Ch.01 修道院の魔女 001
「エドウィン、元気だったか?」
コンコン、軽いノックの音が静寂を破り、しばらくして扉が開き、灰色の髪の男が部屋へと入ってくる。
「以前より少し痩せたようだな」
白髪交じりの髪が夕暮れの光に照らされる老人が、慣れた様子で男を見つめる。
「あなたこそ、相変わらずですね」
灰色の髪の男、バンが部屋の中央に置かれた革のソファへと歩みを進める。
がちゃり、バンが背に担いでいた巨大な大剣がソファの角に斜めに立てかけられる音と、からん、エドウィンがポットと茶杯をテーブルに置く音が重なり、部屋を満たす。
「お忙しい中、直々にお迎えいただいてありがとうございます」
「他でもない、バン、あなたですから」
外見上は白髪の老人であるエドウィンの方がはるかに年上に見えるが、エドウィンはバンに丁寧な敬語を使い、バンはエドウィンに対して打ち解けた口調で話す。
二人はこの、他人の目には不釣り合いに映るこの奇妙な関係に、すっかり慣れているようにふるまう。
「ところで、カンディアには何のご用で?」
「ああ、教団に報告することができてな」
カンディアは帝国東部に位置する都市だ。
東部の都アスロンの南に位置するこの地は、深い歴史に劣らぬ強力な経済的・政治的影響力を誇る。
特に聖十字教の三大教育機関のひとつであるカンディア神学校があることから、東部宗教界の中心地としての役割を担う場所でもある。
「報告とは、やはり魔女に関わることですか。最近ロジーナ村に関して、物騒な噂が流れていましたが…」
「もうあの村のことがお前の耳に届いたのか?」
「子どもたちの口は野生馬より速く、風より自由ですから。神学校の学長という立場上、噂には相当敏感にならざるを得ません」
「では細かな説明は省いてもよさそうだな」
バンが懐から粗い紙の束を取り出し、テーブルの向こうへと押しやる。
エドウィンの視線が紙の束に触れ、そのままそっとバンの顔へと向く。
「もしかして、ロジーナへ行かれた理由は…ベネリアの魔女のためですか?」
「…お前、何か知っているのか?」
「…詳しくは知りません。ですが…あの村に現れたという魔女の髪が赤かったという噂が、気にならなかったと言えば嘘になります」
すっ、バンが杯を持ち上げ、揺れる茶の様子をじっと見つめる。
「まあ、噂が常に正解を語るわけではないからな…」
「…あなたが最後にベネリアの魔女を目撃されてから、もう10年以上が経ちます。私はもう、彼女が生きているのかどうかさえ…」
「いや、彼女は確かに生きている」
バンがソファの脇に立てかけた大剣の柄へと手を伸ばす。
じり、黒く焦げた傷の隙間から赤い血が滲むと同時に白い煙が立ち上る。
バンは開いた傷口をじっと見下ろし、手を握っては開く。
不思議なことに、傷はたちまち跡形もなく塞がって消える。
「…呪いは相変わらずですね」
「ああ。魔女が消えれば呪いも解けるはずなのに、この身に刻まれた烙印は一切変わらない」
「あなたのその回復力こそが、ベネリアの魔女が生きている証だとは。実に残酷な逆説です」
バンが寂しげな微笑みを浮かべて頷く。
エドウィンは重い沈黙を払い落とすように、再びテーブルの上の紙の束へと視線を戻す。
「学長の仕事は…もう少し身についてきましたか?」
バンが一段と重くなった空気の流れを変えようと、軽い近況を尋ねる。
「私がここに赴任してからすでに六、七年になります。嫌でも慣れる時間ですよ」
エドウィンが薄く笑いながら、銀縁眼鏡のブリッジを押し上げる。
「…ロジーナの件、噂とはずいぶん違いますね」
「噂の方が実際より誇張されていたのか?それとも逆か?」
「子どもの噂というのはとかく大げさになりがちだから、実態はもっと些細なことだろうと思っていたのですが…」
「学長ともあろう者が、子どもたちの言葉を信じられないとは…」
バンが苦笑いしながら首を振り、茶杯を口に当てる。
「…どうあれ、今回の件は教団でも簡単に見過ごせることではなさそうですね」
「…あの傲慢な連中が、こんな辺境の騒ぎにはなっから鼻も引っかけないんじゃないか?」
「時期が時期ですから」
エドウィンが小さく息をついた。
「…何か起きたようだな」
「頭の痛い問題がひとつ起きまして」
ぼりぼり、エドウィンが困ったように後頭部をかく。
「…最近、魔女に関わる事件が以前に比べてずいぶん増えていませんか?」
「確かに…以前より増えた」
「そのせいで、聖十字教への民心が底を打っています」
「耳を塞いで目を閉じ、御殿に居座っている者たちには、依然として他所の国の話でしょうが」
「それでも今回ばかりは、彼らも手をこまねいているわけにもいかなかったようです」
「おや、あの怠け者どもがとうとう重い腰を上げることに決めたのか?」
バンが興味深そうにソファの奥へと身を沈め、姿勢を直す。
「教皇庁では、最近頻発する魔女事件の原因を…辺境の地方教会の綱紀が弛んだためと定め…地方教会の綱紀を正すという名目のもと、枢機卿たちが直接各地方を巡察し点検することを決議しました」
「は、足元に積もった業はろくに見もせず、遠い他人の庭に飛んだ土埃だけを責める格好だな。あるいはどこか辺鄙な片田舎に蜜壺でも埋まっているという噂でも聞きつけたか…」
バンの口から呆れたような苦笑いが漏れる。
「では、教皇庁の枢機卿のひとりがこのカンディアへ向かってくるわけだな」
「その通りです」
「どうりで。久々に街へ入ったら、通りをずいぶん派手に飾り立てているなと思っていたんだ。聖堂の壁には金を塗り、床には最高級の大理石を敷き詰めて、そのきらびやかさに目が眩みそうだったよ」
「そうですね…結局は外殻と仮面に過ぎないものに、あれほど力を注ぐとは」
「光輝が全世界をお創りになり万物の主であると教えながら、なぜ人間の黄金と大理石の切れ端に首をくくるのやら…ときどき人間が神に似ていくのではなく、神が人間に似ていくような気がする。まことに不敬なことだが」
「ひょっとすると私たちは、光輝ではなく光輝という幻像を作り上げて追いかけているのかもしれません」
エドウィンもまた、口に出し切れない言葉を胸の内に沈めているようだ。
苦さを飲み下すように、老人は杯に残った茶をひと口で飲み干す。
「はあ…それで、カンディアには誰が流れ込んでくるんだ?」
「…本来は機密なのですが、あなたは知っておいた方がいいでしょう…」
からん、エドウィンが空の茶杯を置きながら、気持ちを引き締める。
「ピエール枢機卿です。異端審問官たちを率いて、このカンディアへ向かっています」
びく、バンの眉の端が細かく揺れる。
露骨な嫌悪感が、彼の灰色の瞳の奥でざわめく。
「ピエールが?なぜ?教皇の右腕がどうして東部圏のここへ来るんだ?」
現在の聖十字教の権力構図は三つに割れ、拮抗した対立を続けている。
教皇を筆頭に六名の枢機卿が結集し、西部領域を支配する多数派、ウェスタライト(Westerite)。
四名の枢機卿を中心に強固な結束を誇る、東部基盤のイースタライト(Easterite)。
そして二名の枢機卿のもとで実利と中立を天秤にかける、南部のサウダライト(Southerite)。
「…ピエールには大義名分があったのか?」
「…今回の巡察の本来の目的を達成するには、各枢機卿の影響力が及ぶ地域ではない場所を監視してこそ公平だとして、ロビンソン・ピエール枢機卿本人が教皇庁会議で直接議題を提起したそうです」
「自分の肩入れを防ぐということか。言葉自体はもっともらしいが、あの頭の回転の速い老いぼれが純粋な意図で動いたはずがない」
がきん、バンが頭が痛そうにこめかみを深く寄せる。
「イースタライト側が激しく反発したはずだが…今回もまた多数決で押し切ったのか?」
「いいえ。どういうわけか今回はサウダライト側がウェスタライトに味方したのです。勢力のうちふたつが手を組んだとなれば、東部側としてもどうにもなりませんでしたでしょう」
「あの南部の守銭奴どもが?自分たちが被る打撃より、ピエールから引き出せる利益の方が大きかったとみえる…とにかく聖職という羊の皮をかぶった者どもで、狼でない奴はひとりもいない」
がきん、バンが額を押さえながら呻くように頭をかきあげる。
そうしてそっと目を動かし、エドウィンの様子を窺う。
「…お前は大丈夫なのか?」
「…私に大丈夫もへったくれもありますか。ただ与えられた職分に忠実でいるだけです」
エドウィンが無理に口角を引き上げ、ぎこちなく笑ってみせる。
「まあ、あの老いぼれが審問官たちを連れてくるとは…」
「はい、そうです」
「待て、異端審問官?それはまさか…」
「はい。あの者も同行します」
「…本当に最悪のタイミングだな。今さら足を引き返すわけにもいかないし…息のつける余地がどこにも見当たらない」
バンが心底参ったというように嘆息を漏らし、手で顔を覆う。
エドウィンはその沈鬱さを少しでも和らげようと、薄く微笑む。
「…ずいぶん遅い時間になりましたね。先約がありまして、そろそろ失礼しなければなりません」
「そうか。忙しい人をずいぶん長く引き留めてしまったな」
「バン、差し支えなければこれからのご予定を伺ってもよいですか?」
「今から宿を探さないとな。数日はここに滞在しなければならないから」
「ふむ…残念ながら、今のカンディアで部屋を確保するのは不可能に近いです」
エドウィンが断固として首を振る。
「貴族から大手商団まで、枢機卿訪問の知らせを聞きつけて押し寄せているせいで、城壁内の宿はすべて満員です」
「…神の代理人が来るというのに、金の匂いを嗅ぎつけて群がる有り様とは。聖十字教の威勢はたいしたものだな」
「…もし行き場がなければ、聖堂内の空き部屋をご用意しましょうか?」
「結構だ。高潔な聖職者の方々の白い目に晒されながら野良猫扱いを受けるくらいなら、夜露に濡れながら震えている方が気が楽だ。それに、あそこにはピエールの猟犬どもがうじゃうじゃいるだろうに、蛆の湧く巣穴へ自分から入り込みたくはない」
バンが疲れたというように手を振る。
「それでもあなたを野宿させるわけにはいきません…どうしてもと言うなら、ローウェン修道院はいかがですか?」
「ローウェン修道院?丘の上にある、あの小さいところか」
「はい、そうです」
「あそこは外部の者の出入りを一切禁じているところではなかったか」
「なにぶん幼い子どもたちを保護する施設ですので、管理が厳しいのです」
「そんな場所に私のような物々しい者がどうやって足を踏み入れられるというんだ?」
「私がこの街の神学校の学長であることをお忘れではないでしょうね?あちらの院長修道女とも格別の仲です。急を要する状況ですし、私が保証を立てれば、数日お世話になることは難しくないでしょう」
「そうは言っても…」
バンがためらいながら目を向けると、エドウィンはそっと視線を逸らしながら穏やかに微笑む。
「ローウェン修道院か…」
バンが顎をなでながら思案に沈む。
「…そうだな、お前がこれほど誠意を見せてくれるのに断るのも失礼というものだ。冷たい路上よりはずっとましだろう。同行してくれるか?」
「では今すぐ参りましょう。私の先約の場所もまた、ローウェン修道院ですから」




