
三人分の遅い心音。
井戸の下で石を擦る音。
「水を使うやつが、また倒れる」
「蓋を開けた人が先に倒れるかもしれない」
「開ける前に決める」
セルカは止めなかった。
代わりに、細い布を一枚渡す。
「口と鼻を覆うもの」
「毒を止める?」
「粉や飛沫は減らせる」
「匂いも?」
「少し」
「匂いが分からなくなる」
「外す時は、井戸から離れて」
布を小袋へ入れる。
ギルドの小部屋では、出発する六人が集まっていた。
ベルク。
リオナ。
トアス。
衛兵二人。
俺。
机の上に、第二見張り小屋の古い図がある。
「井戸は、雨水だけじゃないのか」
ベルクが聞く。
トアスが図の下を指す。
「丘の中を通る地下水を拾ってる」
「どこから」
「北東の岩場だ」
「魔境?」
「外縁の手前だが、境は水の下に線を引けん」
魔境側の水が、丘の下を通っている可能性がある。
「一号と三号は」
「別の浅井戸だ」
「同じ水?」
「今は分からん」
トアスが革手袋を広げる。
油を塗った厚い革。
肘まで覆う。
「水を採るのは俺だけ」
「護衛が先に蓋を開ける」
「昨日と同じ話をしてる」
「決まってないからだ」
ベルクが図の横へ、木札を三枚置いた。
「蓋を開ける前に、井戸の周囲を調べる」
一枚目。
「地面に新しい穴、足跡、死骸があれば、先に原因を確かめる」
二枚目。
「蓋を開けた後、水面から魔物が出た場合、トアスは離れる」
三枚目。
「井戸の壁が崩れている場合、中へは入らない」
「水だけ濁ってたら」
俺が聞く。
「瓶へ採り、蓋を閉める」
「下の音は」
「セインが見る」
「深さは分からない」
「位置と動く速さだけでいい」
「速かったら」
「蓋を閉める」
「閉まらなかったら」
「逃げる」
答えが決まっている。
「討伐は」
「依頼条件に入っていない」
ベルクが全員を見る。
「人間か魔物が井戸の外まで襲ってきた場合だけ、身を守る」
「報酬は」
ネラが紙を読む。
「セインさんとリオナさんは、それぞれ銀貨二枚と銅貨四枚」
「二日?」
「二日以内です」
「終わらなかったら」
「一度戻り、依頼内容を改めます」
リオナが依頼票へ署名する。
「行く?」
俺が聞く。
「私が先に見つけた依頼です」
「補給は終わった」
「今度は誘っています」
昨日と逆になった。
自分の名前を書く。
東門で、縄、封じ瓶、手袋、清潔な水を積んだ小荷車を受け取った。
井戸の蓋を開ける前に決められることは、決めた。
小荷車は、ベルクと衛兵が交代で引いた。
トアスは荷台の横を歩きながら、封じ瓶の栓を何度も確かめている。
「割れない?」
「割ったら、帰る」
「水を採る前でも?」
「採る瓶がない」
「二本ある」
「一本は井戸水、もう一本は沈んでいるものがあった時に使う」
「三本にすればよかった」
「重くなると言ったのは衛兵だ」
後ろの衛兵が、小荷車の縄を握り直した。
「瓶より水の方が重い」
「なら、もう一本持てただろ」
「今言うな」
ベルクは振り返らなかった。
「割る前に歩け」
第一見張り小屋へ着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
屋根の灯り覆いは閉じている。
見張りが一人、外で待っていた。
「二号に変化は」
ベルクが聞く。
「煙はない」
「人は」
「裏道から交代要員を一人送ったが、中へは入れていない」
「井戸を触った者は」
「いない」
見張りが俺を見る。
「三人は」
「町へ運んだ」
「生きてるか」
「三人とも」
見張りの口から、長く息が抜けた。
「一番悪いやつは、まだ起きてない」
「そうか」
それ以上は聞かなかった。
町の水が入った革袋を一つ受け取り、第二見張り小屋へ向かう。
丘を上る途中で、リオナが列から離れた。
道の左右を見ている。
「足跡?」
「一昨日の私たちと、荷車の跡ばかりです」
「魔物は」
「大きいものは見当たりません」
見張り小屋の屋根が見えた。
煙は上がっていない。
扉には、一昨日リオナがかけた鍵が残っている。
井戸の蓋には、水を使うなと書いた板が立てかけられていた。
倒れていない。
周りの土にも、新しい足跡はなかった。
小袋からセルカにもらった布を出し、口と鼻へ巻いた。
「小屋へ入る前に、井戸の外を一周する」
ベルクが丸盾を背から下ろす。
「リオナは地面、セインは下の音」
「俺たちは」
衛兵が聞く。
「一人はトアスから離れるな」
「もう一人は」
「俺と蓋を見る」
「水見は一人で歩ける」
トアスが言った。
「逃げる時に転ばれると困る」
「逃げると決めるのは俺だ」
「転ぶか決めるのは足だ」
「始めるぞ」
ベルクが話を切った。
井戸の周りは、低い石で丸く囲まれている。
苔がついているのは北側だけだった。
小屋を閉めた時と同じ甘い匂いがする。
近づくほど強くなるが、蓋の上だけではない。
北側の地面にも残っていた。
しゃがんで、左手を土へつく。
水が流れている。
細い音が、丘の中から井戸へ集まっていた。
その下に、別の音がある。
石へ何かを押しつけ、ゆっくり引きずる音。
「一昨日より近い?」
リオナが聞く。
「分からない」
「場所は」
井戸の真下へ手を向ける。
音が多すぎる。
水が石へ当たり、壁を伝い、底へ落ちている。
目を閉じる。
もう一度、何かが動いた。
「北」
「井戸の中?」
「井戸より北」
指を向けた先には、小屋の壁と緩い斜面がある。
リオナは斜面へ回った。
「穴はありません」
「崩れは」
「表面には」
ベルクが井戸の石組みを見る。
「蓋を開ける前に、周囲で見つかったのは匂いだけか」
「北側の草が寝ています」
リオナが膝をつく。
「踏まれた?」
「水が流れたみたいです」
草の根元へ、乾いた泥が薄くついている。
斜面の途中で消えていた。
「雨は」
「五日前の朝が最後です」
衛兵が答える。
「井戸の水が変わった日か」
「同じ頃です」
トアスが北側の苔を革手袋で触る。
指先へ、透明なものが糸を引いた。
「水草?」
「違う」
「何」
「まだ言わん」
手袋についたものを、一つ目の瓶へ入れた。
「井戸水より先に使った」
「瓶は三本要ったな」
衛兵が言う。
トアスは答えず、栓を閉めた。
ベルクが縄を井戸の蓋へ回す。
直接持ち上げなくて済むよう、少し離れた杭へ通した。
「開けるのは指二本分だ」
「指を入れるなよ」
トアスが言う。
「誰も入れん」
盾を構えたベルクの後ろで、衛兵が縄を引く。
木の蓋が、石へ擦れた。
隙間が開く。
甘い匂いが、さっきより濃くなった。
土。
水草。
濡れた皮膚。
「止めろ」
蓋は、手の幅より狭いところで止まった。
中から何も出ない。
水面は見えなかった。
井戸の縁へ近づかず、耳を向ける。
深い。
水音の下にいたものは、動かなかった。
「上がってこない」
「採る」
トアスが二本目の瓶を細い籠へ入れた。
長い縄を結ぶ。
「俺が下ろす」
衛兵が言う。
「瓶を底へ当てるな」
「見えない」
「縄の印を数えろ」
結び目が三つ、井戸の中へ消える。
四つ目。
五つ目の前で、籠が水へ触れた。
「もう少し」
瓶が沈む。
その瞬間、北側の地面から振動が返ってきた。
「止めて」
縄が止まる。
水の下で、何かが体をずらしている。
井戸へ近づいてはいない。
北へ離れた。
「上げろ」
ベルクが言う。
「まだ入ってない」
「今、動いた」
トアスは縄を持ったまま、俺を見る。
「水から離れた?」
「北へ」
「なら、採れる」
「上げろ」
ベルクの声が低くなった。
トアスは一度だけ舌打ちし、縄を引いた。
籠が戻る。
瓶には、半分ほど水が入っていた。
透明ではない。
細かな灰色のものが浮き、その間を透明な糸が揺れている。
「これを飲んだ?」
衛兵が顔をしかめる。
「汲んだ時は、ここまで濁っていなかったらしい」
リオナが答える。
トアスは瓶を光へ透かした。
「泥だけじゃない」
「毒?」
「町へ持ち帰らなきゃ決められん」
「今分かることは」
「死骸が溶けた水とは違う」
瓶をゆっくり傾ける。
透明な糸が、底へ落ちずに水へ残った。
「生き物の皮か、卵の膜に近い」
井戸の下で、また石を擦る音がした。
今度は、北側の斜面からも聞こえた。
ベルクが蓋を閉める。
「井戸の中だけを見ても足りん」
リオナが、泥の消えた斜面を見上げた。
「水が出てきた場所を探します」
甘い匂いは、井戸より北から流れていた。




