第109話 三人を先に運ぶ
扉の内側で、木の棒が床へ落ちた。
少しだけ隙間が開く。
男が一人、戸へ寄りかかったまま倒れてきた。
受け止める。
体は熱い。
服から汗と吐いたものの匂いがした。
「井戸は」
男が聞く。
「飲んでない」
「そっちの水も」
「町から持ってきた」
リオナが革袋を見せる。
男の肩から力が抜けた。
「中へ」
小屋へ入る。
窓の覆いは閉じたままだった。
リオナが一つずつ開ける。
冷たい空気が入り、こもっていた匂いが外へ流れた。
寝台に一人。
床に敷いた毛布へ、もう一人が横になっている。
どちらも動かない。
心音はある。
寝台の男は速く、毛布の男は遅かった。
「水を」
戸の男が手を伸ばす。
「一度に飲まないで」
リオナが木杯へ少しだけ入れる。
男は両手で持とうとしたが、指に力が入らない。
リオナが支えた。
一口飲む。
「もっと」
「少し待って」
「喉が」
「吐いたら、また減ります」
男は杯から目を離さなかった。
「いつから」
俺が聞く。
「一昨日の夜」
「最初は誰」
寝台を指す。
「ジルが、腹を下した」
「その次」
「俺」
「毛布のやつは」
「ベン。昨日の朝までは動いてた」
「三人とも井戸を飲んだ?」
「ほかに水はない」
「どれだけ」
「覚えてない」
寝台のジルへ近づく。
息は浅い。
唇が乾いていた。
リオナが顔を横へ向け、口の中を見る。
「意識は」
「昨日から、ほとんどない」
「飲ませられません」
「水が要る」
「このまま入れたら、喉へ詰まります」
布を水で湿らせ、唇へ当てる。
毛布のベンは、肩を揺すると目を開けた。
声は出ない。
木杯を口元へ近づけると、自分で少し飲んだ。
「町へ知らせる」
リオナが言う。
「一号まで戻る?」
「あそこから伝令を出してもらいます」
「一人になる」
「三人の心音が分かるのは、セインです」
「リオナは」
「道を戻って、また来ます」
町まで一人で走れば、戻るのは夜になる。
第一見張り小屋なら一刻ほど。
そこから伝令を出し、リオナは水を持って戻れる。
「分かった」
「井戸は開けないでください」
「見るだけ」
「蓋も動かさない」
「何で」
「中に何があるか分からないから」
毒なら、触れただけでは何も起きないかもしれない。
魔物なら、蓋を開ければ出るかもしれない。
「戻るまで」
「分かった」
リオナが小屋を出る。
足音が道の向こうへ小さくなった。
残った町の水を、一人ずつ少量に分ける。
戸を開けた男の名は、オルンだった。
「井戸の匂いは、いつ変わった」
「三日前」
「最初から飲んだ?」
「汲んだ時は、土臭いだけだった」
「色は」
「少し濁ってた」
「何で飲んだ」
「雨の後は、いつも濁る」
「今回は違った?」
「夜になって、苦くなった」
それでも捨てなかった。
見張り小屋には、ほかの水がなかった。
「地面が動いた?」
「その前の夜に、一度」
「揺れた?」
「井戸の下で、石を引いたみたいな音がした」
「見た?」
「朝に蓋を開けた」
「中は」
「水しか見えなかった」
小屋の裏に、井戸がある。
閉じた蓋の隙間から、湿った匂いが流れていた。
腐った死骸とは違う。
土と、水草と、甘すぎる何かが混じっている。
竜眼を使っても、蓋に名前は出ない。
開けない。
リオナへそう言った。
代わりに、地面へ左手をつく。
井戸の下は水の音が多い。
その奥で、何かが石を擦った。
一度だけ。
人が水を汲む時より、ずっと深い場所だった。
小屋へ戻ると、寝台の心音がリオナの出た時より遅くなっていた。
ジルの胸へ手を当てる。
呼吸の間が長い。
「起こした方がいい?」
オルンが壁にもたれたまま聞く。
「分からない」
「寝かせたままでいいのか」
「分からない」
答えが同じになった。
セルカなら、もっと何かできると思う。
俺に分かるのは、心音が弱くなっていることだけだった。
湿らせた布を、ジルの唇へ当てる。
口が少し動く。
「ジル」
オルンが呼ぶ。
返事はない。
「家族は」
「町に姉がいる」
「名前を呼ぶ?」
「ジルで分かる」
「姉の」
オルンは一度咳をした。
「ミナだ」
「ミナが待ってる」
ジルの耳元で言う。
心音は変わらない。
「そういうの、効くのか」
「知らない」
「知らないことばかりだな」
「死んだら分かる」
「何が」
「呼んでも戻らない」
オルンが黙った。
言わない方がよかったかもしれない。
それでも、嘘は言えなかった。
毛布にいるベンが、喉を鳴らす。
木杯を近づける。
今度は一口だけ飲み、自分から顔を背けた。
水袋は半分を切っている。
三人へ少しずつ使えば、夜までは足りない。
リオナが戻らなければ足りなくなる。
小屋の外へ出る。
道の向こうに、人影はない。
井戸の蓋も動いていない。
下から、また石を擦る音がした。
今度は一度で止まらない。
短く。
間を空けて、もう一度。
何かが上がってくる音ではなかった。
同じ場所を掘っている。
蓋へ近づかず、小屋へ戻る。
「井戸で、前にも音がした?」
「夜だけ」
オルンが答える。
「昼は」
「聞いたことない」
「今はしてる」
「何がいる」
「分からない」
「魔物か」
「たぶん」
「蓋は」
「開けない」
オルンも、開けろとは言わなかった。
しばらくして、外から車輪の音が聞こえた。
リオナの足音もある。
戸を開ける。
第一見張り小屋の男と、農家の夫婦が手押し車を押してきた。
荷台には毛布と水桶が載っている。
「町へは」
「伝令が走りました」
リオナが答える。
「治療師は早くても夜です」
「ジルが遅くなってる」
寝台へ案内する。
リオナが心音を聞こうと胸へ耳を当てた。
「分かりません」
「さっきより遅い」
「先に運びます」
手押し車へ毛布を敷く。
ジルを持ち上げる時、右腕に力を入れすぎないようにした。
上半身を俺。
脚を第一見張り小屋の男が持つ。
軽い。
寝台にいた時より、持ち上げた方が体の細さが分かった。
手押し車へ寝かせる。
ベンは、農家の男へ肩を借りれば歩けた。
オルンも立とうとしたが、膝が崩れた。
「もう一台は」
「農家にはこれだけです」
「二人乗せる」
「重くなる」
「粉袋よりは軽い」
道標を見た日に、草地へ沈んだ荷車を思い出した。
荷を減らせば、車は上がった。
今回は、減らせる荷がない。
「灯油と豆を置く」
補給品を小屋の奥へ入れる。
灯り覆いも、机の上へ残した。
油缶がなくなり、背負い籠は空になる。
「オルンを背負う」
「右腕は」
リオナが見る。
「肩で持つ」
空の籠を背負い直す。
オルンを座らせ、腰と籠を布でつないだ。
腕を俺の肩へ回させる。
「吐きそうになったら」
「先に言う」
「背中へは」
「言ってから吐けると思うか」
「できるだけ横」
ベンは農家夫婦。
ジルは手押し車。
オルンは俺が運ぶ。
リオナが先に立つ。
「第二見張り小屋は閉めます」
「井戸へ印は」
第一見張り小屋の男が聞く。
「水を使うなと書いて」
「紙が濡れる」
「灯り覆いの箱へ書ける板があります」
板へ大きな黒い線を引き、井戸の蓋へ立てかけた。
俺には読めない。
人間なら、水を使うなと分かる形らしい。
「井戸は開けてない?」
リオナが聞く。
「開けてない」
「音は」
「下で何かが石を掘ってる」
「見に行きますか」
第一見張り小屋の男が言う。
「三人が先」
リオナが答えた。
小屋の扉を閉める。
鍵はオルンから預かり、リオナが持った。
帰り道では、歩くたびに背中の心音が揺れた。
止まっていないことだけを、何度も確かめた。




