第101話 石の下に残ったもの
片靴亭の個室で一晩眠った。
右腕の腫れは少し引いていたが、木板を外せるほどではない。
朝、東門へ行くと、ベルクとエッダのほかに、背の低い老人がいた。
革袋から鉄の棒と小さな槌が突き出している。
「領主付きの石工だ」
ベルクが紹介する。
「名前は」
「現場で何度も呼ぶ必要があるか」
老人が聞く。
「あるかもしれない」
「ボルガンだ」
「セイン」
「お前のことは聞いた」
右腕の木板を見る。
「穴へ落ちても、引き上げんぞ」
「落ちない」
「落ちるやつは、みんな先にそう言う」
衛兵は一人だけだった。
もう一人は、料金所の者たちの取り調べへ残っている。
岩喰い大モグラの死骸は、昨日倒れた場所に残っていた。
死骸の腹だけが少し膨らんでいる。
「先に地下を見ろ」
ボルガンが言う。
「安全だと分かるまで、俺は広場から動かん」
「自分では見ない?」
「石を見る目と、土の中の魔物を見る目は別だ」
大モグラが出てきた穴から離れた場所へ座る。
左手を地面につけた。
昨日は、地面を掻く大きな振動があった。
今は、水が細く流れる音と、小さなものが土を擦る音だけだ。
「大きい魔物はいない」
「どこまで分かる」
「広場の下と、崖の近く」
「坑道の奥は」
「分からない」
「分からん場所から見るぞ」
ボルガンは古い図を広げた。
大きな入口から坑道へ入らず、先に崖際を歩く。
鉄の棒を地面へ刺し、何度か槌で叩いた。
返る音が途中で変わる。
「止まれ」
俺とボルガンが、ほとんど同時に言った。
エッダの足が止まる。
靴の先に、土で隠れた細い割れ目があった。
「下が空いてる」
ボルガンが棒で土を払う。
割れ目の下には、人が一人通れるほどの空洞が続いていた。
古い図にはない。
「大モグラが掘った?」
エッダが聞く。
「爪痕がある」
「なら、そうだろ」
「人間の鑿跡もある」
ボルガンが割れ目の側面を指した。
まっすぐ並んだ傷と、その上から削り直した太い爪痕が重なっている。
「元から細い試掘穴があって、魔物が広げた」
「入れるか」
「今は入るな」
ボルガンは近くの石へ炭で印をつけた。
次に、ハーグたちが暮らしていた小屋を見る。
食器と毛布は減っているが、石切りの道具は多く残されていた。
壁へ細い板が打ちつけられている。
名前らしい文字と、横に何本もの刻み目があった。
「何」
「賃金板だ」
ボルガンが板を外す。
「払った日ごとに、線を削って消す」
「残ってる線は」
「払っていない」
名前は十二人分。
ハーグの横には、他より多く線が残っていた。
「石切り場が閉じた時のものか」
ベルクが聞く。
「板だけでは分からん」
「持ち帰る」
「領主へ先に出せ」
「ギルドにも写しを残す」
ハーグが料金所の襲撃を決めたことと、賃金を払われなかったことは別だ。
片方が本当でも、もう片方は消えない。
広場へ戻り、切りかけの石板を見る。
ボルガンは落ちた石板の断面へ水をかけ、小槌で端を割った。
中は淡い灰色で、黒い筋が少ない。
「使える?」
「壁石ならな」
「町へ運ぶ?」
「道を直して、坑道を支えて、働く者を集めた後だ」
「石はある」
「石だけなら、山にいくらでもある」
掘れる場所。
運べる道。
怪我をせず働ける坑道。
持ち主と、金を出す者。
それがそろって、初めて石切り場になる。
「持ち主は誰」
「土地は領主、採掘権は去年までローデン商会だ」
ボルガンが石片を袋へ入れる。
「閉鎖して権利を返したなら、今は誰の商売でもない」
「ハーグたちは」
「残っただけでは、持ち主にならん」
「また働ける?」
「領主と、新しい採掘主が決める」
答えは、まだ石切り場にはなかった。
ボルガンは図へ三つの印を増やした。
崩れた旧坑道。
人が掘った上の穴。
大モグラが広げた地下の空洞。
「これで調査は終わり?」
「地上はな」
ボルガンが大きな坑道口を見る。
「次に来るなら、支柱と命綱を持ってくる」
今日は、その奥へ入らなかった。
町へ戻ったのは、昼を少し過ぎた頃だった。
ボルガンは東門を通る前から、賃金板の文字を紙へ写している。
「歩きながら書けるの」
「書けん」
「書いてる」
「揺れるたびに曲がってるだろうが」
紙の文字は、確かに少しずつ斜めになっていた。
それでも、ボルガンは止めない。
「領主の屋敷へ行く前に、誰かが板を持っていったら困る」
「ベルクが持ってる」
「冒険者は依頼が終われば帰る」
「石工は?」
「次の現場へ行く」
残る物は、板と紙だけらしい。
ギルドへ入ると、報告卓の奥にネラがいた。
ベルクが依頼票を置く。
続いて、回収した矢、武器の一覧、古い坑道図を並べた。
「現地にいた九人は、全員町へ移送しました」
「負傷者は」
「子供一人に擦り傷、こちらは二人です」
ベルクが自分と俺を順に示す。
「相手側は」
「投降時の負傷はありません」
「岩喰い大モグラの討伐は」
「セイン、エッダ、衛兵二名、現地の者数名で行いました」
「ベルクさんは」
「盾で頭を押さえた」
「それも討伐参加です」
ネラが書き足す。
ボルガンは賃金板を報告卓へ置いた。
「坑道は再開できるか」
「今日見た範囲では、できん」
「石が尽きていますか」
「石はあるが、地面の下に空洞が増えてる」
「魔物が掘ったもの?」
「人の試掘穴を魔物が広げた場所もある」
ボルガンが図の印を指す。
「支柱なしで奥へ入るのは、調査じゃなく埋葬だ」
ネラの筆が止まる。
「今回の依頼範囲は」
「居住者の確認、投降要請、地上施設と既知の入口の確認までです」
ベルクが答える。
「坑道内部は、別に出せ」
ボルガンも言う。
「石工二人と支柱を運ぶ人足、それに護衛が要る」
「ランクは」
「魔物がいないと決めるならDでいい」
「決められません」
「ならCにしろ」
次の依頼は、俺にはまだ受けられない。
ベルクの指揮下なら同行できるかもしれないが、右腕を固定したまま坑道へ入る気はなかった。
ネラが報告書をもう一度読み、最後に印を押す。
「閉鎖石切り場の調査・投降要請は、完了とします」
依頼票の端へ、九つ目の印が増えた。
「九件」
「そうですね」
「次で十」
「十件になっただけでは昇格しません」
「知ってる」
「毎回、数えるので」
ネラが小さな布袋を出した。
銀貨一枚と銅貨二枚。
中身を確かめ、自分の革紐へ移す。
治療費を払った後の金と合わせ、銀貨二枚と銅貨五枚になった。
「岩喰い大モグラの素材は?」
エッダが聞く。
「依頼外討伐として買い取れます」
「まだ現地だけど」
「回収費を差し引くか、自分たちで運ぶか選べます」
エッダがベルクを見る。
「あれ、何人で運ぶ?」
「ばらせば荷車一台だ」
「誰がばらすの」
「言い出した者」
エッダが口を閉じた。
「回収費を引いて」
「即決だな」
「右腕が使えないやつと、盾を曲げたやつしかいないから」
「お前は無傷だろ」
「矢を二本失くした」
報告卓の横で、ボルガンが咳払いをする。
「賃金板の話も終わらせろ」
ネラは板を手元へ寄せた。
「領主側へ渡します」
「ローデン商会は、もう町にないぞ」
「商会の預け金と残った資産を確認します」
「払われる?」
俺が聞く。
「今は答えられません」
「線は残ってる」
「働いた記録と、未払いを証明する記録は同じではありません」
「何が足りない」
「雇用帳簿と、支払いを受けていないという証言です」
「ハーグが言う」
「ハーグさんだけではなく、働いていた人全員から聞きます」
板が見つかっても、すぐに金へは変わらない。
料金所を襲った者の罪も、未払いの線で消えない。
ネラは板へ受付印を押し、別の布で包んだ。
「メイラは」
「教会にいます」
「石切り場へ戻る?」
「坑道の安全が確認できるまで、戻すことはできません」
「その後は」
「本人と、領主側と、新しい採掘主が決めます」
昨日から、同じ答えが少しずつ形を変えて続いている。
誰か一人が決めれば終わることではない。
エッダは報酬袋を腰へ結び、扉へ向かった。
「次の依頼、どうする」
「腕が治ってから」
「やっとセルカの言うことを聞いた」
「今日の分は終わったから」
「そこだけなんだよな」
外へ出ると、右腕の木板が服の袖へ引っかかった。
狩猟刀は抜けないままだった。




