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第28話 帰還

 それにしても、岡谷清治が認知症を発症していたとは夢にも思わなかった。

「ほかにも何か情報はありますか?岡谷さんのことで、なんでもいいから、この際教えてください」

 支配人は自分の地位にこだわらず、覚悟を決めて訊いた。田宮は介護の知識が全くなく、ウェイトレスの立場で自分が知ったことをあれこれ職員に知らせるのは、個人情報保護の観点からまずいと思っていた。

 今話していることが清治の捜索に貢献するかどうかは分からなかったが、支配人を信じて、求められるままにささやかな情報でも伝えようと思った。

「そうですね、もう三か月も前のことなんですけど、自分はまだらぼけだよって自らおっしゃってました。新しいことが全然覚えられなくなったって」

 支配人は首を捻った。自分と面談した時は固い話ばかりだったのに、なぜ田宮厚子にはこんなに親密に話をしているのかが不思議だった。もう一度田宮厚子の丸くて目尻が下がった顔を見て、「遅くまで引き留めて申し訳なかった」と謝った。支配人は田宮を見送りながら、認知症の疑いがある岡谷が無事であることを祈るしかなかった。

 夜の十一時になって宏也がやってきた。自宅に一人でいると、いても立ってもいられなくなったからだ。案内された応接室の中で、支配人と田代が待機していた。

 二人とも疲労の色が濃かった。

「父が大変ご迷惑をおかけしております」

 宏也は深々とお辞儀をした。支配人が行方不明の経過説明を始めた時だった。

「キャッ、岡谷さん、どこへ行ってらしたんですか!」

 日勤の女子事務職員の叫ぶ声がした。彼女も清治のことが心配で帰宅せずに残っていたのだ。三人は飛ぶようにして応接室を出た。

 清治はロビーの入口で汚れた服を着て立っていた。寒さで生気を失い、頬の表面が固まって口を開け、よだれを垂らしている。ジャンパーと前が濡れたズボンに枯芝と薄茶色の枯葉がついていることから判断して、山か林をさまよったであろうことは誰にも察しがついた。

 清治は無言で近くのソファーに倒れ込んだ。

「誰か、タオルと毛布、温かい飲み物を持って来て!」

 支配人が興奮気味に早口で言った。

 夜勤の介護職員がタオルで顔を拭いて、温かいお茶をゆっくり飲ませたあと、当直医の指示で診療所のベッドに寝かせた。

 診察が始まって数十分後に、宏也だけが中に呼ばれた。幸い命に別状はないが血圧が高く、全身打撲と低体温で安静が必要なため、四、五日入院させて様子を見たいとのことだった。

「それと……」

 医師は険しい表情で続けた。

「お父さんはゴルフをしに行って、寝転がって、何かとても嫌な挨拶を見たとおっしゃっています。記憶が混濁しておられるようで、よく理解できませんでした。ご家族の方は無理して問い質さず、刺激しないようにお願いします」

 宏也は診療所の外で控えていた支配人と田代に同じ話を伝えた。田代は清治に一目だけでも会いたかったが、看護師に入室を断わられた。

 清治は入院二日目にハイ、イイエ程度の会話が可能になった。血圧が正常値まで戻って顔色は良くなったものの、皮膚が青紫色の部分の痛みは消えていなかった。結局、退院まで七日を要した。宏也が関係者にお礼の挨拶をして帰る際、支配人は自信あり気に言った。

「あとは安心して我々にお任せください」

 その言葉とは裏腹に、翌朝、早くも異変が起こった。

 一月だというのに、どこから引っ張り出してきたのか夏物の浴衣に半纏でレストランに現れて、ウェイトレスの田宮や入居者を仰天させた。

 それからしばらくは、介護職員が定期的に部屋を訪問して身の回りの世話をした。清治の日常に特別な異常は見られず、定期的に開かれるケア会議で、清治の情報は徐々に減っていった。

 だが、落ち着いて生活する日々はそう長くは続かなかった。桜が咲く時期になると、食事の予約をしないまま毎日同じネクタイにスーツ姿でレストランに行くようになった。しかも、ネクタイはきちんと結べておらず、大剣よりも小剣の方が長くなったりしていた。

 清治は介護職員の付き添いで精神科外来を受診して、中度の認知症だと診断された。介護部門の課長が宏也に報告をしたところ、次の日曜日に面会に来た。

 清治は宏也に向かって、「どなたですか?」と尋ねた。その日から、清治の暮らす部屋はケアセンターの介護個室に変わった。


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