Act1 誤差の重み
電源の落ちた演算室は、耳が痛くなるほどの静寂に包まれていた。三台のモニターは死んだ魚の目のような虚無を映し、先ほどまでの熱狂が嘘のように室内に染み渡っていく。
龍輝は、力を失った航聖をゆっくりと椅子に座らせた。航聖は、膝の上に置いた自分の指先をじっと見つめている。まだかすかに震えていた。
「……たかが、数値だ。……全く、龍輝の言う通りだよ」
航聖の声は、ひび割れたガラスのように掠れていた。
「……しかしな、数年前のあのシュミレーターの中で、僕たちは『神様』だったんだ……いや、あの時は、耀心が神で……僕はタダの付属品だったのか……な」
傍らで希がポータブルケトルを持ってきて、ハーブティを入れた。いつの間にか演算室に航聖の許可なく
物が増えていく。
「希……お前……それ……」
「ああ、あたしブラックコーヒー飲めないじゃん、だからヒメに頼んで持ち込み許可貰ったんだ。カモミールティー……落ち着くよ?」
希はハーブティーを航聖の前に置いた。温かい湯気が、航聖の蒼白な頬をわずかに緩める。
「『テセウスの選択』__。
耀心が組み上げたそのプログラムは、未曽有の災害が起きた都市を、どう『畳むか』を競わせるものだった。……電力、食料、医療。限られたリソースを、どこに配分し、どこを見捨てるか……画面上の数字が一つ減るたびに、現実の人間が千人、死ぬように設定されていた」
航聖はカップを握りしめ、かつての光景を暗闇の中に思い描く。
「耀心は。迷わなかった……あいつは開始からわずか数分で、貧困地域と老朽化したインフラを切り捨てた。……『システムの存続こそが最優先だ。死ぬべきものが死ななければ、全員が共倒れになる』……あいつはそう言って、数百万の命を、文字通り一瞬で『誤差』として処理したんだ」
龍輝が、窓枠を軋ませるほど強く握りしめた。
「僕は……それが出来なかった……一人でも多くの数値を救おうと、全リソースを循環させ、限界を超えた並列演算を繰り返した。……でもな、救おうとすればするほど演算は複雑化して、システムの崩壊速度は早まった……僕が壊れる前に聞いたのは耀心の勝ち誇った笑い声だ」
(航聖、君の優しさは、この世界ではただの『ノイズ』でしかない)
「……その直後、僕の視界は真っ白になった……脳が、演算の負荷に耐えきれず、ショートしたんだ。……目が覚めたら、僕は白い病室のベッドに縛り付けられていた……負けたんだよ……数値を捨てられなかった僕は、見事『廃棄処分』の烙印を押された」
それからは、本当の地獄だった。心も体もすっかり加納家に壊された航聖は、一年遅れで今、この瑞穂学園にいるのである。
航聖が吐き出した言葉は、暗い部屋の中に重く沈んだ。
たかが数値、だがそれは加納家という冷たい世界において「良心を捨てて神になれるか」を試す踏み絵のようなものだった。
「……バッカじゃねえの。くだらねえ」
不意に、龍輝がつぶやいた。
「……」
「その……バカ兄貴も、あの家のジジイ共もみーんなバカだ……数値を捨てられたから偉い?神様だ?そんなの、ちょっと算数が得意なだけの冷血野郎っていうことだろ?」
龍輝が航聖を見てニヤリと笑う。
「……お前が壊れたのは欠陥品だからじゃねえよ……お前の中に、捨てちゃいけない『人間』がまだ沢山居たってことだろ?」
航聖は黙って龍輝のまっすぐな瞳を見上げた。加納家の誰もが言ってくれなかった言葉。
「……航聖、ここはね、数値を競う場所じゃないのよ」
薫が不敵に微笑む。
「……ここは、あなたが本当にいるべき場所なのかもね。……そうは思わない?ねえ」
壊れた人に、安定剤と眠剤は要ると思う。……半年通いました(笑)
難しい場面です。




