第104話 十件目の道標
片靴亭へ戻ると、ベッカが帳面を開いた。
「二日だったね」
「間に合った」
「ギルドの話じゃないよ」
鍵箱の横へ、三本の線が残っている。
使わず減った夜も、借りた日数には入る。
「残り三泊」
「そう」
「また借りる」
「三日寝てから言いな」
個室へ上がる。
集落へ返す銀貨一枚と銅貨二枚を、机の奥へ置いた。
木札には、灰灯苔を十二束売り、二束分を次へ繰り越すと書かれている。
文字は読めないが、十二と二の数字は分かった。
商会の契約書とは別に置く。
右腕の布を外すと、古い噛み傷の周りはまだ少し膨らんでいた。
狩猟刀を抜く。
ゆっくりなら、最後まで抜けた。
横へ振らず、そのまま鞘へ戻す。
翌朝、残る宿泊は二泊になった。
治療所へ行く。
セルカは右腕を押し、指を開かせた。
「痛む?」
「強く握ると」
「痺れは」
「少し」
「布はもう外していい」
「刀も?」
「軽く使うなら」
「重く使うのは」
「聞く必要ある?」
「ある」
「駄目」
木板も布もなくなった。
袖を戻すと、外からは古い噛み傷しか見えない。
「次に同じ場所を傷めたら、治りが遅くなるよ」
「分かった」
「本当に?」
「三回言われた」
「回数を覚えるんじゃなくて、中身を覚えて」
治療所を出て、ギルドへ向かう。
依頼札の前には、朝の冒険者が集まっていた。
討伐。
採取。
荷運び。
読める文字だけを拾う。
「九件目の次を探していますか」
ネラが受付から声をかけた。
「十件目」
「素材の売却は数えませんよ」
「知ってる」
「昨日、灰灯苔を売ったので」
「依頼じゃない」
「分かっているなら結構です」
ネラが三枚の札を外す。
一枚目は、倉庫の荷下ろし。
二枚目は、治療所の空瓶回収。
三枚目には、道と白い石の印があった。
「これは」
「北東農道の道標確認です」
「見るだけ?」
「十二本を確認し、白い塗料が薄いものは塗り直します」
「なくなってたら」
「位置を記録して戻ってください」
「立て直さない?」
「場所を間違えると、別の畑へ荷車を入れます」
勝手に直してはいけない。
「魔物は」
「町に近い区間なので、通常は出ません」
「通常は?」
「出ないと言い切る依頼はありません」
報酬は銅貨六枚。
一日で戻れる。
荷を運ぶ力より、道と印を見分ける仕事だった。
「これにする」
「空瓶ではなく?」
「道を見る」
「十件目だから、難しい方を選びましたか」
「後で使う」
「何に」
「俺の道」
今の三本爪の水路には、俺たちだけが分かる印しかない。
町の道標がどう置かれ、誰が直すかを知れば、魔境側の道にも使える。
ネラは依頼票と、十二本の位置を書いた小さな図を出した。
「道標は、北東農道の分岐ごとにあります」
「全部、白い石?」
「先端だけ白く塗った木杭もあります」
「同じじゃない」
「畑へ入る道は木杭、村や町へ続く道は石です」
「何で」
「勝手に動かせる道と、動かせない道を分けるためです」
畑の入口は、季節や持ち主で変わる。
町へ続く道は、簡単には変えない。
「塗料と刷毛は、東門の詰所で受け取ってください」
「今日行く」
「日暮れまでに戻れなければ、近くの農家へ泊まってください」
「野宿は」
「依頼中に行方不明者を増やさないでください」
依頼票の臨時記録へ、自分の名前を書く。
十件目は、まだ印になっていない。
東門の詰所で、白い塗料と刷毛を受け取った。
小さな壺には木の蓋がついている。
「全部使い切るなよ」
門兵が言う。
「残す?」
「必要な所だけ塗る」
「全部、白くした方が見える」
「石まで塗ったら、雨で流れた分が畑へ入る」
塗るのは先端の印だけらしい。
壺を左手に持ち、北東農道へ出る。
一つ目の道標は、町の壁が見える場所にあった。
膝ほどの石。
先端だけ白く、東側へ一本の線が引かれている。
図の最初の印と同じだった。
白は薄くなっていない。
二つ目も石だった。
その手前には、細い木杭が三本立っている。
一本は畑の中。
一本は納屋。
もう一本は水汲み場へ向いていた。
どれも白くない。
農家が動かせる道と、町へ続く道は印の形が違う。
三つ目の石標で、白い線が土に汚れていた。
布で拭き、刷毛を動かす。
右手でも塗れる。
力を入れないため、腕は痛まなかった。
塗った直後の白は、遠くからでも見える。
四つ目は、小川の手前にある。
石橋の端へ寄りすぎて、片側の土が削れていた。
位置は動いていない。
白だけを塗り直す。
五つ目まで確認した頃には、町の壁が低くなっていた。
道の両側に、芽の出た豆畑が広がっている。
荷車の轍は二本。
雨の跡へ新しい車輪の線が重なっていた。
六つ目の印があるはずの分岐へ着く。
石標はなかった。
地面に、四角い窪みだけが残っている。
図を見る。
数字の六は読める。
町へ続く太い線は、分岐の右へ曲がっていた。
今の轍は、左へ続いている。
右の道にも古い車輪跡はあるが、途中から水に沈んでいた。
窪みの周りへ屈む。
石を抜いた跡から、土を擦った線が伸びている。
草の中を通り、左の道へ続いていた。
誰かが道標を持ち上げ、別の場所へ動かしている。
勝手に戻してはいけない。
位置を記録して戻るのが依頼の条件だ。
それでも、このまま残り六本を確認すれば、左の道を通ることになる。
壺を腰へ結び、左へ進む。
道はすぐに細くなった。
豆畑の外れから、低い草地へ下りている。
轍の片方が深い。
荷の重い車だけが沈んだ跡だと思う。
少し先で、車輪の線が急に崩れていた。
木の破片が泥へ刺さっている。
人の声が聞こえた。
「そっちを持ち上げろ!」
「上がるなら、とっくにやってる!」
草地の窪みに、荷車が傾いていた。
右の車輪が泥へ沈み、車軸の端が折れている。
男が二人、荷台を押していた。
荷台には粉を入れた袋が積まれている。
「怪我は」
声をかけると、二人が振り返った。
「冒険者か」
「そう」
「なら手を貸せ」
「道標を見た?」
「それより先に、こいつを起こせ!」
荷車の下から、別の声がした。
人の脚が一本だけ見えていた。
「押すな」
荷車の側へ走る。
「上げないと抜けないだろ!」
「押すたび沈んでる」
二人が止まる。
泥へ沈んだ車輪の下で、木が軋んでいた。
見えている脚は、膝から下を車軸へ挟まれている。
「生きてる?」
「聞こえてるよ!」
女の声だった。
「足は動く?」
「動かしたら痛い!」
心音は速い。
出血の匂いはしなかった。
荷台には、粉袋が十以上積まれている。
「先に下ろす」
「雨が来たら売り物にならん」
男の一人が言う。
「このまま押したら、脚が先に壊れる」
「粉も駄目になる」
「脚と粉、どっち」
男は荷車の下を見た。
「……下ろせ」
乾いた草の上へ、袋を一つずつ運ぶ。
右腕でも軽い袋は持てた。
重いものは左肩へ載せる。
五袋を下ろしたところで、荷車の沈み方が止まった。
「まだ?」
下の女が聞く。
「あと六」
「十一も積んだのかい」
「売れる時に運べって言ったのはあんただろ!」
「半分ずつにしろとも言ったよ!」
挟まれていても、声は弱くない。
残りを下ろす。
空になった荷台を三人で持ち上げる。
少し動いたが、右の車輪が泥へ吸いついたままだった。
力を抜く。
「上がらない」
「冒険者だろ」
「腕を怪我してる」
「先に言え!」
「荷を下ろすのはできた」
道の脇を見る。
畑の境へ、太い木杭が立っていた。
抜けば、畑の入口が分からなくなる。
代わりに、壊れた荷台の横木が一本外れかけている。
「これを使う」
横木を外し、車軸の下へ差し込む。
泥の中へ平たい石を置き、支点にする。
「二人でこっちを押す」
「お前は」
「脚を引く」
女がすぐに反対した。
「折れてたら引くな!」
「自分で動ける?」
「上がればね」
男二人が横木へ体重をかけると、車軸が少し上がった。
女が脚を引くが、踵が泥へ引っかかる。
「もう少し」
俺も荷台の縁へ両手をかけ、押した。
右腕の古傷が痛む。
車軸が指二本分だけ上がり、女の脚が抜けた。
「離せ!」
横木を押していた男が叫ぶ。
一斉に手を離す。
荷車が泥へ落ち、濁った水が跳ねた。
草の上へ転がった女の足首は腫れ始めていたが、向きは曲がっていない。
「立てる?」
「今すぐ立たせるな」
自分で言いながら、女が上体を起こす。
男の上着を丸め、脚の下へ置いた。
「農家へ人を呼びに行く」
「近い?」
「丘の向こうだ」
一人が走り出す。
残った男は、乾いた草へ置いた粉袋を数えている。
「十一」
「最初から十一」
「破れてないか見てるんだ」
「道標は」
「白いのが左を向いてた」
「どこにあった」
「分岐の手前だ」
「元の穴にはなかった」
「知らんよ」
女が泥のついた裾を払う。
「またドレルが動かしたんだろ」
「誰」
「右の豆畑の持ち主」
「何で動かす」
「荷車に畑を踏まれたくないからさ」
「道は右」
「橋の下が崩れてる」
「なら左が正しい?」
「正しかったら、私が泥に埋まってないよ」
どちらも、町へ続く道として使えない。
「戻す?」
男が聞く。
「勝手に戻さない」
「冒険者なのに?」
「それが依頼」
「不便な依頼だな」
分岐の方へ戻る。
草の中に、白い先端が見えた。
六本目の石標は、元の穴から離れた場所へ半分埋められていた。
白い線だけが、泥の草地を向いていた。




