第29話 川でサビキ釣り
宏也は清治の部屋に行って着替えや日用品を取り揃えた。サイドボードにある食器を持ち出そうとした時、白い封筒が目立つ場所に置いてあるのに気が付いた。手に取ると葬儀依頼書だった。親父はどうしたいんだと思いながらカバンにしまった。
清治が太刀魚をぶら下げて笑っている集合写真は、あとで殺風景な介護個室に飾ることにして部屋を出た。
清治はケアセンターでの新しい生活が始まっても怒鳴ったりすることはなく、どちらかというと物静かで、介護する立場からすればあまり手がかからなかった。介護職員が部屋に様子を見に行くと、太刀魚と自分が中心に映っている写真を凝視して首を傾げているのが常だった。
それからおよそ一か月が経過したころだった。清治は狭い部屋で過ごすのが窮屈になったのか、徘徊を始めた。だが、介護職員が付き添ったのは最初のうちだけだった。
あてもなく歩き回ったのは初回のみで、二回目からは判で押したように小川のほとりにある丸い岩に座って、いつまでも川面を眺めていたからだ。
五月末の夏のように暑かった日々が過ぎて、どんよりとした曇りの日が多くなり、気づけば梅雨に入っていた。田代は相変わらず店の定休日に海釣り公園に通っていた。その帰りには必ず清治のいる小川に寄った。
清治は田代の名前さえも忘れてしまったが、顔だけは覚えているらしく、いつも軽く手を上げて応えた。たったそれだけのことでも、田代がそこに行く心の支えになっていた。
ある日、二人で小川のほとりの指定席に座っていると、清治が右手で竿を操る仕草をした。田代は大急ぎで車に戻り、サビキの仕掛けを作って戻ってきた。
清治は渡された竿を持って嬉しそうに仕掛けを川に沈めた。時々リールを巻いたりドラグを緩めたりして、竿の穂先から視線をそらさずにいる。明らかに釣り師の目だった。
「岡ちゃん、アジかイワシが釣れたらいいな」
田代はこの非現実的な世界こそが清治の現実なのだと受け入れることで、いつまでも彼と友達でいられると信じた。一緒に穂先を見ているうちに、朝早くからの釣行で疲れたせいか、うつらうつらし始めた。
静かな時間を打ち破るように、清治が突然叫んだ。
「引いた!」
田代はびっくりして起きた。「うそだろ」と言って穂先に目をやったところ、引っ張り込むほどではないにせよ、不規則に動いていた。葉っぱが針に引っかかったのではなく、生きている獲物を捕らえたのは間違いない。
清治はゆっくりとリールを巻いた。上がってきたのは川ガニだった。どこの川にでもいるようなカニが、疑似餌をハサミで挟んでいた。
「やったね、岡ちゃん」
清治が意外な生物を釣ってうろたえているあいだに、カニは川に落ちた。
田代はしみじみと清治に語りかけた。
「岡ちゃんさあ、俺たちは不思議な縁で繋がってると思わないか。もしもあんたが水曜日以外の日に海釣り公園に行ったなら、俺たちは一生会わなかったんだもんなあ。俺はこうして岡ちゃんが川ガニを釣るのを見ることもなかっただろうよ。それとさあ、もう一つ、岡ちゃんが昔、俺にそっくりな人に会った気がするって言ったのは、釣り公園で俺の親父に出会ったんじゃないのかい?」
清治は微笑を帯びた仏像のような顔をして黙っていた。
田代がもう一度元気だったころの清治に会いたいと願っていたところへ、背後からカサカサと草を踏む足音が近づいてきた。
「岡谷さん、そろそろお食事の時間ですよ。お部屋に帰りましょうか」
夕食の時間が近づけば、決まって介護職員が迎えに来てくれる。普段ならおとなしく従って帰るところだが、この日は釣りに夢中で聞く耳を持たなかった。若い女子職員が困っているのを見過ごすわけにもいかない。
「岡ちゃん、ごめん。今日はもう営業が終わるんだって。それに、いまにも雨が降ってきそうだよ。だから、また次にしような」
田代はスマホを取り出して蛍の光を聴かせた。海釣り公園の営業終了時に、二人で一緒に聴いた音楽だった。清治は残念そうにリールを巻いた。
「岡谷さんの元の部屋に釣り道具のセットがあるんです。今度、息子さんが来た時に、今いる介護の部屋まで届けて欲しいんですが、あなたから頼んでもらえませんか?」
彼女は、「かしこまりました」と丁寧に頷いて、「来週の水曜日もお越しくださいね」と優しい笑みを浮かべた。
(お知らせ)
次回で最終回になります。第30話「お別れ」です。




