Act1 極めて難しい算数
静寂が支配する闇の中で、龍輝の言葉だけが焚火のように熱を持って響いている。
「……お前の中に、捨てちゃいけない『人間』がまだ残っていたからだ……そうだろ?」
数年前、周りの大人たちから寄ってたかって「お前は壊れた」「無能だ」と突き付けてきた絶望を、目の前の少年はたった一言で「人間である証拠」へと書き換えてしまった。
「……ふん」
龍輝が鼻を鳴らした。
「大体よ、そんな画面の中の数値を救うだの捨てるだの……そんな下らねえ算数で悩んでいるなら、俺に算数教えるほうがよっぱどマシじゃねえのか?」
「……は?」
航聖一瞬、耳を疑った。
世界を揺るがす経済シュミレーションと、龍輝の壊滅的数学の成績を、龍輝は今同じ天秤にかけたのか。
航聖の唇が、わずかに震える。それは恐怖からではなく、こみ上げてくる可笑しさを耐えるための震えだった。
「……龍輝……お前に算数を教えるほうが、僕はよっぽど難しいと思う」
航聖が、メガネを指で直しながら、いつもの調子で静かに返した。
「あぁ⁈なんだと!お前……俺だって九九ぐらいは言えるぞ!」
「何を偉そうに……七の段から危なくなるお前が何を言う……それに、お前の場合は算数以前に、問題文を最後まで読む忍耐力と読解力が必要だ。耀心ののアルゴリズムを解析する方が、まだきちんとした論理な解がある分、マシだよ」
「へっ、言うじゃねえか」
龍輝が二カッと、野性味溢れる笑みを浮かべる。その横で、薫がクスクス笑う。
「あはは、そうだ、龍輝。この前のテスト、裏面があるのに気づかなかったよね」
「ヒメ!それは言うなよ……ッ」
「そうね……加納の迷宮を解くよりも、龍輝の脳内に数式を叩き込む方が、よほど奇跡に近い演算が必要ね」
「……フッ」
航聖の口から乾いた、けれど柔らかな笑みが漏れた。
真っ黒なモニターに映る自分は、もう「幽霊」の顔をしてはいなかった。
「……お腹空いたね」
希がボソッと呟く。
「……ようし、先生!今日は俺が奢る……算数の授業料、先払いしてやるよ」
龍輝が航聖の背中を、景気よくパチンと叩く。「いってえなっ、この馬鹿力……」とぼやきながらも、航聖は自らの足でしっかりと立ち上がった。




